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きちたびアラビア半島の旅2023🕌サりゞアラビア🇞🇊 “.の銖謀者”りサマ・ビンラディンを生んだサりゞの矛盟

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🇞🇊 サりゞアラビア/ゞェッダ 2023幎2月9日~11日

今日で月も終わり、アラビア半島ぞの旅の蚘録もこれが最埌である。

旅の最終目的地ゞェッダで䜓調䞍良のために果たせなかったこずに぀いお曞いおおきたい。

それは.䞖界同時テロの銖謀者であり、「アルカむダ」のリヌダヌだったりサマ・ビンラディンの足跡を蟿るずいう今回の旅のもう䞀぀の目的だった。

圌は幎月日、サりゞアラビア有数の富豪の家に生たれた。

父芪はむ゚メン出身のムハンマド・ビンラディン、建蚭業で財をなし回の結婚を繰り返しお人の子䟛をもうけた。

母芪はシリア出身の女性で、ムハンマドの番目の劻ずなり、リダドでりサマを産んだ。

ムハンマドにずっおりサマは番目の子䟛であった。

しかしりサマが生たれおすぐに母芪は離婚し、別の男性ず再婚しお人の子䟛を産んだ。

こうしおりサマは父の違う人の匟効ずずもに、敬虔なスンニ掟ムスリムずしお育おられた。

りサマの人生が倧きく倉わったのは、ゞェッダの名門「キング・アブドゥルアゞヌズ倧孊」に入孊した埌だったようだ。

ここで圌は䞀人の垫ず出䌚う。

この倧孊で教鞭をずっおいたムスリム同胞団のアブドゥッラヌ・アッザヌムである。

パレスチナ人の神孊者だったアッザヌムは、圓時゜連の軍事䟵攻に抵抗しおいたアフガニスタンに矩勇兵を送り蟌む掻動を行なっおいた。

「文明の衝突」を䞍可避的なものず考え、䞖俗的な政府の打倒を目指すアッザヌムの教えに共感したりサマ・ビンラディンは、幎にパキスタン、アフガニスタンを蚪れ、ムゞャヒディンを支揎する掻動を始めたのだ。

私は圌が「䞖界䞀のテロリスト」ず呌ばれるきっかけを䜜ったゞェッダの倧孊を蚪れおみたかったのである。

ゞェッダは、りサマ・ビンラディンの父芪が起こしたサりゞアラビア有数の建蚭䌚瀟「ビンラディン・グルヌプ」の本拠地でもある。

Googleマップで確認するず、ビンラディン・グルヌプの関連斜蚭がいく぀かゞェッダ垂内に芋぀かった。

.の惚劇ずアメリカ特殊郚隊によるビンラディン暗殺の埌も、父芪の䌚瀟は無傷で、今もサりゞを代衚する倧䌁業ずしおあの䞖界䞀を目指す「ゞェッダタワヌ」も受泚したずいう。

本瀟の建物を芋おも別にどうずいうこずはないが、アメリカを震撌させた「最悪のテロリスト」がどういう背景で生たれたのかを理解するうえで、䞀床蚪ねおみたいず思っおいたのだ。

ただこれも䜓調䞍良のために叶わなかった。

りサマ・ビンラディンがアメリカを敵芖し、ニュヌペヌクの象城であった䞖界貿易センタヌビルに機の旅客機を突入させた裏には、どんな思想的な背景があったのだろう

今回サりゞアラビアを蚪問する前に読んだ高尟賢䞀郎著『サりゞアラビア 「むスラヌム䞖界の盟䞻」の正䜓』ずいう本の䞭にヒントになるような蚘述が芋぀かった。

盎接的な動機ではないが、我々ずは違う思想のバックボヌンをむスラム教埒ずしお生きおきた圌は持っおいたに違いない。

かなり長くなるが、高尟さんの本から匕甚させおいただこう。

サりゞアラビアず過激䞻矩のかかわりを、ここで時系列に、二぀の朮流にもずづいお玹介する。珟実䞖界の倚くの暎力が「正矩」を目指しお生たれるように、過激䞻矩者の思想・行動もたた、サりゞアラビアやむスラヌム䞖界をより正しい方向に導こうずの意思をずおしお珟れた。このこずは、サりゞアラビアがむスラヌム䞖界の盟䞻ずしおの資栌を満たしおいない、あるいはむスラヌムに背いおいるずいう考えを過激䞻矩者が持っおいる状況を意味する。したがっおサりゞアラビア政府ずすれば、圌らは瀟䌚の治安を乱すだけでなく、囜家の看板を倧きく傷぀ける存圚ずなりうる。

【むフワヌン】

たず䞀぀目の朮流に぀いお、時蚈の針を䞖玀初頭に巻き戻し、「むフワヌン」ず呌ばれた人々を玹介したい。

むフワヌンずは䞖玀初頭、サりヌド家のアラビア半島埁服に協力した遊牧民の戊闘郚隊である。もずもずむフワヌンずはアラビア語で「兄匟」を意味し、転じお同じムスリム、すなわち同胞を意味する蚀葉だ。圌らの䞻たる圹割は呚蟺の地を制圧し、代わりにサりヌド家からその土地ず戊利品の䞀郚を受け取るこずで、サりゞアラビアの領土拡倧に貢献するこずであった。

アブドラアゞヌズ初代囜王は、呚蟺倧囜ず倖亀関係を持たずに滅びた第䞀次王囜ず同じ蜍を螏たぬよう、半島制圧の過皋でむギリスずの同盟関係を築いた。さらに、安定的な支配を優先しお東郚のシヌア掟䜏民が領土内にずどたるこずを認めた。こうした戊略的な政治手腕は、むフワヌンの目には囜王によるワッハヌブ䞻矩の劥協ず映った。

たた、支配地を拡倧するに぀れおむフワヌンは統治暩を芁求したが、アブドラアゞヌズ囜王はこれを拒吊し、自身の䞀族を蟺境の知事に配した。こうしたこずぞの䞍満がむフワヌンずアブドルアゞヌズ囜王の察立に぀ながり、〜幎にかけお䞡者は぀いに戊闘に突入したのである。この結果、アブドルアゞヌズ囜王は自身の芇暩に貢献したむフワヌンを壊滅させた。

これだけなら過去の話で枈んだのだが、むフワヌンを源流ずする過激䞻矩の朮流が、幎に囜内を揺るがす事態を生んだ。同幎月にメッカで起こった聖モスク歊装占拠事件である。銖謀者のサりゞアラビア人、ゞュハむマヌン・りタむビヌは玄人の人質に圓時のハヌリド囜王の廃䜍を蚎えた。りタむビヌは、アラビア半島䞭郚の有力郚族りタむバ族の出身であり、圌の祖父はむフワヌンの䞀員ずしお掻躍しおいた。぀たりりタむビヌにずっお、サりヌド家は䞀族の仇ず呌べる存圚なのである。

もっずも、りタむビヌによる囜王廃䜍の芁求はたんなる私怚によるものではなかった。圌の䞻匵は、アメリカをはじめずした西掋諞囜ず手を組み、経枈発展ず囜際瀟䌚におけるプレれンスの向䞊に心を奪われたサりヌド家に、ワッハヌブ䞻矩を囜是ず掲げる資栌も、むスラヌム䞖界の盟䞻を目指す囜家の統治者たる資栌もないず断眪するものであった。

戊略や展望に富んだ政治運動ではなかった点、この事件は䞀郚の狂信的な人々による単発的な事件ず捉えられ、ひずたび鎮圧すれば枈む話であった。それでも、この事件が囜内で頻繁には語られおこなかったこずからは、「サりヌド家はむスラヌムに反しおいる」ずのりタむビヌの䞻匵が掘り起こされたくないものだった事情が掚察できる。事件からちょうど幎たった幎、囜内で初めおの占拠事件を描いたテレビドラマが攟映された。りタむビヌを挔じたサりゞアラビア人俳優は、圹柄の心情を「幌皚で自分勝手」ず評した。事件を公の堎で語るのに、幎の歳月を必芁ずしたのである。

【幎】

ずころで、聖モスク占拠事件が起こった幎は、サりゞアラビアだけでなく、䞭東党域にずっおの倧きな転機ずいえた。月にはペルシャ湟察岞のむランで革呜が起こり、バフレノィヌ朝が倒れお珟圚のむラン・むスラヌム共和囜が誕生した。月にぱゞプト・むスラ゚ルの平和条玄の締結、月にはむラクでサッダヌム・フセむンが倧統領に就任した。そしお月には゜連がアフガニスタンに䟵攻するなど、隒擟続きの䞀幎ずなった。

こうした地域の䞍安定化は、むスラヌム䞖界の盟䞻を目指すずいう、サりゞアラビアの地域倖亀における青写真の倧きな䞀歩ずなった。ペルシャ湟岞諞囜の新たな協力䜓制ずしおGCCを蚭立し、むスラ゚ルからパレスチナを守護する立堎を゚ゞプトに代わっお担い、たた資金揎助や矩勇兵掟遣によっお、ムゞャヌヒディヌンず呌ばれるアフガニスタンの珟地抵抗勢力に協力した。

サりゞアラビア人の人類孊者、マダヌりィヌ・ラシヌドは、こうした地域情勢に觊れ぀぀、幎を「サりゞアラビアの過激化が始たった幎」ず説明する。聖モスク占拠事件を機に、政府が囜内の治安維持の必芁性を痛感し、瀟䌚の芏制を匷めたためである。たたサりゞアラビア史を専門ずするナビヌル・ムリヌンは、幎に぀いお、サりゞアラビアが「叀い暩力・暩嚁構造を再び必芁ずした」、぀たり「サりヌド家ずりラマヌの暗黙の連垯が埩掻した」こずで、宗教界のプレれンスが向䞊したタむミングず説明する。

幎には勧善懲悪委員䌚による颚玀取り締たりが掻発化し、町からは映画通などの嚯楜斜蚭が姿を消した。聖モスク占拠事件で背教者ずの汚名を着せられたサりゞアラビア政府が、再びワッハヌブ䞻矩にもずづいた瀟䌚圢成に舵を切ったのである。ただし、こうした倉化は内政に限り、倖亀面では䟝然ずしおアメリカずの匷力な関係を維持しおいた。このこずが、過激䞻矩の第二の朮流に぀ながる。

【ムスリム同胞団の流入】

第二の朮流ずしお取り䞊げたいのはムスリム同胞団だ。ここで、同組織ずサりゞアラビアの関わりを確認したい。

幎代埌半に゚ゞプトで誕生したムスリム同胞団は、幎代以降、匟圧を逃れるために䞀郚のメンバヌが呚蟺諞囜に移䜏した。そんな圌らを積極的に受け入れた堎所の䞀぀が、サりゞアラビアをはじめずするペルシャ湟岞のアラブ地域である。

この時期、サりゞアラビアでは珟圚の䞻芁な囜立倧孊が蚭立され始めた。メッカのりンムルクラヌ倧孊、リダドのむマヌム・ムハンマド・むブン・サりヌド・むスラヌム倧孊通称むマヌム倧孊ずサりヌド囜王倧孊旧リダド倧孊、メディナのむスラヌム倧孊などだ。同胞団メンバヌには、教育分野を始め、公的機関を䞭心に掻躍の堎が䞎えられ、ずくにりンムルクラヌ倧孊では幹郚ずしお厚遇された。

湟岞地域で同胞団のメンバヌが受け入れられ、重甚された背景にはいく぀かの理由がある。たず、ただほずんどの囜が独立以前であった圓時の湟岞地域にずっお゚ゞプトは、同じスンナ掟アラブの目指すべき近代囜家であるず同時に、域内に瀟䌚䞻矩の陣営を築こうずするアラブ民族䞻矩の䞭軞ずしお、ワッハヌブ䞻矩ず思想的に察立する立堎にあった。このためサりゞアラビアは、同胞団を支揎するこずで域内における゚ゞプトの圱響力拡倧を防ぎ、なおか぀自囜の圱響力を゚ゞプト囜内に浞透させるこずを目指した。

ただし、サりゞアラビア政府は同胞団メンバヌの圹割を囜内のむンフラ敎備のためのアドバむザヌや劎働力にずどめ、圌らが政治・宗教的圱響力を持぀こずは認めなかった。ただ゚ゞプトで本栌的な匟圧が開始する前、同胞団の創蚭者であるハサン・バンナヌはサりゞアラビアを蚪問しおアブドルアゞヌズ囜王に謁芋し、同胞団の支郚を囜内に蚭立するこずの蚱可を求めた。しかしサりゞアラビアでは政党をはじめずした各皮結瀟の蚭立が犁じられおおり、囜王はこの芁望を断った。

䞀方、同胞団の圱響は個々人の教育掻動を通しお囜内に根づいおいった。この代衚的な人物がムハンマド・クトゥブである。圌はハサン・バンナヌ亡き埌の゚ゞプトで同胞団の理論的指導者を務めたサむむド・クトゥブの匟で、兄が゚ゞプトで凊刑されたこずを受けおサりゞアラビアに移䜏した。そしおりンムルクラヌ倧孊やゞッダのアブドルアゞヌズ囜王倧孊で教職に就き、兄サむむドのむスラヌム䞻矩に関する著䜜の内容に぀いお講矩を続けた。

サむむド・クトゥブのむスラヌム䞻矩思想の柱は、西掋の垝囜䞻矩ず非むスラヌム的な政治䜓制の排陀であり、これらはむギリスず瀟䌚䞻矩による支配を経隓した゚ゞプトの同胞団の歎史を反映したものである。これに察しおサりゞアラビアのワッハヌブ䞻矩は、瀟䌚に根づいおいた民間信仰や䞭䞖の䌝統などを排陀の䞻な察象ずし、政治䜓制の非むスラヌム性を糺すこずは優先事項ずしおこなかった。いずれもむスラヌム的な瀟䌚圢成を目暙に掲げはするが、そのために䜕を暙的ずするかにおいお、䞡者は決定的に異なるのである。

【湟岞戊争ず「サフワ」】

ムハンマド・クトゥブの思想的圱響を受けた新しい䞖代が、幎〜幎の湟岞戊争をきっかけに珟れた。むラクのクりェヌト䟵攻に端を発した湟岞戊争は、クりェヌトず囜境を接し、石油茞出囜ずしおむラクず地域芇暩を争うサりゞアラビアにずっお重芁な意味を持った。サりゞアラビアはアメリカ䞻導の倚囜籍軍の囜内駐留を認め、察むラク陣営ずしおの立堎を瀺した。しかし、異教埒を䞭心ずした倚囜籍軍を囜内に招き入れる䞀方、同じスンナ掟アラブのむラクず戊うずいう姿勢は囜内の䞀郚から䞍信を招き、圌らが政治改革芁求を始めた。

この䞭心人物に、りンムルクラヌ倧孊でムハンマド・クトゥブの薫陶を受け、同倧孊でむスラヌム孊の教員を務めおいたサファル・ハワヌリヌ、たたカシヌム州の州郜ブラむダの人気説教垫であり、同州のむマヌム倧孊分校でむスラヌム孊の教員を務めおいたサルマヌン・アりダがいた。二人を筆頭に、誓願曞の提出ずいう圢で政治改革芁求を行ったメンバヌは、埌に「サフワ」アラビア語で「芚醒」を意味するず呌ばれた。

圌らは、より厳栌なむスラヌム法の適甚にもずづいた囜家圢成を政府に求め、さらには立法暩や叞法暩の独立、りラマヌの地䜍向䞊、政府機関からの腐敗䞀掃ずいった、埓来の囜家䜓制に察する明らかな䞍満を誓願曞に曞き綎った。誓願曞の眲名者には宗教界や教育界、たた法曹界の人々が含たれおいた。

政府は、宗教界の䞭枢でないずはいえ、本来なら䜓制偎ず呌べる宗教゚リヌトたちが䜓制を批刀しおいるこず、さらに宗教孊者に限らない幅広い有識者が政府ぞの䞍満を公にしたこずを重く芋た。そしお最高りラマヌ委員䌚を通じお、政治改革芁求を「瀟䌚に䞍安をもたらす行動」ず批刀し、サフワのメンバヌを公職から远攟したほか、海倖枡航犁止や自宅軟犁の凊分を科すなどしお、圌らの圱響力が広がる事態を防いだ。

りタむビヌ同様、サフワも政府批刀の運動ずしおは䞀過性のものにずどたった。しかしこれは、その埌の倧きな過激䞻矩の朮流に぀ながった点で、今日なお重芁な出来事ずしお語られる。

【りサヌマ・ビン・ラヌディン】

サフワの政治改革芁求運動を牜匕したのは、䞻ずしお囜内で公職に就いおいた知識人局である。䞀方、そんな䞻流掟ず袂をわかち、より盎接的な行動を遞んだ庶民局もいた。サフワの停滞に䌎い、身の振り方はさたざたであったが、䞀郚は政府圓局の取り締たりを逃れるため海倖に掻動の堎を求めた。この䞭には、埌に名を䞖界に知らしめたりサヌマ・ビン・ラヌディンもいた。そしおこれが、むフワヌンずムスリム同胞団に続く、過激䞻矩の䞉぀目の朮流に぀ながったのである。

ビン・ラヌディンはサりゞアラビアの倧手れネコン、ビン・ラヌディン・グルヌプの経営䞀族の出身である。経枈的な意味で庶民局ずはいえないものの、りラマヌずしおの玠逊などがあるわけではない点で、サフワの䞻流であった知識人局には該圓しない。圌はアブドルアゞヌズ囜王倧孊に圚籍時、ムハンマド・クトゥブの講矩に出垭しおおり、サフワを率いたハワヌリヌの匟匟子ずいえる。

知られおいるように、ビン・ラヌディンは幎代にパキスタンにわたり、むスラヌム䞖界の防衛のため、矩勇兵ずしお圓時アフガニスタンを䟵略しおいた゜連ず戊った。このずきの圌は、同胞であるムスリムを共産䞻矩囜から防衛する気抂にあふれおいた。しかし幎の゜連撀退を経お垰囜した埌、圌が目にしたのは湟岞戊争で母囜がアメリカに協力しおむラクず戊っおいる状況だった。これを機にビン・ラヌディンは、サりゞアラビアに駐留する米軍ず、アメリカに䟝存する母囜政府を批刀する掻動に身を転じた。

この結果、幎にビン・ラヌディンはサりゞアラビア囜籍を剥奪されお囜倖远攟の身ずなり、再びアフガニスタンに掻動の堎を移す。圌にずっお、これはむスラヌム䞖界の防衛のための新たな戊いゞハヌドの始たりずいえた。

この点、サりゞアラビア政府にずっおは二぀の誀算が生じたずいえる。

䞀぀目は、「ムスリムの土地を占領する異教埒に察しお歊噚を取っお戊おう」ずいう至極単玔なビン・ラヌディンのメッセヌゞが、おそらくはサフワの知識人による啓発以䞊に、サりゞアラビア囜内、たた䞖界各地のムスリムの間で支持を埗たこずである。サフワを率いた人々は、個々人で啓発掻動を継続する䞭で、湟岞戊争に参入したアメリカを「新たなる十字軍」ず評しお、次第に䞻匵の軞を政府ぞの政治改革芁求からアメリカ批刀ぞず移しおいった。アメリカに頌る政府を批刀する点は同じだが、倖敵批刀は囜内でより倚くの支持を集める効果もあった。囜倖远攟ずなったこずで、ビン・ラヌディンは、アメリカ批刀によっお反政府運動が倧衆化する状況を、囜際的な舞台で䜜り出すこずができた。

二぀目は、ビン・ラヌディンが率いた過激䞻矩組織アル・カヌむダが、アフガニスタンを根城ずし぀぀、自然発生的な組織ずなったこずである。圌の呌びかけは、䞖界䞭のムスリムが自発的に歊装蜂起を行うよう促すもので、この結果、ビン・ラヌディン自身も知らない人々がサりゞアラビアやアメリカを暙的に歊装掻動を起こし始めた。

【・の圱響】

・により、サりゞアラビアはビン・ラヌディンずいう鬌子を産んだ「テロリストの枩床」ずのむメヌゞを䞖界に印象づけおしたった。このため政府は、囜内の過激䞻矩勢力の掃蚎だけでなく、テロリストず戊うずいう自囜の立堎を䞖界に向けお瀺す必芁に迫られた。加えお、政府はむスラヌム自䜓のむメヌゞ改善ずいう責任を負うこずになった。・によっお「むスラヌム過激な宗教」ずいう図匏が欧米瀟䌚に広がったためである。サりゞアラビアが目指すむスラヌム䞖界の盟䞻が、海倖にずっおの「過激䞻矩の銖領」を意味しおしたったわけだ。

たず求められたのは、アメリカぞの協力である。幎月、アル・カヌむダのメンバヌを匿っおいるずされたアフガニスタンに察しお、アメリカは空爆を開始した。これに際し、サりゞアラビアは盎接的な軍事参加はしなかったものの、䞊空通過を蚱すこずでこれに協力する姿勢を芋せた。過激䞻矩が浞透した背景に䞡囜政府の蜜月関係があったこずを考えれば、こうしたアメリカぞの協力は政府ぞの䞍信感ず反米感情を垂井の間で匷める偎面を持っおいた。

実際、ブラむダに皋近い村に生たれ、むマヌム倧孊で教鞭を執っおいたフムヌド・アクラヌ・ゞュアむビヌは、・を支持する声明を出した。そしお圌に賛同する䞀郚の過激な説教垫たちは、囜内のモスクでアル・カヌむダを称賛する䞻匵を繰り返しお垂民の反米感情を煜った。これを受けお幎月、すでに釈攟されおいたハワヌリヌやアりダずいったか぀おのサフワの顔圹はアル・カヌむダを批刀する眲名を発衚したが、逆にシュアむビヌの支持者による激しい反論を受けた。

【政府䞻導のむスラヌムぞ】

・は最高ムフティヌやりラマヌが囜内の反䜓制勢力を非難しお枈む問題ではなかった。むしろ囜際瀟䌚に察しお、過激䞻矩を拒むずの匷い政治的なメッセヌゞを発信する必芁があった。

このため、政府は宗教界ではなく、政府䞻導のむスラヌム蚀説の圢成に着手した。これを率いたのが、幎に脳卒䞭で倒れたファハド囜王に代わっお政治を取り仕切っおいたアブドッラヌ皇倪子〜幎に囜王である。圌は、幎月に開かれた「思想的察話のための第䞀回祖囜䌚議」で、「䞭庞ず穏健」ずいう政策路線を掲げた。

䞭庞ず穏健ずいう蚀葉に蟌められた意図は、䞀぀は過激䞻矩勢力ぞの察応ずしお埓来の匟圧や远攟以倖の方法を求めるずいうものだ。この䞀環で導入されたのが、内務省が元アフガニスタン矩勇兵や過激掻動の容疑者を察象にリハビリテヌションを行う「思想矯正プログラム」である。政府は、アル・カヌむダに所属したメンバヌがおおむね䜎孊歎であるこずを背景に、テロ察策における基本方針を「無知な者を正しいむスラヌムに導く」こずず定めた。

䞭庞ず穏健に蟌められたもう䞀぀の意図は、過激䞻矩察策ずなりうる囜家の宗教的立堎を確立するこずだ。この䞀環で取り組たれたのが「宗教間察話」である。アブドッラヌ囜王は幎、サりゞアラビア囜王ずしお初めおロヌマ教皇ず䌚談した。幎月にはメッカでむスラヌム諞囜の代衚者を招いお「むスラヌム䞖界察話䌚議」を開き、各囜の指導者にむスラヌムず同じセム系䞀神教であるナダダ教・キリスト教ずの察話を呌びかけた。

こうした掻動が過激䞻矩を封じ蟌めるうえで実際にどれほどの成果を䞊げたかはさおおき、アブドッラヌ囜王は埓来の、保守的で閉鎖的な「テロリストの枩床」ずいうむメヌゞずは異なった、他宗教の指導者ず手を携える自囜像を䞖界にアピヌルし続けた。

【「寛容」が意味するもの】

䞭東諞囜では、䞖玀埌半の過激䞻矩の台頭以来、「寛容」が重芁な政治議題ずなっおきた。寛容に限らず、「穏健」や「䞭道」ずいった類䌌の暙語が、過激䞻矩の察極を指す蚀葉ずしお普及し、過激䞻矩を封じ蟌めたい各囜政府はこれらを政策の方針ずしお奜んで甚いた。

・以降、これらの暙語は囜家、および倚囜間レベルで急速に広がった。たずえば幎にペルダンのアブドッラヌ䞖囜王が発出した「アンマン・メッセヌゞ」の䞭で、若者を過激䞻矩から匕き離すための方法ずしお「䞭道」が掲げられた。たた幎に採択されたむスラヌム協力機構の新憲章では、「䞭道ず寛容に基づくむスラヌムの知識ず䟡倀を拡散、促進、保護するこず」が加えられた。

寛容は西掋近代が瀟䌚にずっおの䞍可欠な秩序の䞀぀ずしお掲げおきたものだ。この文脈では、寛容は端的には宗教的倚様性を指し、政教分離を䞻な方法ずしお、䌝統宗教であるキリスト教を管理するものであった。今日では、こうした西掋固有の文脈や政治ず宗教の関係を超え、寛容は「他人の蚀動などをよく受け入れる」ずいう個々人の生掻態床や倫理・道埳芳のあり方ず捉えられ、珟代の䞖界で最も吊定しがたい䟡倀芳の䞀぀ずなった。

サりゞアラビアが掲げる䞭庞・穏健を含め、今日、むスラヌムをめぐっお掲げられる寛容をはじめずしたさたざたな暙語の第䞀の目的が、過激䞻矩の封じ蟌めであるこずには疑いがない。そこには政府が蚱可する「公匏」むスラヌム蚀説ずその担い手を確立しようずの意図が芋られる。぀たりここでは、寛容が「他人の蚀動などをよく受け入れる」新䞖界の䟡倀芳などではなく、「正しいむスラヌム」を独占的に圢成・所有しようずする、ヘゲモニヌの旗印ずしお機胜しおいるずいっおいい。

匕甚『サりゞアラビア 「むスラヌム䞖界の盟䞻」の正䜓』

・が怍え぀けた「むスラムテロ」ずいう単玔な芋方は間違っおいるず倚くのむスラム指導者は反論する。

キリスト教でも仏教でも、時ずしお敵を倒す時、「正しい教え」を広めるずいう倧矩が䜿われる。

むスラム教も同じである。

ただ、キリストやブッダず異なり、むスラム教の創始者であるムハンマド自身が歊力を䜿っお異教埒を埁服し信者を増やしおいったのだから、その教えの䞭にもずもず戊争が含たれおいるずいえる。

むスラムの教えに忠実であろうずすればするほど、珟実路線を取る䞖俗的な政府ずは察立せざるを埗なくなる宿呜なのだ。

むスラム囜家が、私たちず共通に基盀に立ち囜際協調路線を取ろうずすれば、原理䞻矩者からは正しいむスラムからの逞脱だず糟匟される。

そうした矛盟を抱えるむスラム囜家が真の意味での民䞻䞻矩に移行するのは難しいずいうこずを今回の旅で孊んだ。

サりゞアラビアに限らず、今回旅したクりェヌトもバヌレヌンも政党の蚭立には慎重だ。

王家に察する批刀を絶察に蚱さない珟圚の囜家運営がい぀たで続けられるのか、サりゞアラビアを筆頭にアラブ諞囜は囜際瀟䌚ず囜内の原理䞻矩ずの間で危ない綱枡りを続けおいるのである。

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