<きちたび>アラビア半島の旅2023🕌サウジアラビア🇸🇦 “時価総額世界一”の国営石油会社「サウジアラムコ」の本拠地ダーラン

バーレーンから陸路でサウジアラビアに入国し、最初に着いた街がアル・コバールだった。

バスを降り、とりあえずタクシーでも拾おうと大通りに出た。

この町は石油が発見された後、その積み出し港として発展するが、北部のラスタヌラに巨大な港が整備されて以来、住宅街やリゾートタウンとして洗練された街並みを作り上げてきた。

私がこの地に来た理由は、時価総額でアップルを超える世界一の大企業となったサウジアラビアの国営石油会社「サウジアラムコ」の本社があるダーランに行くためだった。

ダーランとアル・コバール、そしてサウジアラビア東部の中心都市ダンマンは一体化した大都市圏を形作り「トリプレットシティ」と呼ばれている。

しばらく大通りでタクシーを待ったが、全くタクシーの姿が見えない。

おまけにサウジアラビアに入国した途端に、スマホでの通信ができなくなりGoogleマップが使えなくなってしまった。

これでは自分の現在位置さえ特定できないので、タクシーを捕まえても行き先を伝えることが困難だろうと判断し、とりあえず通り沿いにスターバックスの看板を見つけたので、コーヒーでも飲みながらWi-Fiを使って居場所を確認したいと思った。

するとその時だ。

反対車線から1台のタクシーが私に「こっちに来い」と手招きしているではないか。

しかし、サウジアラビアも完全な車社会で歩行者が道路を渡ることを全く考えていないため、この大通りを横断するのは自殺行為に思えた。

すると、タクシーは諦めて走り去ったかと思ったら、10分ほどして反対側から私のところまでUターンして帰ってきたのだ。

サウジアラビアのタクシーはみんな緑色をしていることをこの時知った。

運転していたのはパキスタン出身のヤセムさんだ。

反対車線で私が呆然と道端で立っているのを見つけ声をかけたが反応がないので、Uターンして反対車線まで来たということのようだ。

ただサウジアラビアの道路というのはとにかく不親切で、Uターンできるところまで何キロも真っ直ぐに走らなければならず時間がかかったのだ。

ヤセムさんのタクシーにはWi-Fi機能があるらしく、私のスマホをWi-Fiに繋ぎGoogleマップで行き先を示せと言う。

なんと言うことだ、私のスマホが復活した。

私が目的地への経路を示すと、ヤセムさんは私のスマホを取り上げて日本語のアナウンスが読み上げる道順を目で追いながら目的地まで私を連れて行ってくれた。

私が行きたかったのは、この不思議な形をした建物だった。

ダーランにある「キング・アブドゥラアジーズ・センター・フォー・ワールド・カルチャー」、通称「Ithra」。

サウジアラムコが2017年にオープンした文化施設である。

途中、湾岸戦争の際の米軍の出撃拠点となった広大な「ダーラン空軍基地」の脇を通ったが、残念ながらスマホを預けたままだったので撮影ができなかった。

それはとにかくよくわからない施設だった。

巨大な岩石を組み合わせたような独特のフォルム、周囲は小高い丘のようになっていてサボテンなどが植えられている。

正直、ここに何があるのかよく知らなかったのだが、この施設がある一帯がサウジアラムコの本拠地だと聞いて行ってみようと思った。

入口を探して彷徨うと、巨大なサウジアラビアの国旗が掲げられていた。

原油の生産量だけでなく、保有原油埋蔵量、原油輸出量でも世界最大であるサウジアラムコは、サウジアラビアの国営企業であり、この国の富の源泉なのだ。

ようやく入口を発見した。

光が少し順光となり、独特の縞模様も確認できたが、こうして見れば見るほど変な建物である。

果たして内部には何があるのか、早速入ってみることにする。

入口を入ると、巨大サイネージが出迎えてくれた。

しかし映し出されているのは抽象的なグラフのみで、案内的な要素は見当たらない。

そのまま人のあまりいないロビーを進むと、博物館の入り口があった。

何の博物館かはわからないがとりあえず一番最後にアラムコのコーナーがあると言うので入ってみた。

入場料は35リアル、およそ1260円だ。

展示はスロープを下るように配置されていて、基本的にはアラブの歴史を年代順に紹介するような構成になっていた。

古い時代のコーランやアラブの工芸品などが展示されている。

サラブレッドの祖先であるアラブ種の馬も展示されている。

現代のサラブレッドは全て「三大始祖」と呼ばれる3頭の種牡馬の子孫なのだそうで、その三大始祖はみんなアラブ種なんだそうだ。

そしていよいよ最後のコーナー。

ここが「サウジアラムコ」の歴史を展示している部屋なのだが、その内容は非常に簡単なもので正直ガッカリしてしまった。

展示内容も写真が中心で、その写真にもきちんとした情報は記されていない。

そこでこの部屋の展示物の写真を使いながら、ウィキペディアなどをもとに「サウジアラムコ」の歴史を少し勉強しておくことにする。

サウジアラムコの歴史は1933年5月、アメリカの石油会社「スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(SOCAL)」の子会社「カリフォルニア・アラビアン・スタンダード・オイル・カンパニー(CASOC)」がサウジアラビア国王との合意署に署名し、石油の採掘権を手に入れたところから始まる。

当時のサウジアラビアは、建国の父であるアブドゥルアジーズ・イブン・サウードがアラビア半島全域をほぼ掌握し、1932年にサウジアラビア王国を建国した直後で、国の収入はメッカを訪れる巡礼者たちが落とす金に頼っていて貧しかった。

そのためCASOCは、毎年5,000ポンドと、石油が出た場合にその収入で返済する50,000ポンドの貸付というわずかな対価で利権を手にすることができた。

そして1938年、現在ダーランと呼ばれるこの地で世界最大の埋蔵量を誇るダンマン油田を掘り当てる。

CASOCは1944年、社名を「アラビアン・アメリカ・オイル・カンパニー(ARAMCO)」、すなわち「アラムコ」に変えた。

ただ、油田発見までにはさまざまな紆余曲折もあった。

1908年ペルシャ北西部で中東初の油田が見つかった時、アラビア半島には石油はないというのがコンセンサスだった。

こんな中、最初にアラビア半島に目をつけたのはニュージーランドの鉱山技師フランク・ホームズだった。

1923年ホームズはまだアラビア半島統一の戦いを続けていたイブン・サウードから半島東部での石油探査の許可を得る。

さらに1925年にバーレーンでの探査許可も得た彼は、この利権に興味を示す石油会社を求めてアメリカに渡った。

当初ガルフ・オイルが支援を申し出るが、当時は「レッドライン協定」というルールがあり、この取り決めに加入しているガルフ・オイルは他の石油メジャーの同意なく新たな油田開発ができなかった。

そこでやむなく利権をSOCALに譲渡、1932年、アメリカの技師たちはまずバーレーンで油田を発見したのだ。

これでペルシャ湾岸での石油調査は一気に加速し、翌年SOCALはサウジアラビアから「60 年間、約 930,000 平方キロメートルの土地の探査権」を獲得する。

こうしてヨーロッパ勢が主導権を握っていた中東での油田開発に、アメリカが重要なプレーヤーとして参入することになり、サウジアラビアはその最大のパートナーとなった。

サウジアラビアから産出される原油の量はどんどん増え、パイプラインの整備やラスタヌラ製油所の建設も進み、サウジアラビアは次第に豊かになっていく。

そして1950年、アラムコとの間で利益を折半する協定が締結された。

1960年には石油輸出国機構(OPEC)が誕生し、サウジアラビアは名実ともに産油国のリーダー的存在となっていく。

アラブとイスラエルの間で中東戦争が繰り返された1960〜70年代、多くの産油国が石油産業の国有化を進める中、サウジアラビアは欧米との協調を維持しつつじっくりとアラムコの取り込みを図っていった。

そして1988年11月8日、アラムコの完全国有化が実現し、新たな国営石油会社は「サウジアラムコ」と名称変更した。

2019年12月、サウジアラムコがサウジ証券取引所に株式を上場すると、その時価総額はたちまちアメリカのAppleを上回り世界一の企業となった。

ムハンマド皇太子が進めたこの株式公開によって、サウジアラビア政府は294億ドル(約3兆2230億円)の資金を調達することになり、石油に頼らない国づくりのためにこの資金を投資すると見られている。

最新の時価総額ランキングでは再びAppleが世界一に返り咲いているが、サウジアラムコは依然、マイクロソフトやアルファベットというITの巨人を凌駕し世界2位の地位を守っているのだ。

あまり得るところのなかった博物館見学を終えて、再び建物の外に出た。

別角度から見ると、ますますその異様さがわかる。

せっかくなので、この奇異な建物の周囲をぐるりと回ってみることにしたのだが、ここは小高い丘になっていて、平坦な大地をわずかながら俯瞰することができた。

東の方向を見ると、ハイウェーの向こうに2基のタンクが見える。

南の方向を見ると、これまたヤシの木の向こうに何基ものタンクが見える。

そう、この文化施設は広大なサウジアラムコの敷地の中に造られていて、周囲は全てサウジアラムコの土地なのだ。

そしてこの中に、世界企業「サウジアラムコ」の本社もある。

この施設からタクシーでホテルに向かう途中、道路に沿って二重の鉄条網が張り巡らされ、所々に従業員が通るゲートが設置されているのが見えた。

あいにくスマホを運転手に取られていて写真が撮影できなかったが、あの厳重に警備されたアラムコの本拠地は、企業というイメージとはかけ離れまるで軍事施設のような印象を私に与えた。

そして1990年、イラクがクウェートに侵攻しサウジアラビアの国境に迫った時、アメリカは迷うことなく湾岸への軍隊の派遣を即決した。

あの時アメリカが守ろうとしたのはイギリスの影響力が強いクウェートではなく、アメリカの同盟国サウジアラビアだったことは間違いない。

そしてアメリカとの関係が深い「サウジアラムコ」の本拠地、ここダーランが米軍の出撃拠点となった。

本当はあの鉄条網の中に入って、この巨大企業をもっと知りたいところだし、油田や製油所も見てみたいところだが、今回はダーランという砂漠の街に足を踏み入れたということだけで満足することにしよう。

世界には日本人があまり知らない巨大企業がたくさんある。

サウジアラムコもそうした企業の一つなのだ。

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