<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺 英雄たちの選択「100年前の教育改革〜大正新教育の挑戦と挫折」 #210530

昨日5月29日は歌人・与謝野晶子の命日だった。

与謝野晶子といえば少し前、興味深いテレビ番組を見た。

NHKのBSプレミアムで放送中の「英雄たちの選択」。

私が欠かさず見ている番組だが、先日見たのは昔の再放送だったらしい。

タイトルは「100年前の教育改革〜大正新教育の挑戦と挫折」。

この中に、与謝野晶子が登場したのだ。

今日から見ても先進的な印象を受ける大正時代の新しい教育運動について、この番組に沿って記録していきたいと思う。

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明治5年(1972年)に始まった日本の近代教育は、新国家建設に欠かせない緊急課題だった。

全国の子どもたちに効率的に新しい知識を学ばせるため、全国一律の「一斉教授」という方法が取られた。

いわゆる「詰め込み教育」である。

江戸時代の寺子屋では、子どもたちは思い思いの場所に座り先生が一人一人に個別指導をしていたが、明治の教育では生徒の個性は一切顧みられなかった。

図画の授業では、子どもたちが描きたいものを描くのではなく、お手本を忠実に書き写す技能が求められた。

作文の授業でも、大人が書いた例文を子どもたちはただ書き写すだけ。

子どもの個性を押さえ込み、標準的な型にはめ込もうとする画一的な明治の教育が出来上がった。

しかし、日露戦争に勝利し世界の一等国の仲間入りを果たした日本では、大正の世に変わり大きな変化が訪れる。

人間が制度に支配される違和感。

機械的にやれと言われたことを甘んじて真面目にきちんとやるけれど、そういうやり方が自立した人間を作るのか? 豊かな社会を作るのか? と疑問になってきたのだ。

そして「大正新教育」と呼ばれる草の根の教育運動が盛り上がる。

山田耕筰、竹久夢二、芥川龍之介、鈴木三重吉・・・。

その時代に大きな影響力を持っていた文化人たちが教育運動に参加する。

中でも鈴木三重吉が創刊した童話雑誌「赤い鳥」は、大正の社会に大きな影響を与えた。

鈴木は、すべての子どもたちには「純性」が備わっており、その秘めた力を伸ばすのが新時代の芸術家の使命だと訴え、それに共鳴した人気作家たちが「赤い鳥」に執筆した。

北原白秋の「この道」や芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、これらも「赤い鳥」で発表された作品で、それを強く支持したのが都市部で急増した「新中間層」と呼ばれる裕福な人々だった。

サラリーマンと呼ばれるようになるこの「新中間層」のニーズに応えようと、鈴木が始めたのが「綴り方(自由作文)」の募集だった。

子どもたちから毎月2000通以上の綴り方が届き、その影響は学校教育にも及び、熱心な教師たちは自由作文を授業に取り入れるようになっていった。

「赤い鳥」は子どもたちが好きな絵を描く自由画運動も始め、それも全国に広がっていく。

こうした「大正新教育」が生まれた背景には、江戸時代の「寺子屋」の復活という側面があるとともに、明治44年に起きた「大逆事件」の影響もあるという。

明治天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水らの社会主義者が処刑されたこの「大逆事件」によって、自由に物が言いにくい社会の空気ができあがる中で、作家たちは文学や教育で社会を変革しようとしてこの運動が起きたと作家の高橋源一郎さんは考えている。

作家の与謝野晶子も、そうした「大正新教育」に情熱を傾けた一人だった。

大正10年(1921年)に東京・神田に創設された「文化学院」、晶子は建築家の西村伊作とともにこの学校を立ち上げた。

中高一貫の女子校として生徒33人でスタート、創立3年目には中等教育としては日本初の男女共学を実現した。

教師経験のない芸術家によって創設された「文化学院」は『個性の教育』をモットーとし、制服を廃止した。

黒い制服の学生たちは一見して鴉の群れと似た印象しか受けません。其処には人間の塊があるばかりで人間の個性の象徴がありません。

与謝野晶子「学生の制服」より(英雄たちの選択)

「文化学院」では体育を廃止し、ダンスの授業を取り入れた。

磨くべきは競争心よりも表現力。

晶子は教師の人選にもこだわり、川端康成、平塚らいてう、吉野作造、萩原朔太郎、寺田寅彦、山田耕筰、小林秀雄ら超一流の素人教師たちが教壇に立った。

晶子も自ら、生徒たちが書いた短歌の添削を行った。

良妻賢母の育成が求められた当時の女子教育に対し、晶子の考えは・・・

「完全な個人」を作ることが唯一の目的です。人間は何事にせよ自己に適した一能一芸に深く達してさえいれば宜しい。

与謝野晶子「文化学院の設立について」より(英雄たちの選択)

「一能一芸」に秀でた多様さの総体として国家社会が成り立つという考えが面白いと歴史学者の磯田道史さんも語る。

与謝野晶子の「文化学院」を始め、大正時代にはユニークな私立学校が次々に生まれた。

「大正新教育」を牽引したのはこうした個性豊かな私立学校で、自学自習を促した「成城学園」(1917年創設)、全人教育に力を入れた「玉川学園」(1929年創設)、家庭と学校の融合を掲げた「自由学園」(1921年創設)。

さらには公立学校でもユニークな授業法で名を知られる有名教師が登場する。

明石女子師範学校附属小学校の主事・及川平治もその一人だ。

及川は「動的教育法」を実践し、サツマイモを煮る作業を子どもたちにさせることで熱伝導などの原理を学習させた。

まさに現代の「アクティブラーニング」の先駆けだった。

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しかし大正時代に広まった学歴社会が定着し、受験戦争を勝ち抜くために私立学校の中には受験予備校化するところも増えていく。

昭和に入ると教育の国家による統制は強まり、自由作文も弾圧の対象となり、「生活綴方事件」(昭和15〜17年)では300人もの教師が逮捕された。

「文化学院」も国家との関係で内部対立が起きる中で、晶子は昭和17年63歳の生涯を閉じた。

そして翌昭和18年、「文化学院」は強制閉鎖に追い込まれてしまったのだ。

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時の政治によって大きく影響される教育の世界、先が見えない21世紀の世界を生きていくために必要な能力とは何か?

11人もの子供を育てた与謝野晶子が情熱を燃やした「大正新教育」。

100年前の日本に登場した一能一芸に秀でた子どもを育てる教育は、21世紀に最も必要とされる教育だったのではないか・・・そんなことを感じた。

教育がますます重要となる時代が始まるのだ。

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