<吉祥寺残日録>磯田道史氏絶賛!「岡山を守る」百間川を歩く #200725

東京は今日も雨が降っている。

西日本ではもっと激しい雨が降っているらしく、今年は各地で川の氾濫が発生した。

日本は河川大国。

山に降った大量の雨が、急流を下って一気に海に流れ込む。

地理的条件が変えられない以上、「川との共存」は日本人の宿命なのだ。

先日、岡山に帰省した際、時間を作ってある水害対策の一例となる川を見に行ってきたので、その川の話を書いておきたい。

川の名前は「百間川」、「ひゃっけんがわ」と読む。

上の写真は、河口近くの百間川、豊かな水をたたえる何の変哲もない河川に見えるが、この河川には水害と戦った江戸時代の人たちの執念が凝縮しているという。

百間川は岡山市内を流れる川なのだが、私は60年間、この川には一度も興味を持つことなく生きてきた。

それが突然、百間川を見に行こうと思ったのは、NHK-BSの番組「英雄たちの選択」の中で、岡山出身の歴史学者・磯田道史氏が絶賛していたからだ。

岡山市内を流れる旭川は、安土桃山時代に城を築く際、人工的に川の流れを曲げて川幅も細くしたため、岡山城下は毎年洪水に悩まされたという。

江戸時代初期に岡山藩主・池田光政の命を受けた岡山藩郡代・津田永忠が建設したのが百間川だった。つまり、百間川は本流である旭川の氾濫を防ぐ目的で作られた長さ13キロの人工河川だったのだ。

百間川を「僕のふるさとの世界に誇る遺産」と呼ぶ磯田氏絶賛の仕組みはその分流地点にある。

レンタカーを走らせてようやくそれらしき場所を見つけた。

一本の堤防が伸びていて、左側が旭川、そして右側が百間川である。非常時の放水を目的としている百間川には普段ほとんど水は流れていない。

旭川と百間川を隔てる堤防が突然切れて、「百間川一の荒手」と呼ばれる巨大な石の建造物が出現した。

旭川の水位が上がると、氾濫する前に、この石積みの堤防を越えて水が百間川へと流れ出る仕組みだ。

手前にある丸みを帯びた石積みは「巻石」と呼ばれ、反対側にも同じものがある。

この治水施設は、津田永忠が構築したものをそのままの形で改築を重ね、今も受け継がれているという。

一の荒手は、他の堤防よりも低く設計されている。

旭川の水がここを越えて百間川へと流れ込む際には、ものすごい水圧がかかるため、土を盛っただけの通常の堤防では到底持ち堪えることはできない。

中でも、堤防につながる両端部分には一際大きな圧力がかかるために、頑丈で水の抵抗を減らすこうした「巻石」が築かれたというのである。

2018年に起きた西日本豪雨では岡山県西部で大きな被害が出たが、その際にも、百間川への放水によって岡山市内3300戸が浸水被害を免れた。岡山では滅多に降らない大雨だったが、この「一の荒手」と「巻石」は最大級の激流にも耐えたのである。

今年の梅雨も、百間川は活躍したそうで、国交省地方整備局の資料によると、7月13日から14日に降った大雨の際には旭川の水位を38cm下げる効果があったという。

江戸時代というと、現代から見ると科学も技術も数段劣っているように考えがちだが、どうして人間の叡智というものはすごいものがあるのだ。

このように非常時には大活躍する百間川だが、平時にはほとんど水が流れていない。

上の写真で説明すると、分流部の石積みの左側奥に広がる草むらが百間川なのだ。

私が長い間抱いていた百間川の印象はまさにこの「水無川」である。

では平時には、旭川から百間川にはどうやって水が流れているのだろう?

百間川の源流は、この小さなせせらぎだった。

中央に見える水門と通って旭川の水が少しずつ、百間川に流れ出る仕掛けだ。

私はこの場所に初めてきたが、何か懐かしい昔の川の光景がそこにはあった。

今の日本列島では、護岸はコンクリートで固められ殺風景になった河川が多いが、もともとこれが日本の情景だったのだろう。

百間川は分流地点から市街地を避けるように東に流れ、JR東岡山駅付近で南へと大きく進路を変える。

津田永忠は、水害対策だけではなく百間川を利用した新田開発も行った。

今度は、百間川の河口付近を見にいこう。

百間川の河口付近には、広大な水田が広がっていた。

このあたりはかつて、すべて干潟だった。

百間川開削の大土木事業には莫大な費用がかかったため、藩内にはこれに反対する声が高まった。

そうした反対を抑え、藩の財政を豊かにするために、津田永忠は百間川河口流域の大干拓事業に乗り出す。

この周辺を走ると、縦横無尽に水路が張り巡らされていることがわかる。

こうして水をコントロールしながら、新たな水田を開発して行ったのだ。

百間川の海につながる河口部分は、水門によって仕切られ、海水が逆流しないようなっている。

こうして分流地点では小さなせせらぎだった百間川は、河口部分では満々と水とたたえる大河の趣を見せる。

こうした百間川の水は周囲の水田を潤し、大切な農業用水となっているのだ。

1967年に作られた「昭和水門」の隣に、2014年に新たに「平成水門」が建設された。

「ライジングセクターゲート」と呼ばれる最新式の水門で、この方式としては国内最大だという。

その時代時代の技術を使い、水害と戦ってきた日本人。

江戸時代の知恵が現在もまだ通用するんだということを知ると、ちょっと勇気をもらえる気がしてくる。

日本人の治水技術を示す歴史的遺産「百間川」は一見の価値がある。

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