<吉祥寺残日録>年の始めには大きなことを考えよう!「サピエンス全史」と司馬遼太郎の言葉 #210102

我が家のトイレには、前の年に訪れた海外で買ったカレンダーがかかっていた。

しかしコロナのせいで、去年は予定していた旅行をことごとくキャンセルしたため、やむをえず路線変更を強いられた。

今年のカレンダーは思い切り「和」に振り切った「二十四節気・七十二候 歳時記カレンダー」。

日々トイレでこれを眺めるだけで、日本の四季折々の習俗について学ぶことができるという趣向だ。

そこで1月2日の欄を見ると、「初夢」と書いてある。

今朝見た夢で覚えているのは、妙に心理学的な夢であった。

サファリのような広い原野に多くの草食動物がいて、そこに無数の肉食動物が襲いかかる。私はなぜか真上からドローンカメラで撮影したようにその光景を眺めているのだが、これまた不思議なことに草食動物が意外に強くて、ほぼ同数の草食動物と肉食動物が倒れていくのだ。

これは一体、何を意味しているのだろうかと、カレンダーを見ながら思った。

一富士二鷹三茄子。

私が見た初夢はさておいて、新年にあたって、今日はかなりスケールの大きな話を書き残しておこうと思う。

年末年始にテレビ番組をたくさん録画して次々に観ていた中に、こんな番組があった。

BS1スペシャル「衝撃の書が語る人類の未来〜サピエンス全史/ホモ・デウス」

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが書いた世界的ベストセラーをベースにして、人類誕生から250万年の歴史を独自の視点で読み解き、人類の未来までを描いた壮大な番組である。

ハラリさんが歴史を見つめる上での最大のテーマは・・・

「人類は幸福になったのか?」

王様の視点から描かれた従来の歴史ではなく、社会の発展によって人間は本当に幸せになったのか、今後幸福になっていくのかについて、庶民や動物の視点も交えて歴史を再検討しようというのがハラリさん独自のアプローチなのだ。

その結果、ハラリさんは、これまでの常識を次々に否定することになる。

たとえば・・・

男性が女性より体力が勝るから男性優位の社会ができるという考えを否定し、「人間の場合、体力と社会的権力はまったく比例しない」と断言し、60代が20代の若者を支配している現状を指摘する。

その上で、ホモサピエンスの歴史を3つのステージに分けて大胆に分析を加える。

7万年前の「認知革命」、1万2000年前の「農業革命」、その後の「人類の統一」だ。

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250万年前に地球上に誕生したホモ属はたくさんの種類に分かれていたが、その中でアフリカで生まれた一種族に過ぎなかったホモサピエンスだけが唯一生き残った。

ネアンデルタール人のようにサピエンスよりも脳が大きく力が強い種族もいたのに、なぜサピエンスが勝者となったのか?

その理由は「フィクションを信じる力」だとハラリさんは指摘する。

みんなが同じフィクションを信じる能力によってサピエンスは赤の他人とも集団で何かを成し遂げることができるようになった、これが「認知革命」だ。

「フィクションと信じる能力」は現代でもそこら中に見られる。

たとえば、会社やお金、国家・法律・正義・神などもすべて「フィクション」だとハラリさんは断言する。

言われてみれば確かにその通りだ。

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1万2000年前に人類は集団で畑を耕し穀物などを栽培するようになった。

これを「農業革命」と呼ぶ。

従来はこれによって食糧事情が安定し人口増加につながり、人類は幸福になったと考えられてきたが、ハラリさんの説は真逆だ。

農業革命によって人類にもたらされたのは、「長時間労働」「飢餓」「貧富の差」だと断言する。

『食料の増加は、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は史上最大の詐欺だったのだ』

農業とは王様の視点から考えると良いものだが、農民の視点から見れば階級社会と搾取の始まりに過ぎず、農地争いの戦争をもたらし、人間本来の体の特性に合わない動きをすることで健康問題も引き起こした。

さらに、ハラリさんのユニークなのは、人間ではなく穀物の側からも歴史を見ようとすることだ。

『私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ』

人間が穀物の世話を生業とし、その生産地を広げることは、穀物にとってはとても都合の良いことだというわけである。

『何百万もの人達がコメの世話以外に何もしなくなったのです。ですから人間を家畜化したのはコメであり、人間がコメに尽くしているということになります』

確かに生物学的にはそういう見方もできるだろう。

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そして、農業革命による人口爆発は、より大きな集団を作るというグローバル化の方向へと進んだ。

『世界に存在する巨大文化の数は次第に減り、そうした巨大文化のそれぞれがますます大きく複雑になった』

やがて、3つのフィクションが「人類の統一」への扉を開いたと、ハラリさんは言う。

「宗教」「貨幣」「帝国」の3つだ。

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まずは宗教。

『社会秩序はすべて想像上のものだからみな脆弱であり、社会が大きくなればなるほどさらに脆くなる。宗教が担ってきたきわめて重要な歴史的役割はこうした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ』

紀元前18世紀に書かれた世界最古の法律書「ハンムラビ法典」にもこうある。

『メソポタミアの神々が、この地に正義を行き渡らせる任を私に負わせた』

つまり「神」という絶対的な権威を持つフィクションを作ることによって王の権威を正当化し、国民を従えることができるようになったというわけだ。

これは日本を含めどの国でも当てはまる事実であり、大いに納得できる。

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そして人類の統一を絶対的なものにしたのは「自分たちの神だけが正しい」と信じる一神教の登場だった。

『過去二千年にわたって一神教信者は暴力によってあらゆる競争相手を排除することで、自らの立場を繰り返し強めようとしてきた。これが功を奏したグローバルな政治秩序は一神教の土台の上に築かれている』

この説にも、素直に同意できる。

歴史を少し知れば、自明のことであろう。

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人類統一の鍵となる次なるフィクションが「貨幣」である。

『貨幣は人間が生み出した信頼制度のうちほぼどんな文化の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで見ず知らずで信頼しあっていない人どうしでも効果的に協力できる』

イデオロギーが違っていても同じように信じることができる貨幣は「最強の征服者」だとハラリさんは呼ぶ。

貨幣経済の進展に伴って、「信用」というフィクションも生まれた。

『人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「クレジット=信用」と呼ぶようになった』

この「信用」を成立させたのは過去500年間にわたる経済成長であり、海外領土に進出したり、新しい発明によって全体のパイを大きくしていくという資本主義の考え方が成立したためだという。

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資本主義は、境界線を自在に変え無尽蔵の欲を持つ「帝国」と結びついて、人類を統一へと導いていく。

『帝国は、自らの基本的な構造もアイデンティティも変えることなく、次から次へと異国民や異国領をのみ込んで消化できる。現在のイギリスの国境はかなり明確だが、一世紀前には地球上のほぼどんな場所でも大英帝国の一部になりえた』

確かに、日本だって大英帝国の一部になっていてもおかしくはない。

たまたま当時の日本が武士の支配する国だったため戦うことを選択し、自らも帝国主義国家に生まれ変わる道を選んだことによって植民地化を免れたとも言える。

もし日本が大英帝国に飲み込まれていたら、日本人ももっとうまく英語を話していただろうか?

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そしてハラリさんは、『資本主義は世界を征服した唯一の宗教』だと言う。

『キリスト教やイスラム教、仏教は皆が信じているわけではありませんが、今日誰もが資本主義を信じています。共産主義をかかげている中国人は世界の誰よりも資本主義的です。そして資本主義の主な信念は、経済成長なのです』

中国人が世界一資本主義的なことは私も以前から考えていたことだが、資本主義と宗教を同列で論じる発想はなかった。

どちらもフィクションと考えれば、まさに資本主義と宗教は同列なのだろう。

こうして物質的な豊かさを手に入れ、寿命も伸びてきた人類だが、新たな問題に直面している。

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たとえば国家によって保証されない仮想通貨は、フィクションである「金融」が生み出したさらになるフィクションだと言う。

『21世紀には人類全体の歴史をグローバルに見る視点が必要です。なぜなら21世紀の大きな問題はすべて本質的にグローバルなものだからです。地球温暖化、世界的な格差、あるいは世界を完全に変えてしまうAIなど新たな技術の台頭は、全て世界的な問題なのです。国単位だけで考えていたら21世紀の問題は解決できないでしょう』

歴史をグローバルに見る重要さは、日本の近現代史を語る上でも極めて重要だと感じる。

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そのうえでハラリさんは最後にこう語った。

『本の中で私が問いかけているのは「幸福」という哲学的な問題です。人間は幸福になったのか? 2万年前よりも私たちは幸福なのか? ということです。

ほとんどの歴史書が、国家がどれだけ権力を得たかについてだけ書かれていて、「幸福」という問題を軽視してきました。しかし「幸福」という視点がなければ歴史における重要な問題について理解することはできないのです。権力は必ずしもより良い世界を創り、人々を幸せにするものではないということを認識しなければなりません。歴史を見ると、人間は権力を大きくするのは得意ですが、それを幸福に替えるのはうまくありません。ですから、現代人は石器時代より何千倍も力を持っているにも関わらず、2〜3万年前と比べてそれほど「幸福」には見えないのです。

私たちは歴史から自信も警告も得られるのです。人類の決断は常に良い結果を生み出してきたとは言えません。時にとてもおろかで無責任な行動をとる危険もあります。それでも賢明な行動を取れるのが人類ですから私たちに希望はあります』

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そして未来はどうなるのか、ハラリさんは大胆な予測を語った。

『今、人類は神の能力を手にしようとしています。

10万年前、アフリカにいるただの類人猿にすぎなかった私たちは自らを動物から神へとアップグレードしているところなのです。私たちは神になろうとしているのです。これは比喩ではありません。

これまで死を乗り越えられるのは神だけだと思われていました。しかし今、それを実現するのは技術者だと信じられています。老化と死のプロセスが理解できればそれを操作できると考えられています。そして少なくとも一部の人達は死なないでしょう。彼らは神のように永遠に生き続けるのです。

この先、近い将来、人類は外見だけではなく内面も変えてしまい、史上初めて体や脳、精神を大幅に変化させることになるでしょう。人類はバイオテクノロジーやAIを使って、今の私たちとは別のものに生まれ変わるのです』

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『革命が起こるまでにこれまでは何千年もかかったものが、これからはほんの2〜30年で起こるかもしれません。

どんな新しい技術にも正と負の可能性があります。20世紀には産業革命によって列車や電気、ラジオ、テレビ、自動車が発明されました。その発明品を使って共産主義的な独裁政権を創ることも自由主義的な民主体制を創ることもできました。

21世紀も同じです。特に重要な新しい技術、バイオテクノロジーとAIは良い事にも悪い事にも使えます。良い社会も、ディストピアも創り得ます。賢い選択をするか否かは私たち次第です。私たちはいま歴史上最も重要な選択を迫られているのです』

さすがにユダヤ人は頭がいい。

私が漠然と抱いていた問いに、実に明確な分析を与えてくれた。

「私たちホモサピエンスは、フィクションを作り出しみんなで信じる力を持ったことによって地球上の覇者になり、ついに神になろうとしている」というハラリさんの歴史観。

2021年の年頭にまずはしっかりと頭に刻んでおきたいと思う。

もう一つ、新年に心に刻んでおきたい言葉がある。

今読んでいる司馬遼太郎著「街道をゆく・韓のくに紀行」の中に出てくる興味深い一節がある。

こちらはもう少し身近な、私たち日本人と「文明」について書かれたものだ。

司馬さんの言葉をちょっと引用しておきたい。

話題を、わずかに転ずる。時の「倭」の習俗についてである。このことについてはさきに多少ふれた。つまり、中国体制や朝鮮の李朝体制の原理である儒教(礼教)のそとにいる民族であることをのべた。

江戸っ子の気っぷは「五月の鯉の吹流し」などといわれるが、中世末期の倭というのはじつにそのようなものであった。褌一本に大刀をふりまわして駆けまわる姿はどうみても儒教的ではない。ついでながら儒教というのは朱子や何やらの学者の間でこそ思想だが、しかし体制としては「礼教」という瑣末な形式主義にすぎず、人間を一原理でもって高手小手に縛りあげ、それによって人間の蛮性を抜き、統治しやすくするという考え方である。これを文明といってもいい。あるいは文明というのはそういうものかもしれない。

引用:「韓のくに紀行」より

なるほど、と思った。

『人間を一原理でもって高手小手に縛りあげ、それによって人間の蛮性を抜き、統治しやすくするという考え方である。これを文明といってもいい。』

文明というのは、本来の人間性を縛って、統治しやすくすることだと考えれば、「文明=進歩=善」とばかりは言えないのだと思えてくる。

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司馬さんはさらに、こんなことを書いている。

たとえば新中国にあってさえ、このことに変わりはない。毛沢東思想によって生活のすみずみまで律してゆくという中国のふしぎさを、なにかかんちがいしてやたらに悪口を言ったり、逆にむやみに感動したりする現代倭人がいるが、それが中国文明というものの当然なありかたなのである。

中国のような巨大国家をまとめ上げるためには、古来よりこうした「文明」が必要だった。

それが極端に触れると「文化大革命」のような混乱に陥るのだが、習近平さんが今やっている政治は、日本人から見ると恐ろしい統制に感じるがこれこそが中国伝統の「文明」なのかもしれないと、ふと思った。

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では島国の日本はどうかと言えば、司馬さんはこのように書いている。

日本には文化・・・たとえば平安文化や室町文化、もしくは元禄文化・・・がきらびやかに存在したが、かつて文明を興すことがなかった。そのため「倭」というわれわれにはどうも「文明」ということが体質的によくわからないぐあいにできている。

これは決して欠点ではなく、文明というのは元来荷厄介な面もあり、そのことは中国の儒教文明の末期をみても、あるいはインド文明と回教文明にこんにちなお押しひしがれているインド民族をみてもわかる。

その点からいえば、倭は元来、素っ裸の褌一本なのである。

そのときどきによって、インドから法服を借りたり、中国から宮廷の衣冠束帯を借りたり、明治後は西洋から洋服を借りたりしてきた。たとえばビッピーというあたらしい秩序と価値観という文明が世界の一角におこると、さっそく新宿にヒッピー・スタイルの青年があらわれるのである。それが倭人というもので、文化は興すが、決してみずから文明というこのおそろしいものを興そうとはしない。

『倭は元来、素っ裸の褌一本』

『文化は興すが、文明は興さない』

そういわれると、日本人として妙に納得するところがある。

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日本人は喧嘩の時になぜか「諸肌を脱ぐ」。

身を守るためなら防具を着込んだ方が有利だが、日本人はなぜか自らの肌を晒すのだ。

自然災害などですべてを失っても「裸一貫から出直す」と言って諦めずに頑張る。

そして、温泉を愛し、「裸の付き合い」を昔から大切にしてきた。

これはひょっとすると日本人の中に眠る南方の血によるものなのかもしれないと司馬さんの本には書かれていないことを勝手に想像した。

日本人のご先祖様は、島伝いに南方からやってきて、朝鮮半島から渡ってきた北方系の民族と混じり合って日本人の原型ができあがった。

自然と共生する裸の文化は南方から、稲作や仏教・儒教、律令などは朝鮮半島から日本列島に人間の移動を伴って流れ込んだのだろう。

大陸で「黄河文明」が勃興し激しい戦乱が始まっても、日本列島では縄文文化ぐらいで十分みんなが呑気に暮らすことが可能だった。

まさにハラリさんが定義した「農業革命」の前と後の違いだ。

そう考えて、一人一人の人間の視点から眺めると、中国人よりも日本人の方が長い間「自由」を享受できたと言えるかもしれない。

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2028年にも、中国のGDPがアメリカを抜くとの予測も年末に流れていた。

私の頭の中では、コロナ後に世界の覇者に成長する習近平体制を過度に警戒する気持ちが芽生えているが、それは日本が力で中国に対抗しようと考えるせいかもしれない。

『倭は元来、素っ裸の褌一本』

無駄なものを削ぎ落とし、素っ裸でも柔軟にしぶとく頑張れる日本人の個性を再認識して、その特性を磨いていく。

それこそが、コロナ後の日本にとって大事なことではないかと感じたことも、2021年の元旦に書き残しておきたいのである。

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