<吉祥寺残日録>高市自民党に離縁状を突きつけた公明党と去り行く石破総理が遺した80年所感に思う『君子中庸 小人反中庸』 #251014

世の中、時々、思いもかけないことが起きるものだ。

私がオセアニアに旅行していたこの1週間、日本では私が予想もしなかった事態が進捗していたのである。

10日に行われた自民党高市総裁と公明党斉藤代表によるトップ会談。

この席で、公明党は26年間続いた連立政権から離脱する意向を高市氏に伝えた。

その理由について斉藤代表は、自民党に申し入れてきた「政治とカネ」の問題について自民党から前向きな姿勢が見られなかったからだと説明した。

昨年の衆院選に始まり、都議選、参院選と与党大敗が続く中、公明党内、特に支持母体である創価学会の現場に自民党に対する強い不満がたまっていたのだろう。

しかし、そんな事情を軽視し、「公明党は何があってもついてくる」と高をくくった高市氏は、後ろ盾である麻生氏に言われるがまま、党役員人事では麻生派を露骨に重用、総裁選で自らに投票した近しい議員ばかりを登用して、これまで公明党との調整に汗をかいてきた人たちを全て排除してしまった。

石破政権では完全に干されていた旧安倍派の議員たちについても「すでに禊は済んだ」として、その代表である萩生田氏を幹事長代行に任命し、さらに公明党にケンカを売る。

高市さんとしては、自らの師と仰ぐ安倍一強時代の再興を夢見たのだろう。

しかし、自分のやりたいことに専念するあまり、重要な目配せ根回しを怠った。

公明党との協議を軽視したまま、連立拡大を目指して国民民主党の取り込みに注力していたところ、思いもかけない離縁状を突きつけらる羽目になったのだ。

しかし、公明党の離脱で新総理の行方は一気に不透明となった。

これを政権交代の好機と捉えた立憲民主党は、野田さんではなく総理に強い意欲を示す国民民主党の玉木代表を野党統一候補に担ぎ上げて、立憲、維新、国民の野党結集を露骨に模索し始めた。

立憲民主党は、党内に平和安全法制や原発再稼働に反対する左派を抱え、国民や維新と直ちに基本政策で一致することは難しいと見られていて、名指しされた玉木氏もその点を指摘し安易な野党連携には後ろ向きだ。

ただ、仕掛け人の野田さんは立憲民主党でも右派に位置し、安全保障や原発政策で大幅に歩み寄る可能性は十分に考えられる。

そうなれば、野党3党の連立が成立すると衆院で自民党を上回ることが可能で、それに公明党が乗っかれば過半数も夢ではなくなる。

日本初の女性総理の誕生は俄かに雲行きが怪しくなり、高市か玉木か、ポスト石破の行方は混沌としてきたのである。

それでもなお、自民党が少数単独政権として高市総理が誕生する可能性が最も高いと見られている。

しかし、もしそうなった場合、石破さんのように低姿勢で野党の要求を丸呑みしながら柔軟な議会運営ができるだろうか?

果たして自民党執行部の中で、誰が野党との根回しを担うのか?

高市さんとタカ派揃いの新執行部の力量が早速問われている。

まさに、政界は一寸先は闇、である。

そんな高市自民党の波乱の船出を他所目に、政権から追い落とされた石破総理は逆に肩の荷を下ろして楽しそうに見える。

13日には自らも積極的に支援してきた大阪・関西万博の閉幕に合わせ、マスコットのミャクミャクに感謝状を贈るなど本来のオタクに戻った印象だ。

就任から1年、少数与党に転落し党内基盤も弱く常に国会運営に苦労した石破総理だったが、森山幹事長とともに野党の声に耳を傾け、妥協できるところは妥協しながらしたたかに法案を成立させてきた。

降って湧いたようなトランプ関税という難題にも、自ら陣頭指揮に立ち、なんとか被害を最小限に食い止めることに成功した。

とはいえ、自らが本当にやりたかったことはなかなか実現できなかったのだろう。

そんな石破総理が、最後まで執念を燃やしたのが戦後80年にあたっての総理談話の発表だった。

戦後70年の安倍談話を否定されることを恐れる自民党保守派の反対で、終戦の日や降伏文書署名の日を避け、結局閣議決定も経ない総理の個人的な所感という形となったが、10日次のような所感を発表した。

以下、「戦後80年に寄せて」と題された総理所感を全文を引用しておく。

 本年は戦後80年であります。私自身、国内外の戦没者の皆様方の慰霊碑にお参りいたしますとともに、8月6日の広島市原爆死没者慰霊式、8月9日の長崎における原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、そして、8月15日の全国戦没者追悼式に出席する中で、なぜ日本はあの戦争を止めることができなかったのか、政治はいかなる役割を果たし、いかなる役割を果たさなかったのか、そのような、かねてから持っておりました問題意識でありますが、これを改めて強く持ったところでございます。
 これまでも、戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出をされており、歴史認識に関する歴代内閣の立場につきましては、私もこれを引き継いでおります。他方、過去3度の談話におきましては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点につきましてはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、そこには、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえませんでした」と、このような一節がございますが、それ以上の詳細については触れられておりません。論じられてもおりません。
 当時の日本の国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。今回発出いたしました「所感」は、これまでの談話における残された課題に対する私なりの考えであり、また、国民の皆様方と一緒に考えるためのものでもございます。
 いかなる経緯で、日本はあの戦争に突入していったのか。当時の大日本帝国憲法、政府、議会、メディア、それぞれに問題があったものと考えております。
 大日本帝国憲法について申し上げます。この憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権、これは独立したものとされて、「文民統制」の原則は、制度上存在をしておりませんでした。内閣総理大臣は、内閣の首班とされつつも、内閣を統率するための権限は与えられておりませんでした。そうでありますがゆえに、政治と軍事を統合して、国家としての意思を一元するためには、これは政治学者の丸山眞男さんの言葉でありますが、丸山眞男さんの言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的な存在の媒介」を必要とする仕組みでした。これらが帝国憲法が抱える制度上の問題でありました。
 1910年代から1920年代にかけて、大正デモクラシーと言われた時代ですが、その時代に入りますと、先ほど申し述べました政治と軍事とを統合する「媒介」、この役割はそれまでの元老から政党へと移っていくのであります。政党内閣も、当初は、幣原外交という言葉がありましたね、幣原外交に表れたように、帝国主義的な膨張には抑制的でありました。しかしながら、次第に統帥権の意味が拡大解釈されて、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきます。
 政党間の政権争いが激化する中で、政党は次第に国民の信頼を失っていきます。1930年代になりますと、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるために、海軍の一部と手を組んで、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権は軍政にも及ぶ、すなわち、オペレーション、軍の運用だけではなくて、その予算、体制の整備にも及ぶのだと、このような主張をして、時の政府を激しく攻撃をいたしました。
 1935年になると、美濃部達吉氏の天皇機関説、これについて立憲政友会がこれを政府攻撃の材料として非難をして、軍部をも巻き込む政治問題に発展します。時の岡田啓介内閣はこのように言っております。「学説上の問題は学者に委ねるべき」と、このように言って、政治的に距離を置こうといたしました。しかしながら、最終的には軍部の圧力に、軍部の要求に屈して、天皇機関説を否定をする国体明徴声明と、こういうものを2回にわたって発出をして、美濃部氏の著作は発行禁止となるのであります。このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
 議会についてはどうだったのでしょうか。本来は軍に対する統制を果たすべき、これが議会なのですが、これもその機能を失っていきます。最たる例は、1940年の斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でありました。斎藤議員は、戦争の泥沼化を批判をして、戦争の目的とは一体何なんだと、政府を厳しく追及をしました。これに対して、陸軍は、「この演説は陸軍を侮辱するものである」、このように激しく反発をして、斎藤議員の辞職を迫り、これに多くの議員は同調して、除名に賛成する票296票、反対票7票。圧倒的な多数で斎藤議員は除名されるのであります。当時の議事録は、今でも3分の2近く、61パーセントなのだそうですが、今でも削除されたままとなっております。
 議会による軍に対する統制機能としては、当然、予算審議というのが極めて重要であります。当時の議会は軍の予算へのチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。昭和17年、1942年、戦争2年目です。それから戦争最終の年である昭和20年、1945年、これにかけましては、軍事費のほとんど全てが臨時軍事費特別会計に計上をされました。その特別会計の審議に当たって、その予算書に内訳は示されていなかった。衆議院・貴族院とも、基本的には秘密会で審議が行われ、審議時間は極めて短く、およそ審議という名に値するものではなかったということであります。
 そして、このような状況の背景には、政治的なテロというものがありました。大正の後期から昭和の初期にかけて、15年の間に現職首相3人を含む多くの政治家が、国粋主義者、青年将校らによって暗殺をされます。五・一五事件、二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府の文民が軍の政策や予算について本音で自由に議論をして行動する環境、それを大きく損なっていったということであります。
 メディアの問題について申し上げますと、1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的で、例えば、当時、気鋭のジャーナリストであった石橋湛山。石橋湛山氏は、有名な、植民地を放棄すべきである、このような論陣を張りました。しかし、世界大恐慌の後、ナショナリズムが広がり、思想界でも全体主義を受け入れる、そういう土壌が形成をされていきます。満州事変が起こった頃から、メディアは、積極的な戦争支持に変わっていきました。それは、戦争報道が「売れた」から。新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。何倍にも発行部数は伸びました。これに多くの国民は幻惑をされて、ナショナリズムは更に高まったということであります。
 その後、1937年秋頃から、言論統制は強化をされ、政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調が支配的になっていきます。
 加えて、情報収集・分析、そのような体制にも問題がありました。これも有名な話ですが、1939年、ドイツーソビエト、独ソ不可侵条約を受けた平沼騏一郎内閣は何と言ったか。「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と、そう言って総辞職をするのであります。これは、世界情勢を正しく把握できていなかったと、この最たる例の一つだと考えております。
 このような歴史を踏まえて、現代を生きる我々は、そこから何を学ぶべきであるのか。
 第一に、現行憲法の下では、日本国憲法の下では、文民統制が制度として整えられ、自衛隊は内閣総理大臣の指揮下に置かれております。内閣総理大臣の下、内閣の統一性も担保されております。国家安全保障会議が設置をされて、外交・安全保障政策の総合調整も強化されました。情報収集・分析体制も改善をされております。その上で、制度は整ったものの、これが適切に運用されなければ意味を成しません。政治の側は、実力組織である自衛隊を使いこなす能力、見識を十分に有さなければなりません。無責任なポピュリズムに屈するようなことがあってはなりません。自衛隊は、国際情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から積極的に説明や意見の表明を行うべきであると考えております。
 政治は、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務がございます。国家としての意思を一元化できないままに国全体が戦争に導かれていった、そのような歴史を教訓としなければなりません。
 政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的な判断を心がけなければならないのであります。開戦に至る過程でも見られましたとおり、責任の所在が明確ではなくて、状況が行き詰まるような場合には、成功の可能性が低くて、リスクが高くても、勇ましい声、大胆な解決策、そういうようなものが受け入れられがちであります。合理的な判断を欠いて、精神的・情緒的な判断が重視されて、国の進むべき進路を誤った歴史を決して繰り返してはなりません。
 第二に、政府が誤った判断をしないように歯止めの役割を果たすのは議会であり、メディアであります。国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は国益を損なうような党利党略、己の保身を取ってはなりません。己の保身に走ってはならないのであります。
 メディアとの関係では、使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要であります。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的な言辞、これらは決して容認のできないものであります。
 これら全ての基盤として、歴史に学ぶ姿勢が肝要です。過去を直視する勇気、そして、誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭(きょうじん)な民主主義が何よりも大切であると考えております。民主主義は完璧な政治形態ではなく、実力組織の前では非常にもろいという面を有しております。文民である政治家が判断を間違えて、戦争に突き進むこともあります。そうであればこそ、また、戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなっている今だからこそ、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的・積極的に考えて、将来にいかしていくことで平和国家としての礎が一層強化される、このように私は信じております。
 折に触れて私が引用いたしております田中角榮元総理の言葉があります。「あの戦争に行ったやつがこの国の中心にいる間はこの国は大丈夫だ。いなくなったときが怖いんだ。だから、若い人たちには勉強してもらいたいのだ」と、そのようにおっしゃっておられました。今の日本にとって、とても大事な言葉だと思っております。
 私が国連一般討論演説でも述べたことでありますが、歴史に正面から向き合うことなくして明るい未来が拓(ひら)けることはございません。私は強くそのように思っております。これを改めて強調させていただいて、私の冒頭発言といたします。

退任間際に発表された所感、しかも公明党の連立離脱というビッグニュースとも重なってしまったため、この80年所感はメディアからもものすごい軽い扱いとなってしまった。

しかし、ポピュリズムを戒め歴史から学ぶことの重要性と説くその内容は、極めて真っ当で私の考えにとても近い。

保守派議員たちが金科玉条のように考える安倍政権の70年談話よりも遥かに優れていると思った。

しかし残念ながら、これは単なる石破さんの想いに過ぎず、日本政府の公式見解として継承されることはない。

そんな政界のドタバタ劇を眺めながら、孔子のある言葉が私の心に引っかかった。

それは今週の大河ドラマ『べらぼう』の中で、主人公・蔦屋重三郎の妻ていが拘束された夫の釈放を求めて儒学者の柴野栗山に嘆願するシーン。

私の心に響いた言葉とは、孔子の言葉を引用して慈悲を求めるていに対し、柴野が反論した言葉である。

『君子中庸 小人反中庸』 (君子は中庸し、小人は中庸に反す)

これは、儒学の最も重要な書物である『四書』の一冊『中庸』の中に出てくる言葉であり、『理想的な人物である「君子」が、常に物事の中心を捉えて調和のとれた「中庸」を実践するのに対し、「小人」は「中庸」を避けて偏った考え方をする』という意味だという。

私は我が意を得たりとばかりに膝を打った。

私は儒学の勉強などしたことがなく、当然この言葉も知らなかったのだけれど、これまでの経験と歴史から、社会を健全に導く道は常に「中道」や「中庸」にあると考えている。

しかし、大衆はいつの世でも右に行ったり左に行ったり実に不安定であり、常識的で退屈な「中道」「中庸」はたいてい人気がないものである。

昨今の“ネット世論”はますます「中庸に反する」ものを囃し立て、偏った愛国心を煽って人々を間違った方向に向かわせようとしているように私には見える。

その“ネット世論”が祭り上げようとしているリーダーこそ、高市早苗さんなのである。

中道改革を旗印に掲げる公明党。

政教分離の観点から私は一貫して公明党は認めないけれど、その掲げる政策はひょっとすると私の考えに近いかもしれない。

世界情勢が混迷し、世界中でポピュリズムとフェイクが蔓延する中で、日本の政治にはぶれない「中庸」を求めたいと私は思う。

その意味では、今回筋を通した公明党の決断を大いに評価する。

そして今こそ、政治家にはもちろんメディアや世論にも、過激な言動に惑わされることなく「中庸」の大切さが広がることを期待したい。

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