香港とマカオをつなぐ世界最長の橋「港珠澳大橋」が開通したのは10月24日のことだった。全長55km。2009年に着工以来、9年かけて大事業を成し遂げたのだ。
しかし、この巨大プロジェクトの背後には、香港、マカオを同化しようという中国政府の長期戦略がある。
人と物の往来を活発化させれば、いつの間にかエリアの同質化が進む。悠久の歴史を持つ中国のしたたかさを感じる。
さて、旅の話をしよう。
年末年始の休みが始まった12月28日。私は成田空港から香港に飛んだ。目的は、30年ぶりに香港・マカオを訪ねることと最近何かと話題に上る深圳を初めて訪問することだった。
成田空港で、中国元と香港ドルをそれぞれ1万円分両替した。
マカオではパタカという通貨が使われているが、香港ドルも流通しているというのでそれを使うことにした。
午前10時35分発のキャセイパシフィック航空便に乗り、香港に到着したのは現地時間の午後3時過ぎだった。
香港の街へは向かわず、空港からマカオへ直行する予定だ。
マカオは中国語では「澳門」。案内板に従ってターミナルビル内を移動すると、「内地/澳門交通及旅遊服務」と書かれたカウンターが現れる。当然ここだと思ったのだが、事前にネットで調べた情報では「B4」というバス停からバスが出ると書かれていた。
インフォメーションカウンターがあったので聞くと、奥のオレンジ色の通路を左に曲がり「B4」のバス停に行けと言う。ネット情報は正しかったようだ。
それにしてもこのカウンターは紛らわしい。旅行社が運行するツアーのカウンターなのだろうか?
B4のバス停はちょっと寂しい場所にあった。
香港空港と「大橋香港口岸」、すなわち港珠澳大橋の香港側をつなぐシャトルバスのようだ。短い距離をぐるぐる巡っているバスで、決まった発車時刻は表示されていない。
やって来たのは、緑色の二階建てバス。ドアの脇にはっきりと「B4」と書かれている。
料金は6香港ドル(約82円)。
ただ私が持っている一番小さなお札は20ドル紙幣だった。運転手に示すと、お釣りをくれるわけでもなく料金箱に入れろと言う。香港の公共交通機関ではお釣りがもらえない。常に小銭を持っておくか、「オクトパス」というスイカ・パスモ的なプリペイカードを使わなければならないことを知った。
バスは10分足らずで大きな建物に到着した。ここが「大橋香港口岸」だ。
入り口には「往 珠海及澳門」の文字。
橋の向こう側は、中国の珠海かそのお隣のマカオであり、どちらへ行くにもここで香港の出国手続きをしなければならない。
建物の中に入ると、巨大な屋根の下にたくさんの出国カウンターが並んでいた。
現在はまだ「一国二制度」が適用されている香港とマカオ。だから橋を渡るには必ず出入国手続きが必要である。あと30年ほど経って香港とマカオが完全に中国に呑み込まれたら、この巨大施設もまったく不要になるというわけだ。
ある意味では仮設の施設ということもできるが、何でも巨大に作るのがいかにも中国流。この橋が香港ではなく、中国政府のイニシアティブで作られたことがこうした施設を見るだけでよくわかる。
世界最長の橋が完成したというので、さぞや大勢の中国人観光客が殺到して混雑しているものと勝手に想像していた。ところが驚くほどガラガラだった。
真新しいチケット販売機が並んでいる。
オクトパスを持っていればこの自販機でバスのチケットを買えるらしいが、現金とクレジットカードしか持ち合わせない私は通常のカウンターでチケットを購入した。
橋を渡るには専用のシャトルバスに乗らなければならない。
マカオまで片道65香港ドル(約887円)。完成したばかりの世界最長の海上大橋を渡る料金としてはリーズナブルだと思う。
澳門と書かれた案内に従って外に出ると、ちょうどシャトルバスが出発するところだった。
香港到着からまだ1時間も経っていない。ここまで予想以上に順調だ。
バスは出発するとすぐに海上に伸びる橋が見えて来た。
9年の歳月と2兆円の巨費を投じたと言われる橋にも関わらず、ほとんど車が走っていない。日本ではとても考えられない状況だ。あれだけ物見高い中国人がこの橋を渡りたがらないはずはない。背景に一体どういう事情があるのだろう?
橋の向こうには、東京アクアラインの海ほたるパーキングエリアのような施設が見える。
橋の途中には、一部トンネル部分があった。
深圳や広州に向かう巨大船が通れる通路を確保するためだろうかと勝手に想いを巡らせた。
比較的短時間でトンネルを抜けると、今度は一部吊り橋のような部分が現れる。
相変わらず通行する自動車は少ない。後で調べたところでは、一般車両がこの橋を渡るには通行ライセンスが必要だが、そのライセンスは600台にしか発行されていないという。
この日の天気は曇り。橋の先はもやの中に消え入り、対岸を見通すことはできない。
車窓の両側には、ただただ濁った海が広がっていた。乗客たちもあまり外の景色に注意を払わず、居眠りしている人も多い。
旅行前には青い海の中をどこまでも一本の橋が伸びている美しい景色を想像していたが、現実は予想とはだいぶ違っていた。
走り始めて30分ほど経った頃、ようやく橋の向こうに街らしきものが見えて来た。
あれがマカオか、それとも珠海だろうか?
右手には丸い島がいくつも見えてきた。ゴツゴツした茶色い岩でできている。
そして海水の色は一段と茶色く濁って見える。
朝日新聞の元香港支局長だった津田邦宏氏が書いた「観光コースでない香港・マカオ」の中にこんな一節があった。
『マカオはダイナミックに動いてきた香港を横目に見ながら、近代という激動の時代をやり過ごしてきた。時代に追いつけなかった最大の理由は珠江の土砂だ。珠江河口の小さな澳門半島に生まれたマカオには大量の土砂が流れ込み、港としての機能を奪った。マカオは貿易港としての致命的な欠点によって香港に主役を譲らざるをえなかった。』
先にアジアに進出したポルトガルがイギリスにその地位を奪われた理由の一つが川の土砂だったとは、とても興味深い話である。
バスは30分余りで橋を渡りきり大きな建物が見えてきた。
マカオに着いたのかと思ったら、これは中国・珠海側の出入国管理施設だった。
そしてこちらがマカオの入国管理施設だ。どこもかしこも巨大で新しい。
実は先ほど通った珠海の入り口とこちらのマカオの入り口は、海を埋め立てた人工島に建造された。全てがとてつもないスケールで進行している。
ただ不必要に巨大な施設。無駄に歩いてパスポートコントロールを通り、すんなりマカオに入国した。
そして事前にネットで調べた情報をもとに、「101X」のバスに乗り込む。
マカオの旧市街をぐるりと回って、私が宿泊するホテル・リスボアが終点だ。運賃は6パタカ。先ほどのお釣りの中から10香港ドル札で払う。ここでもバスでお釣りはもらえなかった。
人工島からマカオ半島へ橋を渡る。向こうに見える橋は珠海に繋がる橋、その向こうに見えるのは珠海のビル群だ。
香港とマカオと中国。
それはあえて国境を設けるのが不自然なほど近接している。港珠澳大橋の開通は、無意識のうちに香港とマカオと中国の一体性を強固にするに違いない。
マカオは小さな街だけれど、夕方で渋滞も激しく、終点に着くまでに40分もかかった。
バスターミナルに降り立ち見上げると、「グランド・リスボア・マカオ」の黄金ビルがそびえ立っていた。
マカオの街の至る所から見えるこの特徴的なビルは、否応なしにマカオに戻ってきたことを感じさせた。
ウェルカム・トゥ・マカオ。
ホテルにチェックインしてから外に出ると、ド派手なネオンサインが30年ぶりに戻った私を歓迎してくれた。