<きちたび>アイルランド人のルーツ?「ケルト」とはどんな人たちだったのか?

ケルティッシュ・ミュージックというジャンルがある。

一番馴染みがあるということで言えば、エンヤの曲を思い浮かべる。透明感があり、ちょっと哀愁をたたえたその旋律は個人的には好きだ。

今も、アマゾンプライムミュージックで、ケルト音楽のプレイリストを再生している。なかなか心地よい。

ダブリンでケルトに触れる

その「ケルト」の名残をもっとも残しているのが、アイルランドだという。

この夏、3泊4日で初めてアイルランドに足を踏み入れた。

アイルランド最古の名門大学トリニティー・カレッジには、1712年に建てられたオールド・ライブラリーという素敵な図書館がある。

まさに、ハリー・ポッターの世界だ。

ダブリン観光でも指折りの観光地だが、ここにアイルランドの至宝と呼ばれる「ケルズの書」が展示されている。

撮影は許されていないが、豪華な装飾が施された4つの福音書のことだ。「ケルズの書」にはケルト特有の渦巻き模様や人、動物が描かれ、ケルト美術の最高峰と言われている。

一方こちらは、アイルランド国立美術館に所蔵されている「タラのブローチ」。

8世紀に作られた金のブローチで、ケルトの文様が彫り込まれている。アイルランド金細工の最高峰として国宝に指定されているそうだ。

「ケルト」とは?

でも、私たち日本人にとって、「ケルト」と呼ばれる人たちについての知識は乏しい。なんとなく、「ヨーロッパの先住民族」というイメージがある程度だ。

今年の夏、初めてアイルランドを訪ねたのに合わせて、ケルトに関する本を少し読んでみた。

そんな一冊にNHK「街道をゆく」プロジェクトによる『司馬遼太郎の風景⑧ NHKスペシャル「愛蘭土紀行」』という本がある。

その中から、「神秘の民・ケルト」という一節を引用しておこう。

アイルランド人を理解するには、まず、このケルト人の歴史を説き起こしていけばわかりやすく、司馬さんはアイルランドの複雑な沿革を説明するに際して、かれらの特性を述べることからはじめている。

『無数の要素のなかから一つだけ言えば、かれらがゲルマン系でもラテン系でもない、ということである。

ケルト人(Celt)である。

古代、ヨーロッパの中部や西部に住んでいた先住民族で、鉄器時代には参加したものの、広域国家を形成せず、家族あるいは部族単位で散居していたため外敵に弱く、また歴史に強力な足跡をのこすにいたらなかった。

古代のギリシア世界やローマ世界からみれば、ケルト人たちは忌むべき蛮族で、鬼のように思われていたらしい。げんにしばしば文明世界を侵略しては、殺戮して去った。』(「愛蘭土紀行1」街道をゆく30)

先史時代、「ギリシア世界やローマ世界」が強大になる以前のヨーロッパ大陸は、ケルト人の支配圏だったといっていい。

ケルト人ははじめ、ドナウ川やライン川沿岸の森林地帯を縄張りとするつつましやかなただの狩人だった。紀元前15世紀ごろのことである。ところが時を経て、次第に居住地域を広げるにともなって、かれらは猛々しくなった。千年ののち、紀元前5世紀ごろには、今のフランスからイベリア半島を手中に収め、同時に、北部イタリアと一部小アジアを制圧し、さらには海を渡ってブリテン島をも支配した。のちのヨーロッパと呼ばれる地理的版図の大半が、このとき、ケルト世界に組みこまれた。こうした古代史の推移のなかで、アイルランド島もまたケルト文化に同化したのである。

「司馬遼太郎の風景⑧」より

私はすっかり誤解していた。

ケルトというのは、もともとアイルランドにいた先住民なのかと思っていた。むしろ欧州大陸の民であり、ギリシャ・ローマ中心で教わる世界史の外で一大勢力圏を築いた人たちだったことを知った。

ケルトと匈奴

本はさらに、「ケルトと匈奴」という項へと進む。

私たちが習う世界史の中では、脇役としてちょこっと登場する両者には共通する点が多い。

紀元前6世紀から前3世紀にかけての地図をみると、まことにケルト人の勢力圏は稀有壮大である。なにしろ、ギリシアの支配地域やローマの領土を圧倒的に凌駕するスケールなのである。しかも、ケルト人はそれだけでは飽きたらず、機を窺ってはギリシア本土に侵入し、はては都市国家ローマの富をかたっぱしから略奪するという蛮行をくりかえした。ギリシアやローマは、さぞかし頭の上(北方地帯)が重かったにちがいない。

アジアを目を転じると、ちょうどそのころ、秦の始皇帝が北方の蛮族・匈奴の侵攻に頭を痛めていた。匈奴は西域からモンゴルにかけて大勢力をふるう遊牧騎馬民族で、しばしば南に下ってきては略奪をくりかえしていたのである。神出鬼没の匈奴軍は不気味というしかなく、南方の王朝にとっては、まさに目の上のこぶであった。歴史上、最大の造形物といわれる万里の長城は、この匈奴の侵攻を恐れて秦の始皇帝が築いたものである。さしもの始皇帝も、匈奴にだけは手を焼き、不倶戴天の敵とみなしていたことがよくわかる。

ユーラシア大陸の東西で、奇しくも、同質の事態が起こっていたということは、歴史のおもしろさとしかいいようがない。歴史は未解明な要素が多いほど興味が尽きないのだが、ここで少し、ケルトと匈奴の類似性を並べてみたい。

両者は共に、古代史を騒然とさせたわりには、いともあっけなく歴史の舞台から消え去っている。ケルトは森のなかで雲散霧消し、匈奴は大草原のなかで消滅した。この不可解な現象ゆえに、かれらの正体は今もって深い神秘に包まれ、歴史上の大きな謎とされている。

おもうに、ケルトも匈奴も、互いに土地というものには執着心がうすかった。

匈奴は遊牧騎馬民族であることから定住を習性とはしなかったが、ケルトもおそらく広い意味では、同様の資質を持っていたと思われる。前記の古代地図からもわかるように、ケルトには永住することへのこだわりがなく、かれらは常に新天地を求めてさまよいつづけているのである。要するに、居心地のいいあいだはそこに住み、ひとたび不都合が起きれば平然と居地を捨て去った。すなわち国家という概念をもたず、民族という意識も希薄だったことが、欧州をくまなく席巻するという広大な版図を築かせたのだろう。

しかし、土地に未練をのこさず、気のむくままに居住地を移動するというこの生き方が、次第にケルト民族の単一性を失わせ、ひいてはその存在自体を歴史の中に埋没させることになった。

「司馬遼太郎の風景⑧」より

この記述を読みながら、私は日本の蝦夷のことを思った。縄文人といってもいいかもしれない。どこかケルトや匈奴に似ているのではないか?

それは狩猟採集を生業として、不必要に群れることなく、比較的平和に長い年月を過ごしていた古代人たちという共通性だ。

鉄器などの強力な武器が登場すると共に、彼らが生きた平和な時代は終わった。追い詰められた彼らは、それまでのライフスタイルを改め、「蛮族」として後発の文明社会に戦いを挑んだ末、歴史から消えていったように思える。

ケルトの運命が大きく変わったのは、有名なシーザーの「ガリア戦記」の頃。このガリアこそがケルトとされ、シーザーはローマを長年悩ませたケルトに反撃したことで英雄となった。

ヨーロッパの大地を自由気ままに専横してきたケルト人の住処は、わずかにイギリスとアイルランドの両島にだけ残される結果となった。最後までローマに屈服しなかったケルト人が海を渡り、先に住みついていた仲間たちと合流したのである。以降、ケルト人は広くその地の先住民と混じり合い、現在は「スコットランド人」「ウェールズ人」そして「アイルランド人」とよばれている。したがって厳密にいえば、かれらはケルト人ではなく、ケルト系の人々ということになる。

「司馬遼太郎の風景⑧」より

ただし、考古学の分野は近年目覚ましい進歩を遂げている。

司馬さんの時代とは、ケルトに関する見方も大きく変わってきているらしい。

「西のケルト」と「東のケルト」

そんな中で、最近ある研究者が書いた本も読んでみた。国立歴史民俗博物館の松本武彦教授が書いた「縄文とケルト〜辺境の比較考古学」という本である。

松本教授は日本とイギリスに残る古代遺跡が似ている点に注目し、ユーラシア大陸の東西で何が起きたのか、古代史の謎に挑戦している。

その「おわりに」の部分を、ちょっと長いが引用させていただく。

太陽活動の変化が起こり、中緯度地帯の多くの地域は、冷涼化と資源の減少に直面した。この危機の中で、大陸中央部の平原では農耕を強化し、それを取り仕切る王や都市を核とする「文明」の社会ができた。そこから離れた辺境の島々であるブリテン島や日本列島では、集団のきずなを強化し、資源をもたらす太陽や季節の順調なめぐりに精神的な働きかけを行う「非文明」の社会が発展した。約五千年前を過ぎたころである。

非文明の社会。それは、人間が「科学」という思考と行為にたどり着くより前に生み出していた高度な知の体系の上に構築されたシステムだった。自らの生と死を軸とした様々な現象をアナロジー(類似やたとえ)の網で紡ぎ合わせ、万象の仕組みを説明しようとした。アナロジーは、ホモ・サピエンスのすべての個体が長い進化の結果として普遍的に共有した心の働きであるために、この段階の記念物は、地球上のどこへ行ってもよく似ている。たとえばストーン・サークルは、日本列島やブリテン島だけではなく、この段階に属するすべての大陸や海洋の社会で認められる形である。定住して大きな社会を作り始めたヒトが、初めて発展させた第一次の知識体系。人類学の巨人クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだものと、それは重なるところがあるだろう。

これに対して文明とは、非文明の様々な知的施行や積み重ねの中から生み出されて広まった、人類第二次の知的体系である。様々な出来事の見かけや外面をそぎ落とし、内側にあってそれを動かす原理と構造をえぐり出すことを旨とするこの知の威力は強大で、成功率は飛躍的に高く、広まった先々で様々な革新や発展をもたらした。だが、実利的な合理性がきわめて強いがゆえに、この知の体系は、周囲の万物や万象を統制して収奪する志向が強く、自然に対しては集約的農業にみられる環境の改変、牧畜を端緒とする生命への干渉などを、人間に対しては戦争や抑圧、不平等や階層化などを導いた。

大陸中央部の平原で芽生えて根を張った、この文明の知識体系やそれに沿った行動様式は、環境の悪化と資源の低落による危機を肥やしにして、その実利的な結実率の高さゆえに周辺の地域にも急速にはびこっていった。ケルトとは、ユーラシア大陸の中央部から主として西方へと進んだこの動きを、一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて、後世の人々が自らのアイデンティティと重ねながらロマン豊かに叙述したものである。

一方、ユーラシア大陸中央部から東方にも同様の動きが進んだ。克明な一国史の叙述を大の得意とするわが国の歴史学や考古学では、この島国にしっかりと足をつけて西の海の向こうをにらむ姿勢をもとに、このような動きを、弥生時代に水田稲作をもたらした「渡来人」、古墳時代に先進的な技術と知識をもってやってきた「渡来人」(古くは「帰化人」)に集約して描こうとしてきた。後者は一時、東のケルトとでもいうべき「騎馬民族」に含めて描かれようとしたが、島国日本の伝統と孤立と純粋さを信じたい心根と、日本考古学一流の精緻な実証主義とがあいまったところから大きな反発を受け、その時点では不成功の試みに終わった。

ともあれ、西と東のケルトは、ともにその最終の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし、環濠集落のような戦いと守りの記念物や、不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した。紀元前三千年を過ぎた頃から紀元前後ぐらいまでの動きである。

しかし、東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国〜漢とローマ〜が日本列島とブリテン島とに関わった程度と方向性は大きく異なり、そのことは、両地域がたどったその後の歴史の歩みの違いと、そこから来る相互の個性を作り出すに至る。大陸との間を隔てる海が狭かったがゆえにローマの支配にほぼ完全に飲み込まれたブリテン島では、文字や貨幣制度など、抽象的な記号を媒介とする知財や情報の交換システム〜人類第三次の知識体系〜に根ざした新しいヨーロッパ社会の一翼としてその後の歴史の歩みに入っていった。

これに対し、もっと広い海で大陸から隔てられていた日本列島は、漢の直接支配下に入ることなく、王族たちが独自の政権を作り、前方後円墳という固有の記念物を生み出し、独自のアイデンティティを固める期間がイギリスよりもはるかに長かった。私たち現代日本人は、このような感性や世界観を受け継いでいる。「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」と、同じ島国のイギリスの歴史ではほとんど用いられない一国史的な時代区分を守り、東のケルト史観たる騎馬民族説に反発する日本人の歴史学者や考古学者の観念もまた、そこに由来するのかもしれない。

松本武彦著「縄文とケルト」より

学者さんらしい文章なので、ちょっと分かりにくいが、この中で私の心に残ったのは3つである。

1.ケルトとは、特定の人たちのことではなく、文明の広がりそのもの

2.ケルトも渡来人も、大陸中央部から伝わった同じ文明のこと

3.日本に文明をもたらしたのは「騎馬民族」説

このうち3の「騎馬民族説」については、本の中でより詳しく紹介されている。

大陸の辺境に浮かぶ島々に国を作った外からの力を、英国史では「ケルト」というグローバルな動きの一翼としてとらえ、日本史ではあくまでも島民としての立場からみた「渡来人」の受け入れとして理解してきた。大陸からの営力が外縁の島々に及ぶさまを、英国では宇宙の高いところから眺めているのに比べ、日本では島の地面に足をつけ、目の高さで海の向こうを見つめている。いうなれば、同じ動きを、英国史ではヨーロッパ史の一部と見ているのに対し、日本史ではどこまでも日本史としてにらんでいるのである。

ただ、敗戦後の一時期、この動きを宇宙からグローバルに眺めようとする見方が、日本でも提案された。東洋考古学者の江上波夫氏が、1940年代の末から1950年代の初めにかけて世に問うた、騎馬民族征服国家説である。5世紀までには近畿に広がって、そこに征服王朝を打ち立てたのだという。これを、日本国家の起源と江上氏は考えた。

この見方は、ケルトを主人公とする史観と、構造的にはよく似ている。金属を駆使し、馬や戦車による機動力豊かな武装を固めた集団が大陸の中心部で生まれ、富と戦力でもって在地の農耕民らを支配して版図を広げ、ついには海をわたって辺境の島々にまで及ぶ、といった枠組みは、ケルトにも共通する。あまつさえ、ケルトも騎馬民族も、ともにそのルーツはユーラシア中央部に近いところに想定されていることを考えると、両者は実は同根の文化であり、西方のいわゆるケルトを「西のケルト」、東方の騎馬民族を「東のケルト」と呼んでしまう人があってもいいのではないかと思うくらいである。

「縄文とケルト」より

この場合、日本でケルトに当たるのは、縄文人というよりも、弥生人や古墳人ということになるのだろう。

でも、ケルトと匈奴が似ているという説には符合する。

古代史はロマン。

物証が乏しい分だけ、後世の人たちが想像力を膨らませる余地がある。その時々の時代背景が反映されることも多い。

ケルトとは本当は、どんな人たちだったのか? どこから来たのか? 東の騎馬民族と関係はあったのか?

蝦夷に続いて、私の想像力を刺激している。

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