ホテルの近くに一つの銅像が立っていた。

日露戦争で戦死したロシア太平洋艦隊司令長官マカロフ将軍の像である。
彼は当時ロシア海軍屈指の名将として世界的に知られていたが、部下たちからは「マカロフ爺さん」と呼ばれとても愛された人物だった。
今月17日、韓国企業「シンルイ・グループ」が、鬱陵島沖に沈んでいた帝政ロシアの軍艦「ドンスコイ」を発見したと発表した。
「ドンスコイ」は日露戦争末期の1905年、日本海海戦に参加し自沈した。なぜかこの船に15兆円もの金塊が積まれていたという噂が広まり、これまでにも何度か引き上げ話が浮上しては消えていった。今回も15兆円の金貨を裏付けに仮想通貨を発行するといういかがわしい話に展開していて、どうやら詐欺事件になりそうな雲行きだ。

いまだに時折浮上して来る日露戦争の亡霊。
1904−05年に日本と帝政ロシアの間で起きたこの戦争は、20世紀最初の帝国主義戦争だった。アジアの小国・日本が西洋の軍事大国ロシアを破ったこの戦いは、日本だけでなく植民地支配に苦しむ多くの民族に勇気を与えた。
しかし、当時の技術力では、ロシアはあまりに広大で兵員の輸送も思うように行かなかった。日本に「地の利」があったということだろう。
ウラジオストクでは、日本艦隊による砲撃が一度だけあったが大きな被害もなく、そのまま終戦を迎えた。

日露戦争後、両国は急速に接近しロシア革命が起きるまで良好な関係が続いた。
1907年には日露協商が調印され、満州は南を日本、北をロシアの影響圏とすること、朝鮮は日本、外蒙古はロシアの特殊権益とすることを双方で合意した。この時代には両国の共通の敵は満州進出を狙うアメリカだった。
日露戦争のためウラジオを離れ帰国していた多くの日本人が戻ってきて、日本人街にも活気が戻った。

金角湾を望む公園の中に立つ「ニコライ2世凱旋門」。
1891年、当時皇太子だったニコライ2世が日本訪問の後、ウラジオストクに立ち寄ったことを記念して建てられた。
当時もウラジオと日本、特に長崎は交流が活発で、若き日のニコライも長崎に遊んだ。
その頃の話は、以前「稲佐のお栄さん」というブログを書いた。
日本とロシアは常に敵対していたのではなく、日露戦争を挟んで関係良好な時代もあったのだ。

しかし、そんな日露の蜜月は、1917年の革命であっけなく終わる。
共産主義革命の拡大に危機感を抱いた英仏米日は、干渉戦争に向けた準備を始める。1918年1月、日本は自国民保護を名目にウラジオストクに軍艦2隻を派遣した。
陸軍から派遣された中嶋正武少将は寺内首相から「極東に日本の息のかかった緩衝国、すなわち傀儡政権を現地「穏健」分子をして組織せしむること」という指示を受けた。
8月、日本は本格的なシベリア出兵宣言を発表した。すぐに、アメリカ、イギリス、フランスがそれに続き、チェコスロヴァキア軍団救出を名目とした干渉戦争が始まった。
この干渉戦争で日本は主要な役割を果たした。1919年10月までに送り込んだ兵力は12万人、それに対しアメリカは1万人、その他の軍隊は合わせて2万8000人で、日本が突出していた。
各国の干渉にも関わらず、極東でも赤軍やパルチザンの勢いは止まらず、反革命の白軍は崩壊、日本を除く各国は撤兵を決断する。

そうした状況の中で起きたのが1920年の「尼港事件」である。
アムール川河口にあるニコラエフスクの街で赤軍による大規模な住民虐殺事件が起きる。街の人口の半分を超える約6000人が殺されたとされるが、この中には日本の領事や日本人住民も含まれていた。日本人の犠牲者は731人にのぼりほぼ皆殺しだった。
この事件を受けて、4月4日、日本軍はウラジオストク市内で攻撃を開始し、主要な建物を占拠した。ソビエト政府は直接の対決を避け、4月6日に緩衝国家「極東共和国」の樹立を宣言した。
結局、最後までロシアにとどまっていた日本軍も1922年何の成果もないまま撤兵することになった。

ロシア革命とシベリア出兵は、革命前6000人が暮らしていたウラジオの日本人たちの生活も破壊した。日本人の大半がウラジオを去り、日露の蜜月は終わった。
ソビエト政権がウラジオストクを掌握した後も600人ほどの日本人が暮らしていたという。しかし満州事変が勃発し、日本の大陸侵略が本格化すると日本とソ連の関係はさらに緊迫し、ウラジオに住む日本人たちは様々な嫌疑をかけられて逮捕されていく。
そして1945年8月、ソ連軍は突然日本に宣戦布告。戦後は多くの日本人がシベリアに抑留された。

中央広場にほど近いオケアン大通りには、激動の歴史をずっと目撃してきた旧日本総領事館の建物が残っている。
シベリア出兵の際は司令部としても使われ、戦後の1946年まで日本の領事館として使われたという。

博物館に飾られていた古いウラジオストクの写真。カタカナで「セントラルホテル」と書かれた看板も見える。
このエリアはかつての日本人街で、当時の建物も多く残っているようだ。

一方で、スポーツ湾近くにある競技場「ディナモ・スタジアム」は、戦後抑留された日本兵によって建設された。シベリア鉄道をはじめ、詳しく調べれば日本人にゆかりのある場所がたくさんある、それがウラジオストクなのだ。
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出国の日、ウラジオストク空港で偶然ある写真を見つけた。

出発ロビーに片隅に展示されていた白黒の写真。誰も見る人はいない。
時間に余裕があった私は何気なくその写真を見ることにした。

結婚式の花嫁と友人たちの写真。
雪の中で撮影された写真だ。

こちらも雪の中で水を運ぶ少女の写真。
説明書きを見て、ハッとした。
これらの写真を撮影したのは、何と日本人だったのだ。

山添三郎さん。写真中央に映っている男性だ。
彼は「満州開拓科学研究所」に勤務する学者だった。厳しい満州で生きる技術を研究するため、1930年代終わりから40年代初めにかけて、当時ハルピンの東方にあったロマノフカ村のロシア人農民たちを撮影した。

この村で暮らしていたのは、古儀式派と呼ばれたロシア正教の異端の人たちだった。

村人たちは、虎狩りもしていた。
今となっては貴重な写真だ。

これらの写真は、戦後公開されることなく山添が保存していたものだが、ロシア文化研究者の中村喜和さんが発見し、ロシアの博物館に提供した。

山添は、写真に映るすべての村人の名前を記録していた。それをもとにロシア人研究者が裏どり調査を進め、今はないロマノフカ村の人々や生活ぶりが現代に蘇ったのだ。
山添の目的は満州開拓を進めるための研究だったかもしれないが、彼の残した写真はロシアで高く評価され、ウラジオだけでなくモスクワの博物館でも展示された。

激動の時代を歩んだロシア極東地方にも今は穏やかな時が流れている。
日本とロシアが隣国として、良好な関係が築ける日が来ることを希望する。
そのためには、過去を知り、お互いの痛みを理解し、それを乗り越えて未来に向けた新たな関係構築をする寛容な心が双方に必要だろう。
かつて親密な時代もあったことを、私たちはまず知ることから始めたいと思う。
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