🇯🇵北海道/函館市 2022年10月21~24日
3泊4日の函館旅行、最終日の24日は友人の車に乗せられて函館市内の観光名所を案内してもらった。
いつも気の向くままに自分のペースでぶらぶらするのが私の旅のスタイルなので、友人の気遣いには感謝しつつも、どこか違和感のようなものを感じながらの観光ツアーだ。
とりあえず、写真を整理しながら、立ち寄った場所を記録しておこうと思う。
金森赤レンガ倉庫
朝食後、まず連れて行かれたのが函館ベイエリアに建つ「金森赤レンガ倉庫」。
函館朝市に土産を買いたいという意見を聞いて、「朝市はぼったくりだからやめておいた方がいい」と言って友人が案内したのがこの施設だった。
函館は、横浜・神戸・長崎・新潟と共に、幕末の日本が最初に開港した国際貿易港の一つ。
天然の良港だった函館港の周辺には歴史ある煉瓦造りの倉庫が多く残っている。
現在は古い建物を利用した商業施設やレストランになっていて、函館を代表する観光スポットになっているという。
個人的にはショッピングにはあまり興味がなかったが、その一角にある「はこだて明治館」の蔦が真っ赤に色づいているのに目が止まり、これは果たして本物かそれともフェイクなのかが気になって集団から離れてこの蔦を撮影しに行った。
近づいて触ってみると、紛れもない本物だった。
まさに今が紅葉の最盛期。
ちょうどバックに青空が広がり、青と赤のコントラストが実に美しかった。
商業施設の一角に金森倉庫の歴史を紹介するコーナーがあった。
創業者の渡邉熊四郎は大分の出身で、幕末に長崎から函館にやってきて金森森屋洋物店を開業した。
そして明治20年、函館で最初の倉庫業に乗り出し、どんどん業務を拡大していった。
明治31年には日本最初のビアホールとも言われる「函館ビアホール」をオープンしたというのだから、かなり進取の精神に富んだ人物だったのだろう。
別の建物には「はこだて海鮮市場」という巨大な土産物屋があって、友人の一人はそこで大量に海鮮を買い付けて配送を依頼していた。
私は来月泊まりに来る孫娘のために、女の子が喜びそうな北海道のお菓子などを少しだけ買った。
いずれにせよ、お土産の調達ならばここ1箇所で十分賄えるそんな便利なお店であった。
立待岬
続いて連れていってもらったのは、津軽海峡を一望できる「立待岬」。
函館山の南東に突き出した岬だ。
この地名は、待ち伏せするところを意味するアイヌ語の「ヨコウシ」に由来するという。
アイヌの人たちはここで魚を捕ろうと立って待ったという意味らしい。
この日は空気が澄んでいたようで、対岸の下北半島のほか、さらに離れた津軽半島も望むことができた。
本州と北海道を隔てる津軽海峡は古くから防衛にとって重要な場所で、18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄地とすると、異国船の監視と警備のためにこの場所に台場が築かれた。
また、明治時代には函館要塞の背後を防御するための要塞が作られ、第二次大戦中には、要塞地帯法によって市民の立ち入りが禁じられたそうだ。
立待岬から北の方角を見れば、海越しに函館の町並みも望むことができ、360度の美しい景観が楽しめる。
また私たちは立ち寄らなかったが、岬に通じる道路沿いには石川啄木一族の墓があるという。
なぜ函館に?
そう思って調べてみると、その経緯が綴られたサイトを見つけた。
「死ぬ時は函館で死ぬ」。石川啄木は、義弟の宮崎郁雨へ宛てた手紙の一節にこう書き残しています。26歳だった1912(明治45)年に、東京で病死した啄木。彼を慕う郁雨と、市立函館図書館の初代館長・岡田健蔵は、函館を啄木の永眠の地にすることで悲願を叶えます。
啄木の死を受け、岡田健蔵は啄木の妻・節子の名代と称して上京。啄木、その長男・真一、母・カツの遺骨を、預けていた寺院から引き取ります。函館に戻った後、函館図書館に3人の仏を仮安置するうち、間もなく節子が死去。節子の四十九日にあたる日に、現在地よりやや下方の場所に木製の墓標を建て、4人分の遺骨を埋葬します。1926(大正15)年に現在地に墓碑が建て替えられて以降、1931(昭和6)年に啄木の長女・京子の夫・石川正雄によって、京子、次女の房江、啄木の父・一禎、そして1968(昭和43)には正雄の遺骨が追葬され、一族8人が眠る墓となっています。
引用:函館市公式観光情報 はこぶら
函館山
続いて連れていってもらったのは、世界三大夜景の一つにも数えられる「函館山」。
到着初日に夜景を見に車で登ろうという話もあったが、週末だったため夕方から一般車の通行が禁止されていて断念し、日中の訪問となった。
幸いこの日は晴天で、函館市街がくっきりと見渡すことができた。
車で山頂に上がると、目の前にテレビ各社の中継基地が目に止まった。
NHKも民放も仲良く函館山の山頂にアンテナを立てているので、函館の家庭はどこも函館山の方向にアンテナを向けているという。
函館山の山頂には伊能忠敬のレリーフもあった。
「伊能忠敬北海道最初の測量地」と書かれている。
北海道に初めて上陸した伊能忠敬がまずこの函館山の山頂から測量を開始したことは、この場所の地形を見れば至極当然のことだということがすぐに理解できる。
展望台に登ると、眼前にあの写真で見慣れた函館の街が広がっていた。
2つの海に挟まれた狭い平地。
おそらくかつては海が満ちれば海中に没する砂州だったに違いない。
調べてみると案の定、函館山は昔は陸地から離れた火山島で時間の経過とともに砂が堆積して地続きとなったものだった。
それにしてもよくもまあ、津波が来れば一発で飲み込まれそうな場所に街を作ったものだ。
元テレビマンとしては函館山からの眺めを見てまずそのことが気になった。
調べてみると、やはり函館は津波に弱い街だということがわかる。
北海道がこの夏公表したシミュレーションによれば、もしも千島海溝から日本海溝にかけてマグニチュード9.1の巨大地震が起きた場合、函館には最大8.7メートルの津波が押し寄せ、2万9000人の死者が出ると予想されていた。
世界に誇る100万ドルの夜景は、この街がまだ150年の歴史しか持たず巨大津波を経験していない証拠だと、ひねくれた私の頭はついつい考えてしまうのだ。
山頂には「函館要塞」についての案内板も設置されていた。
函館要塞は、明治28(1895)年の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31(1898)年から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に砲台が建設されました。
他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を守るために建設されました。
日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館港は攻撃されることはありませんでした。
その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。
函館市設置の案内板より
東アジアの緊張が高まり防衛費の増強が叫ばれる今日、こうした過去の教訓もしっかり学び直したほうがいいと感じる。
トラピスチヌ修道院
続いて案内してもらったのは、市街地の東、函館空港の近くにある「トラピスチヌ修道院」。
正式には「厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院」という長い名前で、日本初の女子観想修道院として明治31(1898)年に創立された女子修道院だ。
修道院のホームページを見ると、「厳律シトー会」についての説明が書かれていた。
厳律シトー修道会(O.C.S.O.)は、カトリック教会の中で、祈りと労働を主要な手段として神と人々に奉仕する隠世共住修道会です。 1098年、フランスのモレスム修道院の聖ロベルト、聖アルベリコ、聖ステファノ・ハーディング諸修道院長を含む20名ほどの修道者たちによって、 フランスのシトーと呼ばれていた荒れ地に、シトー修道院が創立されました。 更に1125年頃シトー直属の子院として、タールと呼ばれる最初の女子修道院が創立されています。
現在、厳律シトー修道会は世界に広がり、男子と女子の修道者たちが神の招きに応え、聖ベネディクトの戒律に従い、隠世共住修道者として奉献の生活を送っています。
引用:公式ホームページより
隠世というだけあって、修道者たちは塀の外に出ることはないそうで、観光客も庭を散策することはできても塀の内側を覗き見ることは許されない。
私にはとても耐えられそうになり、厳かで静かな祈りの生活が塀の向こうにはあるのだろう。
俗物の私は、この修道院で作られた手作りのクッキーを妻のお土産として買い求めたのだが、予想通り妻はその素朴なクッキーを大変喜んだのだった。
元町の教会群
ここからは、ようやく団体行動から離れ、一人で元町界隈をぶらぶらした。
元町は、函館開港後最初に開発されたエリアで歴史的な建造物が今も多く残っている。
まず最初に訪れたのは「カトリック元町教会」。
江戸幕府によるキリシタン禁教令が解除される前の安政6(1859)年、函館にやってきたフランス人宣教師メルメ・デ・カションが布教を始めたのが始めで、教会は何度か建て替えられ、現在残っている教会は大正12(1923)年に建てられたものだ。
横浜、長崎と並ぶ日本で最も古い歴史を持つ教会の一つだそうで、そのゴシック様式の大鐘楼は、函館港をバックになかなか美しい景観をおりなしている。
カトリック教会の奥に建つ、ユニークな形をした教会は「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」。
こちらは明治7(1874)年にイギリス人のデニング司祭によって布教が始まった英国聖公会の教会だ。
現在の教会は1979年に建てられたモダンなもので、函館山やロープーウェイから見下ろすと茶色の十字架に見えるという。
そして元町にある3つ目の教会は「函館ハリストス正教会」。
現在工事中のこの教会は、安政6(1860)年にロシア領事館に隣接して建てられた日本最古のロシア正教(日本正教会)の教会である。
こうしてフランス、イギリス、ロシアの教会が隣り合って建っているのをみると、列強が先を競って日本に勢力を拡大しようとしていた幕末の状況が見えてくるようだ。
旧函館区公会堂
教会群から西へと歩いていくと大きな洋館「旧函館区公会堂」が現れた。
明治40年8月の大火で、函館区の約半数、12,000戸余りが焼失した。この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の寄付を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時、函館の豪商、初代相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年現在の公会堂が完成した。
この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で、左右対称形になっており、2階にはバルコニーを配しているほか、屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど、特徴的な様式を表している。
昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、同55年から約3年を費やして修復、平成30年から耐震補強を含めた保存修理工事を実施。
函館市の案内板より
2018年に保存修理が行われたばかりなので、建物はとても新しく見える。
大正天皇や昭和天皇も皇太子時代に、現在の上皇夫妻も天皇皇后としてこの建物に宿泊したことがあるそうだ。
建物の中に入るのは有料だが、バルコニーからは函館港の素晴らしい風景が見渡せるらしい。
公会堂の近くには5万円を寄付した相馬哲平の屋敷もある。
20代で新潟から函館に渡り、箱館戦争の最中も避難することなく米を買い集めて財を成し、のちに水産業から銀行まで手がけて北海道屈指の豪商となった人物だ。
有料だが屋敷の内部も見学できるようである。
元町公園
旧公会堂の目の前にある「元町公園」の中に建つ水色の瀟洒な建物は「旧北海道庁函館支庁庁舎」。
明治42年に北海道開拓の拠点として建てられたものだが、江戸時代にはこの場所に松前藩の亀田番所が置かれ、幕末に幕府の直轄地となると箱館奉行所がこの場所に建てられた。
その後防衛上の理由から奉行所は五稜郭に移されることとなる。
元町公園の一角には、函館の発展に貢献した4人の商人を顕彰する「函館四天王像」が置かれていた。
左から、石川出身の今井市右衛門、函館出身の平田文右衛門、大分出身の渡邉熊四郎、そして青森出身の平塚時蔵である。
その碑文には、こう記されている。
明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器械製作所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のための教育、医療施設に至るまで力を尽くした。
明治、大正には東京の文化は東北を素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門はじめ合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。
四天王像碑文より
現在の函館市の人口は26万人にまで減少したが、明治から戦前までの函館は日本有数の大都市であり、先進都市だったことがうかがえる。
宇須岸河野館跡
元町公園から少し下ったところに気になる案内板を見つけた。
「宇須岸河野館(うすけしこうのたて)跡」という意味不明な看板だが、その内容はとても興味深い。
享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したと言う。
政通は、当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いた。これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕を巡らしていたといわれる。この「河野館」に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。(明治2年「函館」と改称された。)
永正9年(1512年)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの住民の移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、寛保元年(1741年)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄の基礎が築かれた。
函館市の案内文より
この場所が函館の名前になった和人の館があった場所で、16世紀まではアイヌが優勢だったというのである。
すなわち、函館の歴史は和人によるアイヌ征服の歴史でもあるのだ。
ところが、この貴重な歴史の舞台である「宇須岸河野館跡」は現在「ペリー広場」と呼ばれている。
広場の片隅にペリー提督の銅像が立てられたからだ。
この場所にペリー提督の銅像が立てられたのはわずか20年前、2002年のことである。
日本と和親条約を締結したアメリカ海軍提督M.C.ペリーは、安政元年(1854年)5月17日、開港される函館港を下検分するため、5隻の艦船を率いて来航した。
滞在中には、函館湾の海図を作成したほか、銀板写真術(ダゲレオタイプ)の初公開、西洋音楽の吹奏などを行い、当時の人々の驚きの様子が記録として残っている。
このペリー来航が契機となり、蝦夷地(北海道)を統治する箱館奉行所の移転先として五稜郭が築造されることになったほか、開港場として欧米文化の影響を受け、本市が国際観光都市として発展する礎となった。
函館市黒船来航150周年(2004年)を目前に、日米和親の意を後世に伝え、ペリー提督を末永く顕彰するため、ここ函館の由緒ある地に「ペリー提督来航記念碑」を建立する。
ペリー提督来航記念碑より
ペリーの知名度を活かして観光客集めに利用しようという浅はかな魂胆が見えるような記念碑だ。
ペリーは日本各地に出没していて、わざわざ和人とアイヌの歴史の重要な舞台であるこの場所に記念碑を立てるほどの価値はない。
洋館を修復して観光スポットにするのはいいが、日本の歴史にとってはこの何もない広場こそが函館で最も重要な場所だと私は思うのだ。
このあたりにはかつて「諸術調所(しょじゅつしらべしょ)」という学校もあった。
諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856年)に設立された。
教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎で、蘭学はもとより、測量、航海、造船、砲術、築城、化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実戦を重んじた教育をおこなった。
函館市案内文より
諸術調所の教え子には郵便制度を作った前島密や鉄道制度を作った井上勝など錚々たるメンバーがいる。
この学校一つ見ても、明治期の函館がいかに開明的で自由な空気に溢れていたかが想像できるだろう。
しかし残念ながら、この跡地は今では大型バスの駐車場になっている。
函館市北方民族博物館
元町散歩の最後に訪れたのは「函館市北方民族博物館」。
北海道で暮らしていたアイヌを中心に、その周辺にいたウィルタやアリュートなど少数民族についての資料が展示されている。
観光客に人気の施設とは言えないが、私は大いに興味があった。
入場料を払って中に入ると、まず12枚の「アイヌ絵」が出迎えてくれた。
「アイヌ絵」とは、アイヌ以外の民族、主に和人がアイヌの生活や文化を描いた絵のことで、和人による蝦夷地の支配が強まる中でアイヌへの関心が高まり、視覚的な情報が求められたことが背景にあるという。
例えばこの絵、交易所での和人の新年のお祝いに招かれ、お土産をもらって家に帰る様子を描いたものだそうだ。
幕末のアイヌ絵師の第一人者平沢屏山が描いた「アイヌ風俗12ヶ月屏風」の1枚で、このような絵が月ごとに12枚ある。
江戸時代の和人とアイヌの関係も垣間見え、なかなか興味深い。
この博物館、フラッシュさえたかなければ撮影OKというだけでもありがたい。
こちらは、北海道の名付け親として知られる江戸時代の探検家、松浦武四郎が描いた「東西蝦夷山川地理取調図」。
蝦夷地を中心に、樺太や千島列島まで極めて緻密に描かれている。
今では全てロシアに征服されてしまったが、かつてサハリンやシベリアには多くの少数民族が棲み分けていて、アイヌとの間でも交流があった。
江戸時代には黒竜江下流域や樺太を舞台にして行われた「山丹交易」にアイヌも参加し、中国の製品がアイヌを通じて日本にもたらされる「北のシルクロード」も存在したという。
その代表的な交易品が「蝦夷錦」と呼ばれる清王朝の官服であり、その流れを追うことで、北のシルクロードを解明する試みが進められている。
まだまだわかっていないことだらけのアイヌの実態。
北海道に来たら、知らない歴史に触れてみるのも面白いと思う。
ラッキーピエロ
最後にもう一つ、函館で私が一番気に入った場所について書いておきたい。
それは、函館のソールフードとして知られるハンバーガーチェーン「ラッキーピエロ」。
函館とその周辺だけで17店舗を展開し、マクドナルドなど大手ハンバーガーチェーンの店舗数の合計を上回り、道南では圧倒的な存在感を放っている。
私が訪れたのは空港に近い「戸倉店」、まるでテーマパークのような建物は遊び心に溢れている。
入り口にはベタベタといろんな紙が貼ってある。
『全国ご当地バーガー日本一に輝きました』
すごいじゃない。
『函館名物中の名物』
『ここ函館でしか食べれん』
そしてこんなのもあった。
『王会長の友達周富徳さん「コレ!スゴク旨いネーと絶賛」』
とにかく凄そうなので、「ラッキーピエロに行こう」と言うと、すかさず「あそこはまずいからやめといた方がいい」と嗜められた。
しかしやっぱり諦めきれず、最終日にどうしても行きたいと言って連れていってもらった。
店内に入ると、期待通りのテーマパーク。
店の入り口にはピエロとマリリン・モンローが揃ってお迎えしてくれた。
私、このノリ嫌いじゃない。
客席を覗くと、想像を超えた素敵な内装で、緑色のベンチシートが格好いい。
やっぱりこの店、好きかもしれない。
ただ私たちが入ったのは午後1時半ごろだったが、客席はほぼ満席で5人で座れる席は空いていなかった。
広めの待合室が空いていたので、「ここで食べてもいい?」と聞くと、「ここでよければ」と即OKが出た。
待合室の壁には一面にアメリカの古いダイナーやハンバーガーショップの写真が飾られていた。
オーナーさんがこういう店舗を研究して、個性的な「ラッキーピエロ」を作り上げたに違いない。
メニューは実に多彩で、ハンバーガーだけではなく、オムライスや焼きそば、カツ丼からピザまで、まさになんでもありのお店なのだ。
しかも、値段がリーズナブルだ。
これだけメニューが豊富だと迷ってしまうものだが、「ラッキーピエロ」には絶対的な人気ナンバー1のメニューがあるというので、最初からそれを食べることに決めていた。
それがこの「チャイニーズチキンバーガー」(380円+税)。
包装紙には『異国情緒が色濃く残る 浪漫函館』という一文が印刷されていた。
何から何まで不思議なお店だ。
「チャイニーズチキンバーガー」と一緒に注文したのは、「ラッキーガラナ」という謎の飲み物。
「ガラナ」というのはアマゾン原産の植物の名前だが、コーラが日本に進出した時、日本の飲料メーカーが対抗してガラナ飲料を開発した。
コーラの進出が遅れた北海道ではこのガラナ飲料が今も生き残っていて、「ラッキーピエロ」のオリジナル飲料である「ラッキーガラナ」はその中でも年間12万本を売り上げる人気商品であり、函館土産としても大人気だという。
飲んでみると、ちょっと色の薄いコーラのような炭酸飲料で、ハンバーガーには文句なく合う。
ということで、「ラッキーガラナ」に気を取られてしまって、肝心の「チャイニーズチキンバーガー」の写真を撮るのを忘れてしまった。
「ラッキーピエロは不味い」と言っていた友人は実はこの「チャイニーズチキンバーガー」を食べたことがないことが判明、実際に食べてみると、甘辛味のテリヤキチキンにマヨネーズがかかったような味で、個人的にはとても美味しいと感じた。
函館の若者たちが「ラッキーピエロ」に集まる理由が私にはよくわかる。
シニアになると、この手のぶっ飛んだお店を毛嫌いする傾向があるが、この店はユニークで美味しい。
一日函館の人気観光スポットを回ってみたが、私は「ラッキーピエロ」が一番函館らしいと感じた。
次にもし来ることがあれば、また是非立ち寄って別のメニューにも挑戦してみたい、そう感じさせてくれる楽しいお店だった。
食べログ評価3.30、私の評価は4.00。
「ラッキーピエロ 戸倉店」 電話:0138-59-5888 営業時間:10:00~翌0:30 定休日:無休 https://luckypierrot.jp/shop/tokura/
