桓武天皇の野望
蝦夷と朝廷との最初の大きな戦は、阿弖流為と征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦いだ。その原因は朝廷側にあった。
桓武天皇は蝦夷制圧と平安京建設を国家の二大政策と定めていた。
これは日本という国の枠組みを自分の代で決定づけようという桓武天皇の強烈な意思の表れであった。
国の中心たる都を移動するには莫大な費用がかかる。
費用をどこから調達するかといえば税である。いつの時代も増税に賛成する民などいない。そこで桓武天皇は蝦夷の襲来があると民の危機感を煽った。奈良のような小さな都では不安だというキャンペーンを張った訳である。
新たな都の平安京では、蝦夷討伐を祈願して羅生門に兜跋毘沙門天を安置した。羅生門は東北の方角に面した鬼門である。東北から蝦夷軍が攻めてこないよう、巨大な兜跋毘沙門天を据えて都の守りとしたのである。
京の都は東北の脅威を意識して造られた都市だった。遠い東北に暮らす蝦夷は、都の民には実態が分からない。だから、いくらでも恐ろしい蛮族だと宣伝できる。とにかく獣のように凶暴な者たちだというイメージが都人に刷り込まれていった。
高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より
安倍氏と物部氏
蝦夷と朝廷の次なる大戦は「前九年の役」、安倍貞任と源氏の戦いだ。
安倍一族とは何者なのか?
高橋さんは、蘇我氏との争いに敗れた物部氏との関係も含めて安倍氏の素性を推理する。
安倍といえば、遥か以前に蝦夷征伐を行なった阿部比羅夫が連想される。
比羅夫は渡島(現在の北海道南部)まで遠征している。東北に暮らす蝦夷の征伐ではなく、北海道のアイヌを朝廷に従わせようとしたのが比羅夫だった。
阿部比羅夫の配下の中から、かなりの人数が東北に残った痕跡がある。比羅夫の命を受けて、東北統治を試みたのかもしれない。
東北に残った者らが、比羅夫の一員であることを示すため、阿部(安倍)を名乗ったというのが私の仮説だ。
奥六郡を手中にしていた安倍氏の財力は、物部氏との関係で築かれたと考えている。
聖徳太子の時代、蘇我氏と物部氏の対立があり、物部氏は政治の中心から追われてしまった。物部氏は正史でまともに扱われることがほとんどない。第一の要因は、物部氏が饒速日命に関連して登場しているせいだ。
饒速日命は「古事記」に登場するとはいえ、正史では架空の人物とされている。だから、それに従ってきたという伝説を持つ物部氏の家系を、荒唐無稽なものと遠ざけてしまうのだろう。
蘇我氏と対立して畿内を追われるまで、物部氏は播磨などに自分たちの領土を持っていた。彼らが一番得意としたのは鉱山の開発と馬の飼育だった。
さらに物部のモノは物の怪、つまり神道に通じる。神社に馬が奉納されるのも、物部から始まっている。
神様が降りてくる磐座(いわくら)、というより鉄鉱石を見つけるのも物部の役目だ。もともと饒速日命を奉ずる出雲の民は、鉱山技術者の集団だった。
東北の神社や鉱山の多くには物部氏にまつわる伝承が残っている。安倍氏の伝説が残っている所もたいていは金山や鉄山に関係がある。安倍氏は物部氏と手を組むことによって、黄金や鉄を採取する手段を得たのだろう。
高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より