古代蝦夷と天皇家

日本政府による韓国に対する輸出規制強化の発表を受け、日韓関係はますます泥沼にはまり込んでいる。

日本国内の報道と韓国国内での報道の間にギャップが大きいこともあって、両国民とも相手国に非があると信じ込んでいる。

日韓関係が良好だったことはほとんどないが、それにしても両国政府が国内世論に対しバイアスがかかった情報を発信し続けていることの当然の帰結なので、この対立は当分解けることはないだろう。

さて、こんなご時世の中で、私は古代史の本を読んでいる。

石渡信一郎著「古代蝦夷と天皇家」。

1994年に出版された古い本で、石渡氏は元高校教師で日本古代史を研究されていた方のようだ。

私には石渡氏の説がどれほど真実なのか見抜く目はないが、漠然と抱いている私の古代史のイメージには極めて近いので、引用して書き残しておきたいと思う。

石渡氏の説のポイントは以下の通りだ。

・南方モンゴロイドのアイヌが縄文時代に日本列島全土に居住していた

・8000年近い縄文時代の間に朝鮮半島を経て、日本海を直接横切って、南西諸島を経由して日本列島に様々な種族が渡来し、先住の縄文人アイヌと混交した

・弥生文化は南朝鮮から渡来した北方モンゴロイドがもたらした

・弥生時代に朝鮮半島から渡来した人々の数は少なく、古墳時代に畿内に朝鮮人の大量渡来があった

つい先日、国立科学博物館の研究チームが丸太船を使って、台湾から与那国島に渡る実験航海に成功した。これも南方モンゴロイドが海を渡って日本列島にやってきたという仮説を証明するためのものだ。

こうして先に定住していた縄文人を朝鮮からやってきた弥生人が駆逐したというのが大きな構図だ。縄文人の痕跡は、北海道のアイヌや南九州や沖縄という辺境でより強く残り、両者の混血が現在の日本人の先祖となったというのが私の理解だ。

ただ石渡氏の説では、弥生時代よりもむしろ古墳時代が鍵となるという。忘れてしまうので、そのあたりの記述を引用しておきたい。

1985年の日本解剖学会総会では、池田次郎らは、古墳時代における大陸からの大量渡来が考えられるという報告をしている。

埴原和郎も、1986年に、「東アジアと日本人」の中で、短頭にみられるような同心円状の地方差から、古墳時代以後の渡来者が直接近畿地方に達して、そこに住みついた可能性があることを指摘し、「骨から古墳人を推理する」では、弥生時代の渡来者数を約10万、古墳時代の渡来者数を約267万人と推計している。埴原和郎は、翌年にこの推計値を改め、弥生時代から古墳時代にかけての約1000年間に100万人以上の渡来者があったとし、近畿地方の古墳時代人のような頭になるためには縄文系1に対し渡来系9の混血率が一番近いと発表している。

この混血率は、「続日本紀」にみえる、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)の上奏文とも符合する。

「先祖の阿知使主は、応神朝に17県の人民を率いて帰化し、高市郡檜隈村を賜ってそこに居住したが、現在高市郡内は檜隈忌寸氏と17県の人民が満ちていて、他姓の者は10に1、2である。」

この高市郡は、大和の飛鳥の中心地であり、大和飛鳥は古墳時代には古代国家の政治・文化の中心地であった。阿知使主は、後述するように、百済系の東漢(やまとのあや)氏の祖であるから、この上奏文から大和飛鳥の住民がほとんど朝鮮からの渡来者であったことが分かるのである。

尾本恵市は、ミトコンドリアDNAのデータに基づき、系統関係からみて、和人(日本人)に一番近いのは韓国人であるとしており、宝来聡は、ミトコンドリアDNAのデータから、和人は2つの群に大別され、そのうちの1つの群はアイヌと縄文人に近いと報告している。宝来は「縄文人や近世アイヌが、系統樹の上で早くに分岐した現代日本人とは、系統的にはかなり異なることを示している」と説明している。

これらのことを合わせ考えると、古墳時代に朝鮮人の大量渡来があったことや、古墳時代に成立した日本の古代国家が朝鮮系渡来人の国家であることがよく分かる

「古代蝦夷と天皇家」より

その上で、次のように続けている。

古墳時代に成立した日本の古代国家が朝鮮系渡来人の国家であると考えると、天皇家が朝鮮から渡来したことが分かるので、多くの学者たちは、大陸の住民の大量渡来の時期は古墳時代ではなく弥生時代であると主張しているのである。

また、学者たちは、大半の和人の祖先が朝鮮からの渡来者であるにもかかわらず、「朝鮮」もしくは「韓国」という言葉を避け、「大陸」という言葉を使ってごまかしている。これは、彼らが、体制側に遠慮しているためと、朝鮮人・韓国人に対する差別意識をもっているためであると私は考えている。

「古代蝦夷と天皇家」より

安倍さん周辺の人たちが聞いたら猛烈に怒りそうな説だが、学者の世界にも「忖度」はある。石渡氏の説をそのまま鵜呑みにする気はないし、現在の天皇家については高く評価しているが、歴史は歴史としてより真実に近いとされる合理的な説を知りたいと私は思うのだ。

石渡氏の説をもう少し引用したい。

4世紀の初め、朝鮮半島の北部では高句麗が楽浪・帯方の2郡(中国が朝鮮に置いていた郡)を滅ぼしたので、朝鮮半島の住民を抑圧していた中国の軍事力が消滅した。そこで、4世紀中ごろ、南朝鮮では、馬韓から百済、辰韓から新羅が国家を形成したが、日本列島でも、こうした情勢を背景として、4世紀中ごろに、畿内に古代国家が生まれた。古墳時代が始まったのもこのころであり、この古代国家を建設したのは朝鮮南部の加羅(伽耶)から渡来した集団である。

4世紀前半ごろに、この加羅系渡来集団は、北部九州にあった邪馬台国を滅ぼし、やがて瀬戸内海沿岸を経て、畿内に本拠を占め、4世紀中ごろには奈良盆地の東南部の纒向の地に王都を置く古代国家を建設した。その始祖王は、「日本書紀」に「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と書かれている崇神と思われる。纒向遺跡は崇神の王都であり、崇神の墓は、年代・規模からみて、纒向の地にある巨大前方後円墳の箸墓古墳と推定される。

崇神は、邪馬台国の王の後裔をよそおうために、中国から渡来した工人や倭国の工人を使って、偽の魏鏡として三角縁神獣鏡を作り、崇神の支配下の各地の豪族に分与したのであろう。

崇神が建設した加羅系倭国は、東日本の一部と西日本の小王国、および、加羅地域の小王国からなる大きな連合国家であり、崇神を始祖王とする畿内の王国がその盟主国であったとみられる。

「古代蝦夷と天皇家」より

崇神の王朝は、讃・珍・済・興・武と続くとされる。

これについて、石渡氏の説は・・・。

「記紀」は、崇神王朝の讃・珍・済・興の4代の王を、景行・成務・仲哀・神功(皇后)という架空の天皇(皇后)に置き換えているので、「宋書」に興の弟と書かれている倭王武は、仲哀と神功の間に生まれたとされている応神天皇に当たる。

応神については、すでに多くの学者から新王朝の始祖とする説が出されており、井上光貞は、応神は朝鮮海峡を渡って倭国に侵入し、新しい王朝を樹立したと見るべきであるという見解さえ発表している。

重要なことは、武が即位した頃から、大阪府陶邑の須恵器の主流が加羅系統から百済系統に代わることと、武の時代から、百済系の古墳が出現すること、及び、武の時代から飛鳥時代まで、倭国の文化が百済の文化と酷似していることである。

武の時代に、その須恵器の主流が加羅系統から百済系統に代わったことは、武=応神が百済出身であることを示唆している。

武=応神は、「日本書紀」に雄略5年に渡来したと書かれている百済の王子昆支(こんき)と推定される。

昆支は、百済の王の弟で、倭国に渡来し、崇神王朝の娘(ナカツヒメ)を娶り、倭国王武となったが、5世紀末ごろ新たにヤマト王朝を樹立し、その初代大王となった。昆支の死後、即位したのは、隅田八幡宮の人物画像鏡の銘文に「男弟王」と書かれている継体である。この銘文にみえる「日十大王」は昆支の弟ということになる。ちなみに、仁徳陵とされている大山古墳は継体の墓であり、「記紀」は仁徳を応神の後継者としているから、仁徳は継体の架空の分身とみていい。

「古代蝦夷と天皇家」より

Embed from Getty Images

最近、世界遺産に認定された百舌鳥・古市古墳群、通称「仁徳天皇陵」も登場し、こんがらがってきた。

この後、さらにややこしい説が続く。

継体の死後は、辛亥の変というクーデターが起こり、クーデターの勝利者欽明が即位した。「記紀」は欽明を継体の子としているが、クーデターまで起こして即位した欽明は武=昆支の子である。

欽明は、即位後、継体系王統との和合を図り、継体の王子宣化の娘である石姫を妻とした。欽明の後継者の敏逹は石姫が生んだ子である。「記紀」は、敏逹の死後に即位したのは用明としているが、実際は、欽明と昆支系王統の女性堅塩媛の間に生まれた蘇我馬子である。馬子は大王であったから、飛鳥寺という大伽藍を創建できたのであり、飛鳥の都を見下ろす地につくられた、巨大な石室をもつ石舞台古墳に葬られたのである。馬子の後は、蝦夷−入鹿というように父子相続が行われた。入鹿が大王のときに、645年のクーデターが起こり、昆支系大王家(蘇我氏)の本宗家は、継体系王統の中大兄(後の天智天皇)や中臣(藤原)鎌足らによって滅ぼされた。「日本書紀」が、このクーデターに異常に多くの言葉を使い、ヒステリックな調子で蘇我氏の専横を非難しているのは、蘇我氏が大王家であるという事実を隠すためである。「日本書紀」は、このクーデターで王権を握った継体系王統によって、昆支系王統の存在を隠し、継体系王統を唯一の王統と主張するために、8世紀に編纂されたものである。

「古代蝦夷と天皇家」より

なかなか興味深いが、このあたりは諸説あるだろうから、石渡氏の説の引用はこのあたりでやめる。

いずれにしても日本人のルーツに朝鮮からの渡来者が深く結びついていて、「日本人≒朝鮮人」であるということはどうやら間違いなさそうに私には思えるのだ。

近親憎悪ということは、世界のどこでもあることだが、日本人の特異性などを強調する輩の言動は疑ってかかった方が良さそうだ。

日韓の早期の和解を期待したい。

コメントを残す