<きちたび>大連3泊4日の旅①  かつて満州国があった土地に初めて足を踏み入れる

「満州国」は、ある時代の日本人にとって夢の国であった。島国の住民にとって初めて手に入れた植民地であり、それを守り抜くことは何事にも優先された。

そんなかつて「満州国」だった土地に、私は初めて行ってきた。

多くの日本人が船で大陸に渡った街・大連、乃木将軍を英雄にした旅順、そして朝鮮と満州を繋いだ国境の街・丹東。

「地球の歩き方」とともに一冊の中公新書を持って行った。

古屋哲夫著「日露戦争」。50年以上前に書かれた本で、古屋氏は当時京都大学の名誉教授だった。その本の冒頭には、こんな一節が書かれている。

 

『「20万の将兵の血でかちとった満州を失うな」というスローガンが、ことあるごとに繰り返され、この衝動的な叫びは、政治における合理的判断を妨げ続ける。』

「20万の将兵の血でかちとった満州」。

太平洋戦争に突き進んだ近代日本を理解するための一つの鍵は満州にある。

 

成田から大連までは2時間あまり。沖縄に行くのと変わらない。

飛行機は、ソウル上空を通過すると、西に旋回して海に出る。北朝鮮上空を避けるためだ。

IMG_5249

雲の下は北朝鮮。ちょうど金正恩氏がいる平壌あたりだ。

IMG_5257

大連空港は、中国の空港にしてはコンパクトな印象だ。空港の周囲には、同じ形をした洋風の住宅が立ち並んでいた。中国はどこへ行っても、同じような住宅が驚くほど大量に供給される。人ごとながら、こんなに作って需要があるのだろうか、メンテナンスは大丈夫なのかと心配してしまう。

IMG_5261

空港駅から地下鉄2号線に乗る。中心街までは4元、およそ70円だ。

IMG_5262

大連では3年前に地下鉄が完成したばかりで、車両はまだ新しい。そして、中国の地下鉄にしては乗客も少ない印象だ。

IMG_5266

降り立った駅は「中山広場」。

ロシアが計画し、日本の手で建設された大連は広場の街だ。その中でも最も美しいと言われたのがこの中山広場。日本統治時代には「大広場」と呼ばれた。

IMG_2836

広場の南側に立つのが、1914年に建設された旧ヤマトホテルだ。

そして、直径213mの広場を中心に10本の道路が放射状に伸びている。まるでパリの凱旋門広場を思わせる作りだ。それもそのはず、寒村だったこの場所に港の建設を計画した帝政ロシアは、パリを模した計画都市を設計した。その後、日露戦争で大連を手に入れた日本が、ロシアの設計図をもとに実際に都市建設に当たった。

つまり大連は、もともと満州人(清)の土地に、ロシア人が計画し、日本人が建設し、戦後は多くの漢民族が移住した中国の都市ということになる。

IMG_2835

広場の北側に立つのは、中国銀行のバロック様式の建物。

IMG_2839

こちらも日本統治時代の1909年建設の旧横浜正金銀行大連支店だった。

このように大連の街には、満州国時代の面影があちらこちらに残っている。それを求めて日本からやってくるのは、やはり高齢者が圧倒的に多いという。

戦前、満州には150万人もの日本人が暮らしていて、ここで生まれた人も多い。そして兵隊さんとして満州に送られ、終戦後着の身着のままの状態でこの大連から帰国船に乗り込んだ人たちも多かったようだ。

IMG_2881

街には旧型の路面電車が今も走り、遠い過去の出来事を私たちに想像させる。

この路面電車に乗って最初に訪ねたのは・・・

IMG_2882

日本の満州統治の中核を担った満鉄(南満州鉄道株式会社)の本社。

今は「大連満鉄旧址陳列館」として一部見学客に開放されている。といっても、訪れるのは日本人ばかりのようで、日本語を話す中国女性が案内してくれる。入場料として1人50元取られる。

IMG_2873

2007年、満鉄100年を記念して、復元と開放が行われたのだという。

もともとロシアが建設した建物ということで、内装もロシア風のきらびやかさだ。

IMG_2862

2階のホールを改装して陳列館にし、満鉄や日本統治の歴史を写真パネルで展示しているのだが、残念ながら撮影禁止だ。

IMG_2864

ちょっとインチキして、1枚だけ写真を撮らせてもらったが、満鉄の機関車は今でも格好いいと思ってしまう。技術者の夢が詰まっているのがビンビン伝わってくる。

この展示の説明をする中国人女性は、日本人客に対して日本の悪事について一切説明はしなかった。しかし、中国語で書かれたパネル展示の中には、明らかに日本を糾弾するような内容が含まれていることは写真や説明書きの漢字を見ればすぐわかる。もし中国人客が来たら、日本人に対する説明とは違う案内をするのだろう。

IMG_2871

「野蛮掠奪中国財富、搾取中国人民血汗」など日本人にもわかる表現がある。しかし、この文章については一切触れられなかった。

これも、日本人に不快な想いをさせないようにとの、中国側の配慮なのだろうか。

IMG_2868

別室には、満鉄の路線図が展示されていた。

太平洋戦争研究会編「[写説]満州」には東京からの直通列車の話が出ていた。

『東京(午前8時30分発)〜下関〜関釜連絡船〜釜山〜京城(現ソウル)〜新義州〜鴨緑江鉄橋を通過〜安東〜奉天(2日後の午後9時55分着)の特別急行列車が週3回運行されるようになった。』

これを見ながら、つい先日このブログに書いた「ユーラシア特急」の構想と重なった。南北融和が進めば、ソウルや釜山から北朝鮮、中国を抜け、ロシア・ヨーロッパに繋がる鉄道路線が開設できるという韓国政府の構想だ。日本統治時代には、実際に釜山から満州に至る鉄道網が運行されていたのだ。

そして同じ部屋でこんな物が売られていた。

IMG_2866

ガラスの切子だ。

切子の技術は日本人が大連に持ち込んだ。そして大連では今も切子が作られている。中国では切子と言えば大連なのだそうだ。

そしてここに並んだ切子グラスの底には満鉄のマークが刻まれている。この切子を売った収益は、施設の改修費用に当てられるのだという。

IMG_2872

この街は明らかに中国の街なのだが、所々にはっきりと日本の影が残っている。

IMG_2887

そして最初にこの街を築いたロシアの影もはっきりと刻まれている。

観光地化され、ちょっと胡散臭くなったロシア人街。

IMG_2894

知らぬ間にタイムスリップして、過去と現在、中国とロシアと日本が混じり合う。不思議な感覚に襲われる街だ。

IMG_2886

古屋哲夫さんは「日露戦争」のはしがきで、次にように書いている。

『日露戦争は、日本の近代の決定的な曲り角であった。帝政ロシアの南下におびえ、せめて朝鮮だけでも支配したいと望んでいた日本は、この戦争によって、一躍朝鮮と満州に植民地をもつことになった。

日本にとってもまた、植民地支配をどうするかという問題が、以後の歴史をもっとも基本的に制約してゆくことになる。この問題を除いては何事も解決できなくなったといってよい。とくに満州問題は、日本の植民地問題の中核に据えられた。満州を失えば、朝鮮をも失うに違いないという意識は、日露戦争直後からすでに支配的になった。朝鮮の民族的な抵抗に悩まされ続けた日本の支配層は、朝鮮を植民地として確保するためにも、満州支配を強め、拡大しなければならないと考えた。』

『歴史はとかく、人の心を感動や憤激のうずまく感情の世界へ誘い、イデオローグたちは、歴史を大衆操作のために利用することを好む。第二次大戦で敗れるまで、奉天占領の日が陸軍記念日とされ、日本海海戦の日が海軍記念日とされたように、日露戦争は近代日本の「栄光」のシンボルであった。

明治維新百年を目前にし、高度成長をなし終えた現在の日本にあって、過去の「栄光」への郷愁の心が起こるのも、ある意味では自然であるかもしれない。しかし歴史とはしょせん過ぎ去ったものであり、過ぎ去った「栄光」への「熱狂」を誘うのは反動の誘いにほかならないであろう。醒めた心をもって歴史をみ、われわれ自身の中にある「過ぎ去ったもの」、現在を拘束している歴史の力を確認することが、歴史をふりかえることの意味というべきではあるまいか。』

IMG_2844

この本は、今から50年ほど前の1966年、明治100年の節目を前に初版が出版された。

それから50年あまりが経ち、今年は明治維新150年の年だ。古屋さんの言葉は、なんと今の時代にもぴったりと響くのだろうか。

「醒めた心で歴史を見る」ことの重要さはいつの時代にも忘れてはならない。私も「醒めた心」を持って満州国に接してみたいと思っている。

 

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

 

コメントを残す