<吉祥寺残日録>@武蔵野…まずは、国木田独歩から #200920

会社を辞めてから、早いものでもう3ヶ月が経とうとしている。

この間、失業保険の手続きをしたり、白内障の手術をしたりしているうちに、知らぬ間に時間が経ってしまった。

新型コロナの影響で、旅行も自由には行けない状態がまだまだ続きそうなので、この機会に地元のことを集中的に調べることにした。

題して「@武蔵野」。

「武蔵野」といえば・・・最低この本は読んでおかねばならないだろう。

図書館で借りてきたのは、国木田独歩著「武蔵野」。

明治の作家で詩人であった国木田独歩が、明治31年に書いた名作と言われる随筆である。

私が借りたのは昭和57年に出版された「武蔵野市民版」というもので、武蔵野市が自ら出版したもののようだ。

オリジナルにこだわったせいか、文体も漢字も当時のままのようで、いささか読みにくい。

それでも短編なので、とりあえず簡単に目を通したのだが、正直それほど面白い本ではなかった。

それでも、独歩がなぜ武蔵野を題材に選んだか、その理由が冒頭に書かれている。

自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。

出典:青空文庫 国木田独歩「武蔵野」

これを読む限り、国木田独歩の動機は、私とさして変わらない印象だ。

「武蔵野」とは文字通り「武蔵」の野の意味であり、広大な平野にススキが広がる日本では珍しい情景を有し、遠く都に暮らす人々に旅心を抱かせたのだろう。

ウィキペディアを見ると、『「どこまでもつづく原野」として、あるいは「月の名所」として、古来さまざまな文芸作品、美術・工芸作品に題材とインスピレーションを与えてきた』と紹介されている。

しかし、独歩が生きた明治の頃、すでに万葉集などに歌われた武蔵野の面影はほとんど失われていた。

それでも今と比べれば、独歩が当時暮らしていた渋谷界隈もまだ「渋谷村」と呼ばれる郊外であり、周囲には畑や林が広がる「武蔵野」だったということを知り面白いと感じた。

そもそも、「武蔵野」とはどのエリアを指す言葉なのか?

独歩は次のように書いている。

僕は武蔵野はまず雑司ヶ谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側と通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などという駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入られない。そして丸子から下目黒に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。

東の半面は龜井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取り除いてもよい。

出典:青空文庫 国木田独歩「武蔵野」

どうやら川越は武蔵野に入るが、八王子は入らず、逆に亀戸や千住あたりまで武蔵野だというのだ。

これは私が抱いていた武蔵野のイメージとは大きくかけ離れている。

ちなみにウィキペディアでは、『武蔵野の範囲について明確な定義はないが、広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」であり、また広義には「武蔵国全部」を指すこともあるとされる』と書かれていた。

独歩も「異論があれば取り除いてもよい」と書いているので、東半分は除外させてもらって、現在の東京都多摩地方から埼玉県西部の範囲を私なりの「武蔵野」として、そのエリアについてこれから調べてみたいと思っているのだ。

独歩が生きた時代と比べても、今や「武蔵野」は壊滅的に失われてしまっている。

にも関わらず私の人生を振り返ってみると、なぜか近くに武蔵野の風情が残っていた。

大学時代、上京した私が最初に暮らしたのは東京都西部の小平市だった。周囲は住宅地だったが、玉川上水などところどころに武蔵野の風情を感じられる場所が残っていた。

結婚して子育てのために家を買ったのは三鷹市。近所にあった「ICU国際キリスト教大学」や「国立天文台」の広大な敷地内には武蔵野の自然林がまだ残っていて、妻や子供たちを連れてよく遊んだものだ。

そして子育てが終わり、妻と二人で移り住んだ吉祥寺には井の頭公園がある。

特に私のお気に入りである「西園」には、かつての武蔵野の森を連想させる雑木林があって、オオタカが子育てしている様子を見ることもできる。

それなのに、私は武蔵野についてほとんど何も知らない。

これまでの人生、私の視線は常に海外に向いていて、行ったことのない遠い国のことは一生懸命調べるのに、自分が住んでいるエリアに関心を持ったことが一度もなかったのだ。

コロナのせいで自由に旅行もできず、吉祥寺からほとんど出ることなく日々を過ごしていると、私にとって今もっとも新鮮な旅先は「武蔵野」なのではないかとある日思い当たった。

BSプレミアムで再放送している「太平記」をこのところ欠かさず見ているのだが、新田義貞が鎌倉幕府と戦った有名な古戦場が分倍河原や小手指にあることを知った。

いずれも武蔵野の地だ。

石神井公園にかつて城があったこと、府中が大化改新の頃から武蔵国の中心地として栄えていたことも最近知った。

有名なところでは、武蔵野は新選組や自由民権運動の舞台であり、戦争中には日本有数の軍需産業の集積地でもあり、戦後には太宰治が自殺した玉川上水も流れている。

一方、ずっと時代を遡れば、武蔵野のあちらこちらに縄文時代や石器時代の遺跡が多く残っているという。

我が家の目の前に広がる井の頭池周辺にも、太古の昔から人間が生活を営んでいた痕跡が残っていて、井の頭公園内には「井の頭池遺跡」や「御殿山遺跡」の案内板が立っている。

未発掘の遺跡が吉祥寺の住宅地の地下に眠っていると考えるだけでも、なんだかワクワクしてくるではないか・・・。

自転車の修理が終わったら、サイクリングで私が知らない「武蔵野」を訪ねて歩きたいと思っている。

運動不足の解消にも役立つだろうし、このブログのネタにもなるだろう。

そして、身の回りの植物や動物についても、少しずつ調べて名前を覚え、死ぬ頃には自分が生きてきた武蔵野について人に語って聞かせられるぐらいにはなっていたいと願うのだ。

独歩の「武蔵野」の第六章には、小金井へのぶらぶら旅の様子が具体的に書かれていた。

今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今自分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。

出典:青空文庫 国木田独歩「武蔵野」

独歩の「武蔵野」の中では、唯一具体的な行程が辿れる部分であり、武蔵野市民版の巻尾には、独歩が「ある友」と歩いた道筋を記した地図が添えられていた。

巻末の解説を読むと、「ある友」とは後に独歩の妻となる佐々城信子という女性だったそうだ。

独歩を初めて武蔵野に誘ったのも彼女だった。

信子は独歩との貧しい生活に耐えられず、ある日突然姿を消し、二度と彼のもとに戻らなかった。

独歩にとって、小金井での散策はきっと信子との楽しい思い出でもあったのだろう。

この時、独歩たちが降りた「境駅」は、私がかつて毎日の通勤に利用していたJR中央線の「武蔵境駅」である。

文中に登場する茶屋の跡には「独歩武蔵野の碑」が立っているらしいが、長年すごく近所に住んでいながら、その存在すら知らなかった。

これを機に、独歩と信子が立ち寄った「婆さん」がいた小金井の茶屋の跡も訪ねてみようと思っている。

今日の東京は、先日までの暑さが嘘のように、かなりひんやりとしている。

これから武蔵野も秋を迎えるのだ。

独歩は「武蔵野」の中で、秋から冬についてこんなことを書いている。

自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類いでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重するに足らないだろうと。

楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。

出典:青空文庫 国木田独歩「武蔵野」

まさに同感、私も落葉樹の林が好きだ。

わずかに残る「武蔵野」にまもなく訪れる秋を、今年はこれまでよりも深く理解しながら味わいたいと思っている。

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