昼間の時間がぽっこり空いたので、谷根千エリアに行ってみることにした。
千代田線の千駄木駅からの駅散歩だ。
岡倉天心記念公園の黄金像
千駄木駅を降り、谷中銀座の入り口を横目に通り過ぎて、細い路地を進む。
目指すは、地図アプリで見つけた「岡倉天心記念公園」だ。
岡倉天心は明治期に活躍した文人で、「院展」で知られる日本美術院を創設した人だ。近代日本美術の確立に大きな功績を残した人物というイメージはあるが、正直よく知らない。
下町の住宅街の中にポツンとたたずむ緑に覆われた小さな公園、ここが岡倉天心記念公園だった。
「岡倉天心宅跡」の文字とともに、「旧前期日本美術院跡」とも書かれている。
『日本美術院は明治31年(1898)岡倉天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観、下村観山らがいた。
活動は絵画が主で、従来の日本画の流派に反対し、洋画の手法をとり入れ、近代日本画に清新の気を与えた。』
「岡倉天心先生舊宅跡 日本美術院発祥之地」と書かれた石碑もある。
岡倉天心は、明治31年から茨城県五浦に移転する39年まで、ここに住み、ここを活動の拠点とした。
特別何かが残っているわけではない。
どこにでもある普通の児童公園だが、唯一この公園を特徴付けているのが、こちらの六角堂だ。
谷中から茨城県に美術院を移した天心は、五浦という地に六角堂を建てた。公園の六角堂は、これを模して作られたもののようだ。
六角堂の中を覗くと、金色に輝く岡倉天心像が安置されていた。
「何で、金色なのだろう? これも芸術か?」
この像にどういう意味が込められているのか、岡倉天心がどのような人物だったのか、この公園に来ただけではほとんど理解できない。
彼が書いた「茶の本」でも一度読んでみるか・・・。
須藤公園の河童と亀と滝
岡倉天心記念公園を後にして、千駄木駅を越えて西へ進む。
千駄木から本郷へは上り坂になるが、その斜面を覆うように突然森が現れる。
「須藤公園」である。
公園に立てられた案内板には、こう書かれてあった。
『江戸時代、この地は、江戸の郊外にあたり、加賀金沢藩の支藩である大聖寺藩の下屋敷でした。
屋敷は、閑静で敷地も広く、後に弥生岡をひかえ、前には遠く東京湾を隔てて房総半島の山々が望まれるなどの景勝の地でした。
明治維新後、長州出身の政治家、品川弥二郎の邸宅となり、その後、明治22年、実業家の須藤吉右衛門に買い取られ、庭園は、須藤家屋敷の一部として、大名庭園の旧態を損なわないよう保存されました。』
昭和になって須藤家から東京市に寄贈され公園として今日に至ったようだ。
5月上旬で花の季節を終えた藤棚の下に入って、赤い須藤弁財天を眺める。
池のほとりに「命名 への河童」と彫られた標識を見つけた。
「何だ?」と思って、あたりをよく見ると・・・
池の真ん中に、小さな河童がいる。
誰が何の目的で置いたのか、ネットで調べてみたがよくわからなかった。
蓮の花が咲く季節だ。
不忍の池にもたくさんの蓮が咲いているだろうか?
池の向こう岸には、2匹の亀がのどかに日向ぼっこをしている。
須藤公園では、もともと東京に生えている植物を意図的に植栽しているという。
日向ぼっこしている亀は、「クサガメ」。
「和亀保護の会」という団体のサイトによれば、日本固有の亀は「ニホンイシガメ」であり、「クサガメ」は「扱いを慎重にする亀」に分類されている。
『クサガメは和亀保護の会が活動をはじめた2004年頃は在来種とされていましたが、現在は江戸時代以降に朝鮮半島や中国から持ち込まれた外来種の可能性が高いとされています。
ニホンイシガメとの交雑が問題視されており、当会では地域の方たち(ため池関係)と相談しながらイシガメとクサガメが出会わないよう移動するなどの対策を検討しています。』
そして須藤公園最大の売りは、こちらの滝だ。
高さは、10m。
2003年に公募で「須藤の滝」と命名された。
ただこの滝、水が流れるのは、午前10時から午後4時までだと、文京区のホームページに書いてある。
何とも都会的な滝なのだ。
丘の上の豪邸街
須藤の滝に沿って急な坂を登っていくと、閑静な住宅街に出る。
古くて立派な木造家屋。こんな広々とした家が並んでいるのだ。
お庭も綺麗に手入れされている。
瓦を乗せた立派な塀に囲まれた豪邸もある。
石塀の広大な邸宅もある。
須藤と書かれた表札。須藤公園を寄贈した須藤家の末裔だろうか?
洋風の豪邸もある。
丘の上に並ぶ豪邸街は、かつて海を望むことができる超高級住宅街だったのだろう。
森鴎外記念館と観潮楼
そんな住宅街を抜けると、団子坂に出る。
夏目漱石、森鴎外、二葉亭四迷、正岡子規、江戸川乱歩など、文豪たちの作品にたびたび登場する地名だ。
明治から大正にかけて、多くの文人がこの界隈に暮らしていたのだ。
そんな団子坂沿いに、コンクリート造りのモダンな建物が建っている。
「文京区立 森鴎外記念館」。
かつて、森鴎外が暮らした邸宅跡に生誕150年を記念してオープンした。
記念館の裏手に回ると、「観潮楼趾」と書かれた石盤が。
森鴎外は1892年から亡くなるまで30年間ここに暮らし、自宅を「観潮楼」と称した。家の2階からは東京湾が望めたからだ。
観潮楼には、鴎外を訪ねて永井荷風、芥川龍之介、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉など多くの文人が訪れ、サロンの役割も果たしていた。
記念館の敷地内には、大きなイチョウの木とその脇に埋め込まれた石が残されているが、これは鴎外の生前からあったものだ。
記念館の入口を入ると、シンプルな壁面に森鴎外のレリーフが飾られていた。
鴎外は陸軍軍医として日清日露戦争にも従軍、軍医総監にまで上り詰める傍ら、小説家、戯曲家、評論家、翻訳家としても活躍した。
当時男性中心だった文壇の中で、鴎外は女性作家を差別しなかった。中でも高く評価し応援したのが、樋口一葉、与謝野晶子、平塚らいてうの3人だ。今ちょうどこの3人の特別展も記念館で開かれていた。
平塚らいてうの活動の場となった青鞜社も、ここ千駄木にあった。
入館料500円を入り口で払い、打ちっ放しのコンクリートに挟まれた階段を降りる。
しかし残念ながら、展示室の撮影は禁止だった。
展示スペースはさほど広くはない。鴎外の足跡がパネルで示され、写真や作品が発表された雑誌が並べられている。
展示スペースの最後に映像シアターがあり、観潮楼のこと、千駄木のこと、そして現代の作家3人が森鴎外を読み解くVTRが流される。
森鴎外、ほとんど読んだことがないなあ。
千駄木を歩くと、明治期の日本のことをもっと勉強しなさいと諭されている気がした。
