<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 近所の人や孫も来てくれて伯母の葬儀が無事終わった #230315

怒涛の3日間が終わった。

13日の早朝にあの世に旅立った伯母の葬儀は、14日の16時から通夜、15日の12時15分から告別式という慌ただしい日程で行うことになった。

急な連絡にもかかわらず、東京から弟夫婦と末娘が仕事のスケジュールをやりくりして通夜に駆けつけてくれた。

通夜に参列する親族は、私たち夫婦と岡山市内に住む母、そして弟家族の6人となった。

ただ伯母は生前、近所の方々と濃い関係を築いて来ているので、「西組」という地区の総代の方に通夜告別式の場所と日程をお知らせし、基本的に家族葬だが縁の深かった方にはぜひご参加いただきたいと伝えた。

果たして何人の方が来られるのか全く予想がつかない。

13日の夜、思いがけず私たちの息子の一人から連絡があり、仕事を休み子供たちも学校をサボらせて告別式に参列すると言う。

一気に親族が5人増えることになり、それを葬儀場に伝えると用意した部屋では少し狭いので広めの部屋に変えた方がいいとアドバイスされた。

料金は同じだというので、広い方の部屋に変更する。

私がわざわざ選んだモダンな祭壇は、部屋を変更したためにオーソドックスな和風の祭壇に変わってしまったのは少し残念だった。

万一の時に備えて岡山に持って来ていた喪服をチェックすると、ワイシャツの襟が黄ばんでいるのに気づいた。

急遽「洋服の青山」にいってワイシャツと黒い靴下を買う。

そうしてバタバタと身繕いを整えて、葬儀場に着いたのは14日のお昼頃だった。

祭壇に飾る花の配置や名札をチェックしているとタクシーで母がやってきた。

一緒に伯母が眠る霊安室に入り、遺体と対面した。

午後1時からは「納棺の儀」、弟家族はまだ到着していなかったので、私たち夫婦と母の3人で立ち会うことになる。

いかにもおくりびとといった佇まいの人が来て、遺体をきれいに拭き清め、お化粧を施してくれる。

そして、いよいよ納棺。

ここで思わぬハプニングが起きた。

重々しい雰囲気でおくりびとの指示通りに小物を棺の中に入れている時だった。

妻が「確かピンクの棺をお願いしたはずなんですが、これって白ですよね」と間違いに気がついた。

生前ピンクが好きだった伯母のために私はあえて白ではなく淡いピンク色の棺を選んでいた。

私はぼーっとしていて気づかなかったが、さすが神経が細やかな妻はあれっと思ったらしい。

おくりびとたちは急に慌てだし、「今確認してきます」と言って霊安室を出てゆき、「大変失礼いたしました。すぐにピンクのものに代えさせていただきます」と言う。

一旦棺に収まっていた伯母を再び台の上に戻し、慌ただしく棺が白からピンクに入れ替えられる。

なかなか珍しいハプニングである。

怒る人なら激昂する場面だが、私たちはみんな笑ってしまった。

二度棺桶に入れられた伯母は「あんたらあ、何をしょん」と呆れているに違いない。

そして今度はピンクの棺に再び伯母の体を入れて、先ほどと同じように代わる代わる小物を定位置に収めていく。

1回目は勝手がわからないのでアドバイスを受けながら厳かに行っていた儀式も、2回目になるとみんな勝手がわかっているので、非常に手際よくあっという間に全ての小物が棺の中に収まった。

そして棺の蓋を閉め、納棺の儀は滞りなく終了。

あとは通夜が始まるのを待つだけだ。

午後3時ごろ、弟家族がタクシーで到着、バタバタと喪服に着替える。

元銀行員だった弟は葬儀の受付業務に慣れていて、私が苦手な部分で大いに頼りになる。

そうして3時半ごろに親族の準備ができて弟が受付のまわりなどを確認していると、早くも近所の人がポツポツとやって来始めた。

みんな70代80代、高齢の人ばかりだ。

顔見知りの人とは伯母の最後の様子など話をしながら通夜が始まるまでの時間を過ごす。

午後4時前に住職が到着し、予定通りに通夜が始まった。

結局、通夜に来てくれた近所の方は8名だった。

通常の通夜は、司会者の進行で始まるのだが、うちのお寺の住職はとにかく話好きな人でいきなり自分で通夜の開始を宣言し、延々と話し始めた。

これがまた、ありがたい説法ではなく、最近亡くなる方が多くて忙しいとかダラダラと愚痴や生臭い話が続くのだ。

まあ、このお坊さんはいつもこんな感じだし、近所の人たちの多くもこの寺の檀家なので慣れているのだが、この日のしょうもない話はいつも以上に長く、私は心の中で「早く読経を始めてくれ」と祈りながら長い話が終わるのを待つ。

住職は20分か30分間マイクを手に話し続けて、ようやく祭壇の前に腰を下ろした。

ここですかさず司会者が通夜開始の宣言を行い、やっと通常の通夜が始まった。

住職の読経に合わせて焼香、続いて仏様に捧げる歌をみんなで歌う。

これはどう考えても、のど自慢の住職が歌いたいだけのように感じる平板な歌で、みんな静かに囁くように歌う中、音楽家である弟の三女だけが楽譜を読み取って初めて聞く歌を正確に歌っているのが聞こえ、さすがだと感心した。

その後は、ひらがなでふりがながつけられた長々としたお経を渡され、一緒によみあげることを求められる。

いつものことながら、これが個人的には面倒でたまらない。

こうしてようやくお通夜が終わり、住職が退場した後で、私が親族代表の挨拶をしてお開きとなった。

葬式なんていうものは形式的なものではあるものの、伯母の最後の数年間のことを報告していると知らぬ間に目が潤んできて、この時初めて伯母の通夜をしているんだという実感が湧いてきた。

通夜が終わり、母と妻と弟家族の6人で岡山市内の中華料理店で会食をする。

そこで私がお坊さんの話があまりに酷かったという話をすると、弟もなんとかあの寺と縁を切れないかと思っていると意外なことを口にした。

弟は私と違って、岡山の墓を残したいと以前から言っていたので、てっきりお寺もセットだと思っていたのだが、自分が子供の頃から時々通ったお墓さえ残ればいいのであって、あのお坊さんの話は聞きたくないとはっきり言うのだ。

私も妻ももともとあのお坊さんは好きではなかったし、生前伯母の口からも悪口を聞いたことがある。

果たしてどうすればお墓を残しつつお寺と縁を切れるのか、そんな議論で盛り上がった。

その夜、家に戻ってから思いついたのだが、伯母の永代供養を高野山に頼んでみるのはどうだろう?

確か生前、伯母の口からも時々、高野山の話を聞いていたのを思い出したのだ。

我が家のお寺は高野山真言宗の末寺に当たり、故人の希望で高野山に永代供養をお願いしたと言えば無下に邪魔はされないのではないかと考えた。

今朝、弟にその提案をしてみたら即座に同意してくれて、近い将来、私が高野山を訪れてどこかのお寺に永代供養の相談をしてみることになった。

伯母は晩年、私たちに永代供養の希望を伝えていたのは事実で、頭の中にあったのはおそらく今のお寺での供養だったとは思うが高野山なら文句はあるまい。

住職の長々とした無駄話から思わぬ形で、伯母の供養の方向性がとんとん拍子にまとまった。

そして今日の告別式、大阪から次男の家族5人が駆けつけた。

時々遊びに行ったおばさんをぜひ見送りたいとお嫁さんが言ってくれたのだそうだ。

子供の学校や幼稚園を休ませて家族全員で平日に岡山まで来てくれたのだ。

ありがたいことである。

用意していたのり巻きを食べていると、見知らぬ男の人が3人やってきた。

伯母の実家の方たちで、電話では話したことがあるものの会うのはみんな初対面だった。

そこで挨拶をしていると今度は住職がもう到着したというので、そちらにも挨拶。

昨夜家族で合意した寺離れの計画については、当然住職には伝えず、にこやかに「今日もよろしくお願いします」と迎えた。

やや皮肉まじりに「今日は小さい子供がいるので、お話を短めにしていただくとありがたいです」と伝えると、住職は「今日は時間がないのでお話しはしません。その代わりお経は昨日より長くなります」とやや不快そうに答えた。

午後0時15分、予定通りに告別式が始まった。

この日の参列者は、親族が11人、そして親族以外が5人。

親族以外と言っても、2人は本家に当たる親類であり、残りの3人は伯母の実家の子孫たちだ。

だから文字通りの「家族葬」と言ってもいいだろう。

住職は通夜の時のような無駄話はせず、いきなり読経を始めてくれ、焼香をして告別式は比較的短時間で終わった。

というのは、告別式に続き初七日の法要を同時に済ませるためで、しかも火葬場が時間厳守のため、出棺の時間も厳密に決まって、それが住職に無駄話の時間を与えなかったのだ。

こうして告別式と初七日を一気に終わらせ、住職が退場、その後再び私が挨拶をし、参列者全員で伯母に最後のお別れを告げる準備をする間、司会の女性が伯母の生涯を情感豊かに紹介してくれた。

話の内容は私と妻から聞き取ったもので私にとっては知っていることばかりなのに、司会者の話を聞きながら改めて涙が溢れるのを止めることができなかった。

お坊さんの無駄話と違い、葬儀場にはしっかりとした演出力があるものだと感心させられる。

そしていよいよ伯母に最後の別れ、ピンクの棺には家族が一人ひとり書いた手紙を入れ、その上から祭壇を飾っていたたくさんの花を収めていく。

伯母の体がみるみるうちに色とりどりの花で覆い隠され、終いには棺から花が溢れそうになるほどだった。

ここでスタッフに一つのお願いをしてみた。

「ちょっと不謹慎かもしれませんが、みんなで棺を囲んで記念撮影してもいいですか?」

すぐにスタッフの人が対応してくれて、私のスマホを使い集合写真を撮ってくれた。

伯母の顔は花に埋もれて映らなかったけれど、この写真は後々もいい記念になるだろう。

告別式が終わると、慌ただしく車に乗り込み火葬場へと向かう。

喪主である私は位牌を持って霊柩車に乗るよう指示され、生まれて初めて霊柩車に乗った。

岡山市の火葬場は数年前に建て替えられたばかりで設備も最新だという。

伯母の棺は専用の台車に乗せられて焼却室に直行する。

同行してくれた住職がここでもお経を読み、喪主である私が一同を代表して点火のスイッチを回した。

昔の焼き場のような生々しさはなく、全てがシステマチックでドライな印象を受ける。

伯母の遺体が焼かれる間、入り口で1番の札を渡されて3階の控室で待つよう案内される。

1時間半ほどこの部屋で焼きあがるのを待って、1番を呼ぶアナウンスがあったら1階まで降りて来るように指示される。

伯母が亡くなってからの2日半、やたらと時間に追われていたのが、急にポッカリと時間が止まったようだ。

とはいえ久しぶりに会う親族同士、お互いの近況などを確認し楽しい時間を過ごせたが、子供たちには少し退屈したようなので、トランプかUNOでも持ってくればよかったと後悔する。

それでも意外に早く1時間半が経過し、骨になった伯母が横たわる部屋に案内された。

お骨拾いが始まると、それまでおとなしかった一番チビの男の子が俄然興味を示し、伯母の骨を何個も何個も骨壷の中に収める作業をしてくれた。

この子は最近恐竜に凝っていて、恐竜の骨格標本と伯母の骨上げに共通点があったのかもしれない。

こうして無事に伯母の骨が骨壷に収められると、その足で今度は我が家のお墓に向かった。

通常ならば四十九日の法要の後に納骨するするのだが、我が家の場合はずっと岡山にはいられないため遺骨を無人の家に放置しておくわけにもいかないだろうと、あらかじめ住職には告別式の当日に納骨までやってしまいたいとお願いしたのだ。

途中葬儀場に戻り、荷物のピックアップとともに、祭壇で使用した大量のお花の残りを受け取りお墓へと向かう。

午後5時に住職がお墓まで足を運んでくれて、弟家族や次男の家族も見守る中で納骨の儀式を行おうとした時、再び思わぬハプニングが起きた。

なんと弟が遺骨を家に置き忘れてきていたのだ。

住職に「あれっ? 肝心なものは?」と聞かれ、遺骨がないことに気づいた。

弟に「遺骨は?」と聞くと、弟の様子が一変し、しまったとばかりに駆け足で家まで取りに戻った。

ハアハア息を切らせながら遺骨を抱き抱えて戻ってきた弟は、みんなの爆笑に迎えられた。

ピンクの棺、住職の長話、そして遺骨の置き忘れ。

伊丹十三監督の映画「お葬式」ではないけれど、やはり葬儀の時にはいろいろと滑稽なことが起きるものだ。

お寺から紹介された石材店の人がお墓の前を開けて伯母の遺骨を墓の中に納めてくれた。

30歳の時に死別した夫との60年ぶりの再会である。

ちょっとロマンチックな気もするが、弟の遺骨忘れで全てが吹っ飛び笑いの中で伯母の葬儀は一通り終えることができた。

子供たちもお墓にお花を供えたりお水をやったりするのが面白かったらしく、想像したほど退屈せずに初めてのお葬式を楽しんだようだ。

こうして誰かが亡くなり、新たな命が生まれてくる。

不思議なものではあるが、こうして子供が参列する葬儀を見ていると自然に「輪廻」という言葉が頭に浮かんでくるのだ。

私たち家族にとって「ふるさと」を守ってくれた伯母の努力を、これからは私が引き継ぐことになる。

そして私の努力を子や孫の誰かが引き継いでくれるだろうか?

少子高齢化が進む今の日本で、「輪廻」を実践していくのはますます難しくなっている。

でも先のことをくよくよ考えてみても仕方がない。

私は自分ができることをして、少しでも伯母が残してくれたふるさとを素敵な場所に変えていくのみである。

<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 60年間ひとりで農地を守ってくれた気丈な伯母が永眠した #230313

1件のコメント 追加

コメントを残す