ムッソリーニ

この夏旅行する予定のイタリアで総選挙があった。事前の世論調査の通り、過半数を制する政党のいなかった。

ポピュリスト政党「五つ星運動」が単独政党としては第1党となったが、政権にもっとも近いのは極右政党「同盟」や元首相のベルルスコーニ氏率いる「フォルツァ・イタリア」などが属する中道右派連合だ。

この状況をロイター通信は「急進的政権以外に選択肢なし」と評した。

小党が乱立し政権が弱体なのは、イタリア政治の著しい特徴だ。左派と右派の対立に加え、地域政党の力が強い。それぞれが己の主張を譲らず、まとまりに欠ける、そんなイタリア人気質がイタリアの政治状況を作っているのだろう。

そんなイタリアで20年も政権を担った男がいる。まさに奇跡の物語だ。

その男こそ、ベニート・ムッソリーニ。

「ファシズム」の創始者であり、ヒトラーにも多大な影響を与えた男である。

ポピュリズムが世界を席巻しようとする現代、天才的ポピュリストだったムッソリーニがいかにして人心を掴み、やがてその運動がファシズムへと変容していったかを知ることは有用だと私は考えた。

そこで木村裕主著「ムッソリーニ ファシズム序説」という本を読んでみた。この本の中から、気になった部分を引用しておきたいと思う。

ムッソリーニは1883年、イタリア中部のロマーニャ州プレダッピオ村で生まれた。私はこの夏、ボローニャに行く予定なのでぜひ彼の生家を訪ねたいと思っている。

面白いのは若かりし日のムッソリーニは、「社会主義者」として頭角を表すことだ。地元の農民運動を煽動し、「階級闘争」という名の週刊誌の編集長に就任する。この頃のムッソリーニは「暴力だけが旧体制を打破できる」との論説を展開し、反教会主義、反軍国主義を唱えた。

1910年には社会党の代議員に選出され、イタリアによるリビア侵略戦争にも「一兵も送るな」と妨害工作を行った。これにより左翼分子として逮捕投獄されたが、その反戦裁判で一躍左派のホープとして脚光を浴びる。

そして野党第一党だった社会党の全国機関紙の編集長に抜擢されたムッソリーニは、わかりやすい表現で反政府的なメッセージを伝え、発行部数を3倍に伸ばした。その勢いで総選挙に出馬したムッソリーニは落選。この失敗で彼の政治信念は大きく揺らぐことになる。

そんなタイミングで第一次世界大戦が起きた。イタリアは中立を保つのか、それとも参戦してオーストリアに奪われた未回収地を奪還するのか、世論が割れた。ムッソリーニは当初、中立を主張していたが、次第に参戦に傾く。編集長として場当たり的な言動が目立つようになり、ついに罷免されてしまう。

木村氏の本から引用する。

『 彼がなぜ、そしてどうして参戦派に転向ー右旋回したのか? これは興味ある問題で、ムッソリーニとファシズム研究の上でも長年論議の的となってきた一つである。だが「これだ」という有力な決め手はまだない。すベて推論だけである。ムッソリーニ自身、その点については彼の著書にも特に触れていない。公言できないその内心にこそ鍵があるのかもしれないと言われる。

「中立では解決しない。激動する歴史を動かすのは我々の血でなくてなんであろうか!」「この戦争に勝って、イタリア人の土地を初めてイタリアの土地に取り返すことが出来るのだ!」

こうした参戦論は、多くの国民や青少年らの熱情をかき立て、連合国側に加わって参戦することによって、イタリアが大国の地位を確立するという希望も沸き起こった。翌15年、ムッソリーニはミラノで参戦派の社会党員を中心に会合し、政治団体「革命行動ファッシ」を結成した。こうして初めて20世紀の新政治思潮「ファシズム」の最初の核というべき新政治組織が誕生したのである。』

きっかけは戦争だった。

世界が激動する中で、若者たちは旧体制に反発する。暴力も目的のためには是認される。

そして奪われた土地があった。これはナショナリズムを刺激しやすい。国土を守る、失った領土を取り戻す、こうしたメッセージはいつの時代もどこの国でも戦いの大義名目となる。

さらに政財界や大新聞が陰に陽に彼らを支援した。ムッソリーニは自らの新聞で参戦を書き立て、「革命行動ファッシ」のデモ隊を率いて反対する中立派市民と乱闘を演じた。ローマでは議会にデモ隊がなだれ込み中立派議員を棍棒で殴った。

『 わずか数十日の間に、イタリアは中立から参戦に大きく振り子が揺り動かされた。少数派によって世論はひっくり返されたのだ。』

イタリアがオーストリアとの交戦状態に入ると、ムッソリーニは召集され山岳地帯の前線で戦った。戦傷兵として帰国した彼は自らの新聞「ポポロ」で編集長に復帰、傷が治ってからも松葉杖を手放さなかった。その方が人々から尊敬を勝ち得、演説会でも迫力が違うことを知っていたからだ。そして戦争が終わり兵士が帰還すると、ムッソリーニは戦傷兵として兵士のトラックに潜り込み、歓迎する群衆に向かってアジテーションを行なった。天才的な自己演出こそポピュリストの真髄である。

戦後のイタリアは大混乱に陥る。300万人にのぼる帰還兵は失業者となり、戦場で勇名を馳せた突撃隊の不満分子が「突撃隊連合」を結成する。しかも参戦の目的だった未回収地の一部はイタリアに戻ってこず、経済も壊滅状態だった。街では、突撃隊と労働者、旧中立主義者による三つ巴の乱闘事件が相次いだ。

こうした混乱を観察したムッソリーニは、批判の矛先を政府の弱体ぶりに向けた。それが参戦派にも中立派にも理解されることを知っていたからだ。

1919年3月、ムッソリーニはミラノで「イタリア戦闘ファッシ」を結成する。中核は突撃隊連合が担い、ファシスト全国グループが初めて誕生したことになる。ムッソリーニがかつて属した社会党がミラノでゼネストを実施すると、「戦闘ファッシ」の一団がスト参加者に襲いかかり、社会党機関紙「アヴァンティ」事務所を破壊して火をつけた。警備兵たちは見て見ぬ振りをした。

『ムッソリーニは「社会党機関紙事務所で起こったことは、レーニン派にうんざりした兵士や市民による自然発生的な大衆運動のなせる技である。だが我々としては事件に対する道義的な責任を認めるものである」と語った。これが彼の手法であった。つまりファシストの行動を“市民の自然発生的”と規定し、自分の直接責任を回避するのである。こうしてムッソリーニの政治行動は、まず暴力による左翼封じ込めという形で展開した。彼は後に「ファシズムの原理」の冒頭で「ファシズムとは活動(運動)である」と述べているように、まず行動があって理論(思想)は後から年月をかけて、ムッソリーニやその周辺のファシスト学者、元労働組合幹部らによって作られ、かつ体系づけられたというのが実情であった。』

19年11月に行われた大戦後初の総選挙でムッソリーニの「戦闘ファッシ」は惨敗した。しかし、ムッソリーニたちは「懲罰遠征」と呼ばれる手法で存在感を発揮するようになる。

「懲罰遠征」というのは工場争議や農民暴動、地域紛争に暴力をもって介入することを言う。社会党員が大多数を占めるボローニャ市議会に乱入し死傷者を出す懲罰遠征も行われた。

大地主や大企業の経営者たちがこの行動を支持し巨額の財政支援を行った。さらに時の首相ジョリッティもムッソリーニの戦闘ファッシ運動を利用しようとした。

ジョリッティは『社会党を弱体化することがイタリアの安泰に寄与すると考えていた。それだけに反戦から参戦に転向し、左翼勢力に対して激しく暴力に訴えるムッソリーニの力を与党に取り込むことは保守政権の安定につながると期待していた。このためジョリッティは密かに総選挙の実施を決意していたのである。 ファッシが容易に武装し得た背景にはこうした事情があった。ジョリッティのこの態度はファシズムの成立を助長した有力な要因として見逃し得ないところである。』

こうして政権に近づいたムッソリーニは、かつて痛烈に批判していた資本主義体制是認を公言した。同時に、地主たちと協議して戦闘ファッシ以外の農業労働者を雇用しないようにし、初の「ファシスト労働組合」を創設して組合員への雇用、賃金などで優遇措置をとった。

『戦闘ファッシの武装団は、“敵”への懲罰攻撃を繰り返し続けた。警察や軍隊が提供したトラックに分乗した戦闘ファッシの突撃隊は機関銃、小銃、手榴弾などで共産主義者、社会主義者、共産党や社会党の地方支部、また左翼の農民組合、労働組合を襲撃した。突撃隊はまさに小軍隊であり、攻撃は小さな戦闘に等しかった。ファシストによる拷問も日常茶飯事となった。

そうした最中、ムッソリーニは左翼の本陣ボローニャで演説した。

「我々は火柱に導かれたこの道を進む。暴力は嘆かわしいが、我々をののしり、理解しようともしないものどもへ、我々の理想を心に染み込ませるため、彼ら分からず屋の頭を棍棒の響きで打ち鳴らさなければならないのである」

これがムッソリーニの暴力の論理であった。会場では拍手が鳴り止まなかった。街の空気は変わっていたのだ。政府は警察、裁判所にファシストの暴力を黙認するよう命令したし、鉄道バスもファシストに与えた。ムッソリーニは政府から潤沢な資金援助を受け、重要なことだが軍部からは武器弾薬の供給も思いのままになった。』

そして1921年5月に実施された総選挙。ファシストは保守主義者や民族国家主義者らとの政府側共同リストに加わった。この選挙でファシストは35議席を獲得、ムッソリーニもトップ当選で国会議員に選出された。

与党と組んで中央政界に進出したムッソリーニは、一転ジョリッティへの協力を拒否した。

『議会開院式にムッソリーニらファシスト代議士の一部は故意に出席しなかった。今は反王政の立場から国王の「開院の辞」を聞く耳を持たぬとしたのだ。これはショック療法的にファシストの存在を誇示するためであった。しかも翌日は、下院の最右翼席にムッソリーニ以下全ファシスト議員が席を占めた。彼が下院当選後に公言した「我々は議員ではなく突撃隊であり、銃殺隊である」を行動で示したものであった。』

ここでもムッソリーニのポピュリストとしての才能が開花する。

『戦闘ファッシの前や公衆の面前に出ると彼独特のポーズをとった。それは胸を張り、アゴを前に突き出して両手を腰に当てる姿だ。両足をやや開いてこの姿勢をとると、力強く攻撃的な人物に見えると彼は信じていた。また個人的に写真を撮られる時には、時としてややうつむき、右手を上着の内側に入れる仕草をした。これは思慮深さを示すポーズで、ナポレオン=ボナパルトからヒントを得たのだとされている。

戦闘ファッシのメンバーは社会的階層もさまざまな人物の寄り合い所帯だったが、ムッソリーニはそれらのメンバーから等しく人気があった。「親身になって人の面倒を見る」「人間味のある男」という評判が絶大であった。もちろん、政敵である左翼政治家や労働者の間では「天敵」のように忌み嫌われた。だがその人たちの間にさえ「抜け目なく賢い」「利口な男」という声が多かった。貧しい人に対しては身銭を切って世話もした。彼自身、のちに首相となってからも、必要以上の給料は辞退するなど私腹はこやさず、金銭にかけてはきれいだった逸話も残っている。

彼はどうすれば自分が好かれるかを知っていた人間だった。1対1で話す時には、相手をよく調べ、相手の好む所に話題を合わせた。また大勢の人に呼びかける時には、論理などはわざと無視して、誰もが納得のいくことを口にしては、大衆の心を掴むのだった。それも一言一言が大向こうを唸らせるように、短文にして訴えるのである。』

1921年11月、ローマで「全国ファシスト党」が結成される。理念は「国家に奉仕する全国の志願軍団」であり、党員は「秩序」「規律」「服従」の三原則を遵守することを誓った。

『大会では当然、ムッソリーニが最高指導者として信任されたが、最重要決定は「戦闘突撃隊」の編成であった。ムッソリーニは「国家に奉仕する全国の志願軍団」の最高司令官としてこれを自由に動かすことができるただ一人の人物となったのである。言い換えればファシスト党は「軍隊を保有するムッソリーニの政党」ということになる。』

『ムッソリーニは大会中、政治、経済、社会、労働、文化、宗教など広範にわたり自らの見解を表明した。

ここには当時の社会常識となった階級闘争というものが否定され、代わりに階級協調という新機軸の思想が唱えられている。単なる反社会主義ではなく、のちに「協調組合国家」とも呼ばれるファシズム体制の基礎概念が姿を見せたのである。このため当時、内外から「ムッソリーニは資本主義と社会主義を止揚して新しい協調社会を作ろうとしている」との賛辞が多く寄せられた。』

日本の軍国主義の台頭もそうだが、ロシア革命後、世界は共産主義の脅威にどう対抗するかが差し迫った最大のテーマだったのだ。ファシズムは共産主義という新たな思想に対抗する支配階級側の思想として急拡大していったことがわかる。

ムッソリーニはついに「ファシズムの最終目標は政権の獲得である」と明言する。そして政権獲得のため「ローマへの聖なる道」を進むことを決定した。「ローマ進軍」構想が練られる。

1. 全土のファシスト突撃隊は進軍開始とともに中枢都市の県庁、警察、停車場、兵営、郵便局、新聞社、放送局などを占拠する

1. 進軍計画はムッソリーニの統率のもとに「国民統治委員会」を編成し、ファシスト四天王とする

1. ウンブリア州都ペルージャに総本陣を置く

ローマ進軍は10月28日に始まった。

『1000人とか100人単位で、北や南の各地からトラック、列車、または徒歩で数万のファシストたちが一路ローマを目指した。

これらファシストは途中で、敬意を表さない市町村の役所を襲撃した。前進を邪魔するものは情け容赦なく殴打した。逆に歓迎を込めて食料や葡萄酒など飲料を差し出す人たちも少なくはなかった。ローマを目指す隊員は、全土で2万5000とも4万とも言われた。それだけの武装隊員が集合すること自体、異常事態であり、ファシスト党がいまや支配的な力を持っていることの一つの証拠でもあった。

その日の午前中、「全土に戒厳令」が発令された。国王と緊急協議したファクタ首相が事態を憂慮して決定したのだった。ムッソリーニはこの第一報を耳にして、顔面蒼白となった。首都ローマの正規軍2万5000と突撃隊の正面衝突は避けられぬからだ。ペルージャの本陣でも、「ローマ進軍は失敗か」と誰もが思った。四天王の一人チェーザレ・デ・ヴィッキは国王に従うしかないと考え、場合によってはムッソリーニを殺害するという事態を想定したという話も残っている。

しかし情勢は急変した。後刻、首相ファクタが戒厳令布告に署名を仰ぐため王宮に参内すると、国王は先の協議結果を覆して署名を拒否したのである。戒厳令は一転、撤回された。』

ムッソリーニ最大の危機を救ったのは国王だった。

国王はなぜ戒厳令を差し止めたのか?

『国王が「内戦の勃発を恐れた」とか、世界大戦勝利の功績者ディアス元帥、海軍提督ディ・レヴェル、侍従武官長チッタディーニらからの国王への説得が奏功したなどの説があるが真相は今も不明である。いずれにしても、ローマ進軍の無血クーデターが成功する道を開くことになる。この展開で戦後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はイタリアにファシスト政権を樹立するのを許した責任を問われ、国民投票で共和制樹立の後、亡命を余儀なくされる。』

国王によって後継首班に任命されたサランドラはムッソリーニの協力を得ることができず組閣に失敗。国王に対し、ムッソリーニに組閣を要請するよう申し出た。国王はサランドラの要請を容れてムッソリーニに組閣を委嘱することを決めた。

戦闘ファッシ創設からわずか3年半という短期間でムッソリーニを政権の座に導いたのは、地主や資本家であり、首相であり、国王であった。

これこそが、イタリアで起きた「ファシズムの教訓」なのだ。

そして首相に就任したムッソリーニは、次々にファシズムの法制化を進めた。ファシスト突撃隊を国防義勇軍に改め、ファシスト党に有利に選挙法を改訂した。

そしてメディアの統制を始める。

『総選挙実施を前に、政府は新聞政令を発し、「間違った報道をした新聞編集責任者には戒告し、これを二回受けたものはその地位を失う」とした。政権に不都合な新聞の取り締まりが目的であり、自由な言論封じ込めの政令第一号となった。

投票日が近づくにつれ、国防義勇軍は警察官の役割を演じ、全国各地で野党立候補者を逮捕した。結局、それらの支援者を含めて数百人が留置され、投票もできなかった。投票日には、義勇軍兵士が各投票所を取り巻き、ファシスト市長の都市では、反ファシストに投票用紙を渡さなかったという。』

こうしてファシスト党員は275人が当選、35人から大きく議席を伸ばし大勝した。

選挙後の議会で「総選挙は詐欺同然であり、自由投票とは言い難い」と選挙の無効を訴えた社会党議員マッテオッティは殺害されローマ郊外の森に埋められるという事件も起きた。ファシズムに対する批判が高まった。

これに対しムッソリーニは年明けとともに、反ファシストの一斉摘発に乗り出す。撲殺や逮捕を恐れた反ファシストたちの国外脱出が一気に始まり、ムッソリーニの独裁体制が確立する。

こうしたムッソリーニの歩みをじっと研究していたのが、ヒトラーだった。

ムッソリーニは側近を通じて様々な助言を与え、ヒトラーもファシスト党やファシズム体制から多くのものを取り入れた。ヒトラーは、ムッソリーニを尊敬し、丁重に扱った。

しかし、このヒトラーとの関係がムッソリーニを戦争の道に引きずりこむことになる。ヒトラーが次々に戦火を拡大する中で、ムッソリーニは当初中立を保った。イタリアには戦争をする体力がないことを知っていたためだ。しかし破竹の勢いのドイツを見て、参戦を決める。

結局これがムッソリーニの命取りとなった。連合軍がイタリアに上陸すると、信頼していた国王に裏切られ身柄を拘束され幽閉される。それを救出したのがヒトラーで、それ以後ムッソリーニはヒトラーの傀儡となった。最後はレジスタンスに捕まり銃殺され、広場に逆さ吊りされて激動の人生を終える。

それでも、あのイタリアを20年率いたムッソリーニには「イタリアの民生向上に尽くした功績は大きい」という評価もある。彼のおかげで貧しかったイタリアが一流国になったとする見方だ。「19世紀にやっと統一を成し遂げたばかりイタリアにイタリア人としての意識を植えつけたのがムッソリーニだった」とする意見もある。

発展途上国には強いリーダーシップが必要とされる。それは今でもファシズムのような形態を取ることが多い。

ムッソリーニが築いたファシズムという政治スタイルは、愛国心と結びついていつの時代にもどこの国にも顔を覗かせる可能性がある。

今の日本にも、その芽がまったくないとは思えないのだ。

そうした人権が軽視される社会に戻ってしまわぬよう、私たちは過去を知る必要がある。

 

 

1件のコメント 追加

  1. wildsum より:

    今の日本も恐ろしいです。共産主義者もナショナリストもファシストも独裁者も要らない。

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