稲佐のお栄さん

ワールドカップで日本人の注目を集めるロシアだが、やはり遠い国だ。

7月に旅行を計画している極東のウラジオストクについても私はまったく知識を持っていない。そこで一冊の本を借りて読んでいる。

ゾーヤ・モルグン著「ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860〜1937年」。

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ウラジオストクの歴史は浅く、1860年にロシアの部隊が船で到着したのが始まりだとされる。1858年にロシアと中国の間で結ばれたアイグン条約によって、南ウスリー地方がロシアの手に移ったことによる。

その直後、1862年にはすでに最初の日本人移住者が現れる。当時、日露和親条約に基づきロシア船は長崎、下田、函館の港に寄港した。日本はまだ鎖国体制だったが、ロシア船は糧食の調達のために長崎稲佐に寄港した。1860年ロシアの要請で開設された「ロシアマタロス休息所」という水兵のための遊郭が本当の目的だったともされる。この遊郭でロシア人の相手をする遊女たちは「おろしあ女郎」と呼ばれた。

そしてその稲佐の人たちが最初にウラジオストクに移住した。まさに明治維新の激動期。ウラジオストクの日本人も、季節労働、密輸、路上取引という時代だったようだ。

1875年、日本とロシアは「樺太・千島交換条約」を結び、日本政府はウラジオストクに貿易事務館を置く。これから日露戦争までの30年間、ウラジオストクでは2000人以上の日本人が暮らした。

そんな時代に活躍した一人の女性のことを私はこの本で初めて知った。

彼女の名前は、道永エイ、通称「稲佐のお栄さん」と呼ばれた。彼女の経歴が長崎県商工会議所のホームページに載っていたので、そちらを引用させていただく。

 

『  明治13年(1880)のある日、諸岡マツの経営するロシア人相手のホテル・レストランの料亭「ボルガ」を天草生まれの20歳の娘が訪ねてきた。12歳の時、両親を相次いで失い、遠縁を頼って茂木の旅館で働いていたというその娘の名こそ、道永エイ(お栄)だ。
お栄はマツに近くの「ロシア将校集会所」を紹介され、住み込み家政婦として働くことになる。お栄はここでロシア語を修得。ロシア語が話せ、色白の美人で社交上手な彼女は将校達の人気者となり、その名は本国ロシアまで聞こえるようになった。21歳の時、ロシア艦隊戦艦「バルト号」の艦長に気に入られ、船長付のボーイとしてウラジオストックに渡り、ロシアで社交界の花形となるが、10年後に帰国。再びマツの片腕となって「ボルガ」で働くようになる。

明治24年(1891)、ロシア皇太子ニコラス二世(のちの皇帝)がギリシア親王ジョージとともに極東訪問の途中、艦隊を率いて8日間、長崎に立ち寄った。22歳の若い皇太子はお忍びで上陸し、上野彦馬に写真を撮らせたり、街角で出会った少女にかんざしを買ってやったりと、愉快な数日を過ごしたという。
その間、お栄は県当局の意を受けて、丸山芸者を呼んでの宴会などを設け、皇太子らを厚くもてなしたという。
明治26年(1893)、お栄はロシア軍艦で上海に渡り、帰るとすぐに、入港する船が一望できる高台(現・旭町、旭橋近く)に敷地面積300坪のホテル「ヴェスナー」を竣工させる。“ヴェスナー”はロシア語で「春」の意味。極寒の地、ロシアの人々にとっては「希望」を意味する響きだった。客室20、ロビー、宴会場、遊技場と、当時の最新の設備を備えた「ヴェスナー」は、連日連夜、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられ大いに賑わった。
その後、健康を損ねたお栄は、「ヴェスナー」の経営は諸岡マツに任せ、明治33年(1900)、平戸小屋(現・大鳥町)の小高い丘の上にロシア高官だけを顧客とするホテルと住居を建て、順調な経営をしていたが、日露戦争が始まると「露探」「ラシャメン」「非国民」などと罵られ、家に投石されるなど迫害される日々が続く。

明治38年(1905)、ロシアは降伏し、お栄は県当局から捕虜となったステッセル将軍の宿舎をとの申し入れを受け、延べ9408名のロシア軍捕虜を稲佐全域80軒で収容し世話をしている。戦争が終わった翌年、お栄は茂木に純洋館建ての「ビーチホテル」を開業。外国人観光客を誘致するなど経営手腕を発揮し、繁盛させたが、昭和2年(1927)5月、稲佐の地で数え年68才の生涯を終えた。』

 

モルグン氏の著書によると、エイは来日したニコライ二世と一夜を共にしたと書かれている。日露戦争前夜、日本とロシアの間にこんな物語があったとは知らなかった。

明治維新の大混乱と帝国主義全盛の世界情勢の中で、当時の日本人は一人一人の才覚を頼りにしぶとく生き延びたのだろう。平和な時代に生きる私たちとはまるで違う日本人がそこにはいた。

ただひたすら前を向き、世界にチャンスを求めた貧しい日本人。それが日清・日露の勝利を産み、やがて大東亜共栄圏建設という間違った理想に突き進む原動力になったのだろう。

歴史は、その時代の人々の思いが複雑に絡み合いながら作られる。

お栄さんや当時の日本人に思いを馳せながら、来月ウラジオストクの地を踏みたいと思う。

 

 

 

 

 

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