サイトアイコン 吉祥寺@ブログ since 2016

伊勢神宮と天皇②

広告

明治22年の式年遷宮

武澤秀一著「伊勢神宮と天皇の謎」の続きである。

武澤氏が注目する明治22年の式年遷宮。ここに今日につながる伊勢神宮神話の原点があると主張していて、大変興味深く説得力があると思って読んだ。

『 平安時代以降、アマテラスは密教の大日如来の日本版とみなされるなど、その信仰内容に変容を見せていたが、江戸時代に国学が興るにともない、<アマテラス‥天皇>の系譜が強調されるようになった。

一方、式年遷宮の<はじまり>においてアマテラスの実質をになった持統天皇のことは、いつしか、すっかり忘却の彼方に押しやられた。皇位略奪の戦い(=壬申の乱)をへて成立した天武・持統朝は「万世一系」のイメージにそぐわなかったのであろう。そして持統が女性天皇であったことも。

変わって浮上したのは、「神武天皇」であった。神代の<はじまり>がアマテラスで、人代の<はじまり>が神武という設定である。「万世一系」の天皇がこの国をおさめるという理念の下、皇祖アマテラスと初代神武が高らかに謳いあげられるのであった。』

「万世一系」は近代語

天皇は、維新勢力にとって、徳川幕府を倒す革命理論の柱だった。

岩倉具視と大久保利通を中心に練られたクーデター計画に従って、まだ幼かった明治天皇は行動する。

『 明治天皇、当時満15歳が下した「王政復古」の沙汰書には、「諸事神武創業の始にもとづき」と謳われていた。明治維新は「神武創業」を理想とし、明治天皇は初代「神武」になぞらえられたのである。と言っても「神武」の政治体制は不明につき、実際には、天武・持統朝に成立した古代律令制が形式上のモデルとされた。』

『 大号令の三ヶ月後、「祭政一致」を回復する具体策として「神祇官復興」が打ち出された。神祇官とは古代律令制において祭祀をつかさどった役所だが、維新当初は文字通りの復古を夢見ていた勢力が政府内にいたのである。

翌明治2年6月には、それまで各藩が所有していた領地・領民を天皇にもどす「版籍奉還」が決まった。興味深いのは薩長土肥の藩主が1月に提出した「版籍奉還」上表文の冒頭で、次のように宣言されていることである。

皇祖が国を開き、その礎を築いて以来、「万世無窮」に続く「皇統一系」の子孫たる天皇が代々、土地も民も治めてきた。したがって、みな天皇のものだと言っているわけだが、「万世一系」の皇統による統治理念がここにはっきりと打ち出されている。』

列強に対抗するため中央集権国家の樹立を目指した維新政府は、天皇の「万世一系」を強調することで大名ら既得権力者を抑え込む革命理論を編み出したのだ。

そして、ここで目から鱗の記述が登場する。

「万世一系」という言葉が明治生まれの近代語だというのである。

『 「万世一系」という語は大日本帝国憲法第一条に掲げられ、今日でもよく口にのぼるが、明治2年の岩倉具視の国事意見書に「万世一系の天子」とあるのが初出とみられる。つまり「万世一系」は、明治維新後に用いられるようになった近代語。その点は「式年遷宮」と同じだ。ただし「万世一系」の理念そのものは以前からつちかわれていた。』

伊勢神宮を頂点とする体制

こうした流れの中で行われたのが、1869(明治2)年の明治天皇による伊勢神宮参拝である。

『 「万世一系」の理念に裏打ちされた、「王政復古」「祭政一致」「神祇官復興」「版籍奉還」という一連の動きの中に、同年3月の明治天皇の伊勢神宮参拝があった。それは明治天皇を神武と二重写しにするとともに、<皇祖アマテラス‥初代神武‥明治天皇>の系譜を目に見えるものにし、「万世一系」の理念を体現するものだったのである。』

そして復古の動きは、急速に高まりを見せる。

『 新政府は古代官社制をモデルとして、伊勢神宮を頂点とする一大体系を創出し、全国の神社を序列化した。

平安時代の「延喜式」は官社を官幣社と国幣社に分け、さらにそれぞれを大社と小社に序列化した。

明治の社格制度はその適用範囲を拡大し、官社の下に諸社を設けた。また、官幣社‥国幣社のそれぞれを大社‥中社‥小社に細分化して序列化の度を高めた。諸社も府・県社‥郷社‥村社と細かく序列化され、これ以外の神社は無格社とされた。こうしてピラミッド状の壮大かつ緻密な体系が出来上がったのである。

その頂点に立つのはもちろん、皇祖をまつる伊勢神宮である。ただし、社格はない。すべてに超越するのが「神宮」なのであった。

注目しておきたいのは、古代官社制をモデルとしつつ、これをはるかに上回る壮大かつ厳密な序列の体系が新政府によって構築されたことだ。全国津々浦々、すべての神社の神々が神宮におわす皇祖アマテラスにしたがい、これを支え、守るという目的は同じだが、その徹底強化ぶりは、とても古代の比ではなかった。』

伊勢神宮の変化

こうした動きの中で、頂点に立つ伊勢神宮にも変化がもたらされる。

『 政府から神宮に「御改正」が命じられた。最大の眼目は、「内宮と外宮には差があるべきであり、体裁の別を定めよ」という点である。

もともと外宮は内宮につかえる立場にあった。ところが中世以降、明治初頭に至るまで、外宮が政治力、経済力、そして教宣活動において内宮を上回る勢いを見せていた。「万世一系」の天皇の下に新国家の形成を急ぐ政府は、皇祖をまつる内宮がそのような状態にあってはならないとし、是正を厳命したのである。』

この「御改正」を受けて伊勢神宮では、不用な殿舎を撤去するなど整備が始まる。内宮の社殿配置がガラッと変わった。一方、外宮の社殿配置は現状が踏襲された。

そして明治22年の式年遷宮は明治国家形成の中核事業と位置づけられた。

『 「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と謳い上げる明治憲法が発布されたのは、明治に入って二度目の式年遷宮の年、明治22年であった。

これは偶然の一致だろうか?

あるいは、周到に仕組まれたのか?』

『 明治憲法が発布された明治22年とは、一体どういう年であったのか。

調べてみて私は驚いた。皇室に関する様々な重要な行事が、これでもかと集中しているのである。以下に列挙してみよう。

1月9日  宮中三殿に皇祖・皇霊はじめ神々が遷座した

2月11日 宮中三殿にて天皇が皇祖皇宗に皇室典範と憲法の制定を報告

憲法発布式典が開催された

6月    不明とされてきた天皇陵のうち、10陵を治定

7月    残る3陵を治定。これですべての天皇陵が確定された

10月2日 内宮で式年遷宮が挙行された

10月5日 外宮で式年遷宮が挙行された

11月3日 明治天皇の誕生日。後の大正天皇の立太子礼が挙行された

これらの出来事は何を意味しているのか?

相互に関係しているのか、いないのか?』

紀元節と皇祖皇宗

戦前には大変重要視された「紀元節」だが、明治政府が作り出したものだ。

『 2月11日を「初代」神武の「即位日」と定め、明治6年から紀元節が発足した。式年遷宮の行われる明治22年の、まさにこの日に、天皇の命によって制定する大日本帝国憲法が発布されるのであった。

神武の「即位日」に欽定憲法を発布するとは、見事なスケジューリングだ。これにより天皇の定めた憲法は、いっそうありがたさと説得力を増す。憲法は第一条において、この国を統治するのは「万世一系の天皇」であると歌い上げるのであった。

内容と儀礼の、見事なまでの一致である。』

「皇祖皇宗」という言葉も明治時代に登場した。

『 「皇祖皇宗」とは「万世一系」と同じく明治時代の造語で、皇祖アマテラスから前代の天皇までを一つの連なりとみなしての総称。神話を歴史に取り込む新語の創出により<神代‥人代>を連続的につなげ、天皇を神に子孫・現人神とあらためて規定したのである。』

これに続いて、天皇陵の指定作業が行われた。

『 明治政府は歴代天皇陵の治定を積極的に推し進めていたが、それには「万世一系」の皇統を可視化する意味があったのである。だが、憲法が発布されても、治定されていない天皇陵が13もあった。憲法制度を主導してきた伊藤博文は発布から4ヶ月後の6月、次のような演説をしている。

歴代山陵の未だ明らかならざるものあるがごときは、外交上信を列国に失ふの甚だしきものなれば、速やかに之を検がく(調査すべきである)。

政府は諸外国に対し、エンペラーを超越する存在として「万世一系」の天皇を誇示していた。そうした手前、天皇陵に不明なものがあっては格好がつかないし、信用を失ってしまうというわけである。

そこで、明治22年6月から7月にかけ、13陵の指定作業を慌ただしく進め、これを一気に済ませたのである。』

考古学的見地から見れば、多くの天皇陵は妥当性を欠いているそうだ。無理やり結論を急いだのだ。

また、立太子礼についても大幅に繰り上げられた。

『 憲法発布と同日に制定された皇室典範では、皇太子は満18歳をもって成年とされ、成年時に確認儀礼として立太子礼が行われるとされた。

ところがこの年の11月3日、わずか10歳の皇太子の立太子礼が執り行われた。8年も大幅に繰り上げたのであった。その日は父・明治天皇の誕生日で、皇太子は後の大正天皇である。』

式年遷宮を利用した伊藤博文

明治22年に起きた一連の出来事を、武澤氏はこう解釈している。

『 これらの事柄は明治憲法発布に合わせて行われたように見えるかもしれない。しかし、いうまでもなく、20年の間隔で挙行される式年遷宮の年が先に決まっていたのである。したがって、この年に合わせて、憲法発布のスケジュールを設定したとしか考えられないのである。

式年遷宮の年に憲法発布するという大方針がまずあり、次いで、催行日は神武「即位」の日、つまり紀元節と決まった。それが明治22年2月11日であった。

この年に行われた天皇と皇室に関わる重要な出来事はみな、式年遷宮に連動していたといって過言ではない。

式年遷宮は20年に一度の、神宮にとって最大の祭。

憲法の発布は立憲国家の出発を祝う最大のイベント。

明治22年の式年遷宮は、明治国家形成という歴史的大事業の真っ只中に位置づけられていた。政府は「皇室機軸」と「文明国化」の二兎を求めていた。皇祖がもっとも神威を輝かせる式年遷宮に注目したのは、前者から帰結する必然的な運びであった。』

そして、式年遷宮と明治憲法を連動させるこのプランを推し進めたのは、伊藤博文だったと武澤氏は指摘する。

明治14年、突然憲法制定と2年後の国会開設を打ち出した大隈重信に対し、伊藤が巻き返し、御前会議で大隈追放を決めた「明治14年の政変」。この時、明治23年の国会開設が決まった。これも式年遷宮を意識した伊藤の計画で明治23年という年が決められたと武澤氏は考えている。

式年遷宮という神秘的な力を利用することは、時の権力者にとって極めて効果的だということなのだろう。

昭和4年の式年遷宮

武澤氏は、昭和4年の式年遷宮にも言及している。

『 この時の式年遷宮は空前の盛大さと豪華さを誇るものであった。それは木材の材質選定や茅葺きの一本一本にまで神経を配るといった社殿の最高級の仕上げ、宝物やしつらえの豪華さ、参加者の陣容や数に及ぶまで、様々な面にわたっており、「復古」のレベルをはるかに超えるものであった。

豪華さの例として一つ、正殿の扉の装飾を付け加えよう。これを見ると、大きな飾り金物が所狭しと取り付けられ、圧倒される。当時の時代状況を想起すると、あたかも伊勢神宮が大日本帝国の大きな勲章をジャラジャラつけているようにも見えてしまうのである。

何がそのような盛大さをもたらしたのだろうか?

それは、時代の空気と無関係とは言えない。昭和4年と言えば、満州事変が勃発する2年前である。

昭和初期、東アジアにおける緊迫した軍事情勢の下、ナショナリズムの異様なまでの高揚が、皇祖をまつる神宮式年遷宮に空前の盛儀をもたらした。同時に式年遷宮もまた、ナショナリズムを大いに盛り上げたのである。』

昭和4年の式年遷宮が行われた日は休日とされ、国民こぞって祝う日とされた。学校では、公募によって選ばれた神宮唱歌が高らかに斉唱されたそうだ。

さらに昭和15年。戦前の歴史としてよく紹介されるように、「紀元2600年」を祝う祭が国を挙げて盛大に挙行された。

『この年の6月、昭和天皇は伊勢神宮を親祭した。午前に外宮を、午後に内宮を参拝したが、その時刻は「全国民黙祷時間」として午前11時12分、午後1時54分と予め周知された。この時、特別にラジオから時報が流れ、各地のサイレンが鳴った。これに合わせて全国民は一斉に伊勢の方角に向かい、皇祖アマテラスに一分間の黙祷を捧げたのであった。

「贅沢は敵」「遊楽旅行廃止」が叫ばれる時世でであったが、神宮参拝だけは大いに奨励された。この年、皇祖アマテラスをまつる伊勢神宮の参拝者は800万人、初代神武をまつる橿原神宮は1000万人を数えたという。』

こうして伊勢神宮と天皇の歴史をたどってくると、いつの時代も権力者の思惑が大きく左右してきたことがよくわかる。

安倍さんにも、皇室の政治利用は謹んでいただきたいものだ。

伊勢神宮への参拝は、絶対に強制されるべきではない。

個人の意思のもと、静かな祈りを捧げ、日本人について考える場であり続けてもらいたいと改めて強く感じということを書き残しておきたいと思う。

モバイルバージョンを終了