『アウシュヴィッツは、人類にとって、暴力的抑圧、虐殺、ホロコーストの象徴となった。アウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦中、ポーランドの他の地域同様にドイツ軍によって占領されていたオシフィエンチム町の郊外に、1940年、ヒトラーのナチス・ドイツによって作られた。オシフィエンチムの町の名は、アウシュヴィッツと変えられ、同時にこれが強制収容所の名前となる。』
これは現地で購入した「アウシュヴィッツ・ビルケナウ 記憶の場博物館」という小冊子に書かれた説明である。
この投稿では、最初に訪れた「アウシュヴィッツ博物館」、かつての第一アウシュヴィッツ強制収容所での見学内容についてまとめてみたい。
「働けば自由になる」
第一アウシュヴィッツ強制収容所の正門には有名な言葉が刻まれている。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」
元は19世紀のドイツ人作家が書いた小説のタイトルだったという。ナチスはそれを収容所のキャッチフレーズに用いた。囚人たちは毎日この門を通って長時間の労働に出かけた。
「B」の文字が上下逆になっているように見えることについて、囚人たちの抵抗の証と解釈する説もあるという。
門に沿って二重の有刺鉄線が張り巡らされている。戦争映画でよく見る収容所の光景が眼前に広がる。
フェンスとフェンスの間には監視塔。
早足で歩くガイドを追いながら、急かされながらカメラを向ける。一部の展示を除けば、撮影はまったくの自由だ。
第二次大戦前、ここにはポーランド軍オシフィエンチム兵舎があった。ドイツによるポーランド占領後の1940年半ば、ナチス親衛隊はここにポーランド政治犯を対象とした強制収容所を設置することにした。
つまり、アウシュヴィッツは最初からユダヤ人絶滅を狙った収容所ではなかったのだ。
収容所内には緑が多い。戦争当時にはどうたったのか?
木立の中に整然と並ぶ煉瓦造りの建物はまるでミッション系スクールの寄宿舎を思わせた。
収容所設立当初、ここには20の建物があった。14棟の平屋と6棟の二階建。その後、被収容者を働かせて平屋を二階建てに改築し、さらに8棟を新設した。
収容者の数は、1942年に一時2万人を超えたが、その後は1万3000人から1万6000人で推移した。
第4ブロック
まずガイドが最初に案内したのは「第4ブロック」と呼ばれる建物だった。
入り口には、「GENERAL EXHIBITION」(一般展示)、「EXTERMINATION」(絶滅)の文字。ここでは、アウシュヴィッツ強制収容所の歴史やここで殺された民族について展示されている。
「過去を忘れる者は、過ちを繰り返す」という言葉が掲げられている。ジョージ・サンタヤーナというのはスペイン出身のアメリカの哲学者だそうだ。
人類は同じ過ちを何度も繰り返して来た。今も同じ過ちを犯しそうな指導者たちはあちらこちらにいる。
アウシュヴィッツには、ヨーロッパ中から収容者が送られて来た。
SS司令官のハインリヒ・ヒムラーがアウシュヴィッツをユダヤ民族殲滅計画実行の地と決めたのは、「交通の要衝として便利でこの地域を容易に隔離、秘匿することができる」という理由だった。
1942年前半に始まったユダヤ人の大量殺戮。
最初はポーランド国内、春からはスロヴァキアやフランスからの大量連行が始まり、次いでベルギーやオランダ、秋にはドイツ、ノルウェー、リトアニアなどナチス占領下のヨーロッパ諸国から次々にユダヤ人がここに送られて来た。
がらんどうの部屋に飾られた連行される女性や子供たちの写真。
何の説明書きも添えられていない。
開け放たれた窓からは隣の収容施設が見える。
死者110万人
犠牲者数を記した一枚のパネル。とてもシンプルだ。
「30万」という数字をことさら強調した南京の施設とは大きな違いがある。
『アウシュヴィッツはナチスドイツの最大の絶滅強制収容所である。1940年から45年の間に、ナチスは少なくとも130万人の人々をアウシュヴィッツに追放した。』
内訳は、ユダヤ人110万人、ポーランド人14−15万人、ジプシー2万3000人、ソ連捕虜1万5000人、その他の民族捕虜2万5000人。
『そのうち110万人がアウシュヴィッツで死んだ。犠牲者のおよそ90%はユダヤ人だった。SS(ナチス親衛隊)は彼らの大半をガス室で殺害した。』
連行されたユダヤ人の大部分は登録や囚人番号なく到着後すぐにガス室で殺された。そのため正確な犠牲者数を定めることさえ困難で、長年多くの国々で歴史家の議論のテーマになっている。
写真を撮るのに忙しくてガイドの説明をちゃんと聞いていなかったが、これは捏造された死亡通知書だと思われる。
『ユダヤ人は完全に絶滅されるべき民族である』
ナチスのポーランド総督だったハンス・フランクの言葉が掲示されていた。
移送と選別
ここからは写真の展示だ。
到着した囚人たちは、男性のグループと女性及び子供のグループに選別された。
どこから移送されたかのリストだ。
ハンガリー43万人、ポーランド30万人、フランス6.9万人、オランダ6万人、ギリシャ5.5万人、チェコ4.6万人、スロヴァキア2.7万人、ベルギー2.5万人、オーストリア・ドイツ2.3万人、ユーゴスラビア1万人、イタリア7500人、ノルウェー690人、そして他の強制収容所から移送されたユダヤ人が3万4000人と推定されている。
輸送は貨車で行われた。その様子を再現した模型も展示されている。
男女に選別されたグループをさらにSSの医師たちが再度選別した。
労働に適する者は収容所へ、それ以外の者はガス室に直行する。生き残った者は到着した人の4分の1だという。
ガス室
ガス室に送られた人たちには「風呂に連れていく」と説明された。パニックを防ぐためだ。
写真に写る一人の少年の眼差しが心に刺さる。
この子は、どのように選別されたのだろうか?
ガス室のジオラマが作られていた。
地下に脱衣場とガス室があり、1階に焼却場が作られた。焼却が間に合わない死体は野外で焼かれた。
ナチスが破壊した焼却炉の写真も残っていた。
チクロンB
次に展示されていたのは、空き缶の山だった。
大量殺人に使われた劇薬「チクロンB」。
解放後、収容所の倉庫でチクロンBの使用済み空き缶の山が見つかった。缶にはドクロマークが描かれている。
そして、これが「チクロンB」だ。
この劇薬は1941年夏までは消毒目的で使用されていたという。気化しやすい薬品の性質を悪用し8月以降「殺人ガス」として多くの命を奪った。
この後、施設で唯一「撮影禁止」とされるエリアがある。
ここには大量の人間の髪が展示されている。アウシュヴィッツを解放したソビエト軍が倉庫で袋詰めにされた約7トンの髪を見つけたのだ。収容所当局は囚人たちの髪の毛をドイツ国内の工場に売っていたという。ドイツの会社は人間の毛髪から生地を生産していた。
残された毛髪からはチクロンの毒性をもたらすシアンの反応が出たという。
第5ブロック
第4ブロックを出て、隣の「第5ブロック」へ。
ここには様々な遺品が展示されている。
大量のメガネ。
囚人たちから没収したトランク類。持ち主の名前や番号が書かれている。
囚人たちが使った食器類も大量に残されていた。
汚れたままの食器。その一つ一つに理不尽な運命に突き落とされた人々の無念が宿る。
小さな赤い靴
そして、靴。
赤いのは女の子のものだろうか?
男性もののいかつい靴の中で光る白い靴。若いおしゃれな女性の物なのか?
そして、部屋を埋め尽くす大量の靴、靴、靴だ。
さらに、ブラシ。
常に身だしなみに気を使った女性たちの悲しさが伝わってくるようだ。
殺された人たちが残した大量の遺品。
どんな展示よりもリアルに心に訴えかけてくる。
こうした悲しい展示を見るために、世界中の多くの人たちがこの階段を上り下りしたことがわかる。
この階段の凹みが深くなるたびに、世界平和への思いが強まっていく。
そう考えたいと思う。
アウシュヴィッツの展示は、まだまだ続く。
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<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。
