<吉祥寺残日録>練馬区に引っ越してから半年!世界情勢が私の理想からどんどん遠ざかるのを眺めながら、自分らしい「新たな日常」を模索する #260926

練馬区に引っ越してから、ちょうど半年が経った。

練馬区とは言っても端っこの端っこで、それまで暮らしていた吉祥寺のマンションから直線距離にしてわずか2.3キロしか離れていない。

自転車に乗れば10分ほどで着く距離なので、用事がある時にはこれまで通り吉祥寺に出ることが多いけれど、日常の買い物はマンションに隣接するスーパーで十分足りるので、街まで行く頻度は確実に減っている。

吉祥寺駅まで徒歩圏だった前のマンションに比べて駅からの距離は遠くなったものの、老朽化した建物の補修に頭を悩ますこともなくなり、懸案だった床の傾きが普通に平らになったことで妻の頭痛も転居以来確実に改善した。

妻も私も今のところ、今回の引っ越しに大満足である。

3キロにも満たない距離の引っ越しでも、生活というのは結構変わるものだ。

新居の周辺はとにかく桜の木が多く、ちょうど満開の頃引っ越ししたので、バスに乗って桜並木の下を抜けるともうそれだけで気分が改まったものだ。

駅から少し離れているせいで、新居の周辺には今も畑が残っていて緑がとてもきれいである。

以前のマンションは井の頭公園の目の前だったので、それはそれで緑には恵まれていたけれど、一歩公園を離れるとビルばかりが目立つ、やはり街でのだった。

マンションを出ると、通りには通行人があふれ、休日ともなると人にぶつからずに目的地にたどり着くのも困難になる。

それに比べると、新居の周辺は人の密度が圧倒的に低いため、なんだか酸素量が増した気にさえなる。

引っ越しがきっかけで始めた「新たな日常」もある。

その一つが、毎日自転車に乗ってあちこちの公園までサイクリングに行くことだ。

前のマンションでも1日5キロ歩き5キロ自転車に乗ることをノルマにしていたが、たいていは井の頭公園を中心に散歩したりサイクリングするのに限定されていた。

しかし今は、その日の気分で行き先を変える。

最寄りの公園といえば、新居の東にある練馬区立「立野公園」だ。

この公演は、私たちが新婚時代に暮らした2DKのアパートのすぐ近くにあるのだが、全くその存在を知らなかった。

調べてみると、どうやら私たちが転居した後に整備された比較的新しい公園のようで、なぜか中国風の庭園が公園の一角に造られている。

この公園までの距離は新居からちょうど1キロほどである。

また北に500メートルほど進むと、練馬区立「関町公園」もある。

細長い瓢箪のような形をした公園で、南北に伸びる池の周囲が遊歩道となっていて、お散歩にはちょうどいい。

関町公園は石神井川につながっていて、公園から西に伸びる川の両岸には遊歩道が整備されている。

この遊歩道を西に進むと、石神井川の北側には早稲田大学のスポーツ施設が広がる。

野球、サッカー、乗馬などなど、早稲田の学生たちが日々鍛錬に励む姿を眺めながら歩くこの石神井川沿いのコースも私のお気に入りとなった。

一方、石神井川南側の高台には、縄文時代の住居を再現した公園もある。

ここは「下野谷遺跡」という国の史跡で、『しものや縄文の里』という真新しい看板も設置されていた。

1973年から行われた発掘調査の結果、今から5000年から4000年前の縄文時代中期、この場所には石神井川流域の拠点となるような大集落が1000年間にもわたり存在したことがわかったという。

縄文時代中期の集落遺跡としては南関東最大の規模を誇るが、石神井川南岸の高台にはさらに古く3万年ちかく前の旧石器時代から近代に至るまで人々が暮らした痕跡が残るのだそうだ。

石神井川をさらに西に進むと、朱色の門も鮮やかな「東伏見稲荷神社」に辿り着く。

ここは私たち夫婦が吉祥寺北町に住んでいた頃、長男が生まれてお宮参りに来た思い出の神社である。

それ以来すっかりご無沙汰だったが、石神井川沿いに自転車を走らせていて偶然この神社に来てしまった。

神社の裏庭には、奉納されたたくさんの鳥居が並ぶ小道が。

こんな場所があることを今回初めて知ったのだが、調べてみるとこの神社の歴史はさほど古くはなく、昭和4年に京都の伏見稲荷大社の協力を得て、その分霊を迎えて創建されたものだという。

京都の伏見稲荷といえば、あの「千本鳥居」で世界的に有名であり、そのミニチュアがこの裏庭ということになるのだろう。

ありがたいような、ありがたくないような、微妙な神社なのだ。

そして、この東伏見稲荷神社の北側にある高台に整備されていたのが、東京都立の「東伏見公園」である。

2013年に開園したまだ新しい公園で、今も一部造成工事が行われていたが、ここには丘を利用した全長49メートルというとても長いローラー滑り台があった。

かなりのスピードが出るため小さい子にはちょっと無理かなと思いながら3歳の孫を連れて行ったところとても気に入ったようで、最初は大人と一緒に滑っていたのに、慣れると「もう一回」「もう一回」と一人で何度も丘を登っては滑り降りる遊びを延々と続けた。

この「東伏見公園」までの直線距離は新居から1.2キロほどである。

最初のうちは、こうした家から近い公園に行くことが多かったのだが、次第にそれでは満足できなくなり、徐々に自転車の走行距離が伸びていった。

最近よく行く場所の一つが、こちら都立の「善福寺公園」。

新居からの直線距離は2キロほどで、自転車で往復して公園を一回りすると、ちょうど5〜6キロのサイクリングにはちょうどいい距離になる。

あまり時間がなかったり、疲れている時などはこの公園を目的地とすることが増えた。

住宅地の真ん中に造られた1961年開園の都立公園ではあるが、井の頭公園に比べると素朴でまだ自然なたたずまいが残っている。

池には鯉がいて、白鷺なども違和感なくそこにいる。

何より井の頭公園に比べて人が少なくて、お散歩するにしても自転車で回るにしても、誰かにぶつかることを心配しなくて済むのが良い。

ただ、この公園を水源とする善福寺川は川幅が狭く、今年大雨のたびに「氾濫危険水位」に迫ったとして避難勧告が出されている。

時間と体力がある時には、同じく都立の「石神井公園」まで足をのばす。

直線距離で3.2キロ、石神井川沿いの遊歩道を北東に進んで往復10キロほどのサイクリングコースとなる。

三宝寺池と石神井池という2つの池を取り巻く形で公園が作られていて、井の頭池、善福寺池と並び「武蔵野三大湧水池」として知られる「石神井公園」は今、私の一番のお気に入りとなっている。

なぜなら三宝寺池と石神井池、それぞれ全く違った環境を提供してくれるからだ。

まずは、東側に位置する「石神井池」周辺。

こちらは都内でも有数の高級住宅街になっていて、池の北側の道路沿いには敷地の広い豪邸が建ち並んでいる。

車の通行量が少ない割に道幅が広く、歩道からはみ出して散歩していてもあまり危険を感じない。

一方、西側の三宝寺池には東京とは思えないほど豊かな自然が残されている

池の周囲には立派な木道が整備され、まるで尾瀬にでも来たような気分で自然観察を楽しむことができる。

石神井池の方には一度だけ立ち寄ったことがあるが、三宝寺池に来るのは今回の引っ越し後が初めてだったので、初めて訪れた時は相当新鮮な驚きを感じた。

池の中ほどには水中から生えたように見える樹木があり、たくさんの白鷺が群生している。

かつてアマゾンやボルネオで見た湿地帯を思い出すほどだ。

人工的に整えられた井の頭公園を見てきた目には、この景色は新鮮で、一発で三宝寺池の虜になってしまった。

そして、この三宝寺池の南岸に遺るのが「石神井城址」である。

「石神井城」は、平安時代から室町時代にかけてこの流域を支配していた「豊島氏」の居城で、1477年、江戸城を築いたことを知られる太田道灌に攻められ落城したという。

今も東京に残る様々な地名が歴史に由来することを改めて感じるが、私たちは江戸幕府が開かれる以前の東京の歴史を驚くほど知らない。

石神井公園には、最適のルートを探しながら、この半年間に何度となく通っている。

東京の喧騒がまるで嘘のようなその静けさ。

一度妻を連れてきたいと思うのだが、「遠い」と言ってなかなか行こうとしない。

でも間違いなく、引っ越ししていなければ来ることはなかったであろう、私のとってはこの半年間で最大の「発見」だったのである。

そしてもう1カ所。

石神井公園と並んで、最近のお気に入りとなっているのが都立の「小金井公園」である。

面積は約80ヘクタール、都立公園としては最大の規模だという。

新居からの直線距離は5キロほどで、往復すると15キロ弱の少し長めのサイクリングコースとなる。

おまけに園内もとにかく広く、道路も舗装されているため雨の後でもぬかるむことはない。

長いウォーキングにも最適な公園なのだ。

それだけではない。

公園内には、子供が遊べる施設も充実している。

滑り台やボルダリングなどが盛りだくさんの「わんぱく広場」のほか、「ソリゲレンデ」「ふわふわドーム」、補助輪付きの自転車も借りられる「サイクリングコース」まで。

さらに私のようなシニア向けには、ストレッチなどの器具が置かれた「健康広場」もある。

小金井公園まで自転車を漕いて、ストレッチで体をほぐし、自由気ままにウォーキングを楽しむ・・・そんな日は私の体調が良く元気な証と言っていいだろう。

今では「桜の名所」というイメージが強い小金井公園だが、その歴史を調べてみると意外な事実がわかった。

小金井公園が開園したのは戦後の1954年、しかしその元となったのは戦前の1939年に策定された「環状緑地帯計画」だったという。

紀元2600年記念事業として郊外に6か所の大緑地を整備する計画で、砧、神代・舎人・水元・篠崎とともに、小金井に、農地を接収した広大な緑地が造られたのだ。

もともとは先進国を模範とした計画だったが、戦況の緊迫化を受け「防空」の意義も加えられ、皇居前広場で大々的に行われた紀元2600年記念式典の翌年、式典のために建てられた「光華殿」が小金井大緑地に移設されたのだという。

この「光華殿」は今も、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」のビジターセンターとして健在である。

小金井公園の北側には、日本一会員権が高いことで知られる名門「小金井カントリー倶楽部」が隣接している。

最近見つけたのだが、小金井公園と小金井カントリー倶楽部の敷地の間には、およそ1キロほどの直線道路があって、ほとんど車も走らないため、ゴルフ場を眺めながらウォーキングが楽しめるお気に入りの散歩道となっている。

体調が良くてたっぷり歩きたい時は、迷わず小金井公園というのが現在の私のルーティーンだ。

そして、これまでホームグラウンドだった井の頭公園にも月に2〜3回訪れている。

久しぶりに訪れると、やはりそれなりに新鮮で、「やっぱりいい所だったなあ」などと思う。

そして何より、西園にあるエクササイズエリアは他の公園に比べて秀逸で、柔軟運動だけでなく腹筋もできて、気が向けば目の前の400メートルトラックをぐるぐる歩くこともできる。

こうして、その日の気分でいろんな公園を渡り歩き、健康的でまあまあ規則正しい「新たな日常」がこの半年の間に定着してきた。

駅から離れたマンションでも、毎日の通勤が必要ないシニアには何ら不便がないこともわかり、逆に始発のバス停がすぐ近くにある生活は歳を取ればとるほど駅まで歩くよりも便利なのではないかと思うようになった。

そして何より、マンションの隣にスーパーマーケットがある暮らしがいかに快適か、つくづく実感している所である。

そういう意味では、妻の一言から急転直下に決めた引っ越しだったけれど、これから本格的な老後を迎える私たち夫婦にとってはいいタイミング、いい選択だったと心から思うのだ。

このように、個人の生活としては大きな不満もなく暮らしているものの、日々のニュースには心がザワザワさせられることが多い。

その多くは、アメリカのトランプ大統領から発せられる耳を疑うようなニュースであり、私が理想とする「平和」で「自由」で「寛容」な社会からは世界がどんどん遠ざかっている現状に暗澹たる気分になってしまう。

こうした「トランプ病」は世界中に拡散され、私と理想を共有してきたヨーロッパ諸国でさえ、数年後には偏狭な自国第一主義に支配されそうな勢いである。

「自由」についてはさまざまな解釈があり、トランプ氏が主張するのは「法律にも縛られない自分勝手に振る舞うこと」であり、他者の自由には一切関心を持たない。

要するに、力の強い者は何をやっても許される世界、つまり「弱肉強食」の殺伐とした自由の先には戦争の影がつきまとう。

さらに危機的な状況にあるのが「寛容さ」である。

他者との違いを認め共存しようとする「寛容さ」が社会に根付くために必要なのは、想像力であり、共感力であり、自らの欲望をコントロールする理性である。

第二次大戦を経験した人々は、二度と同じ過ちを繰り返すまいと粘り強く議論を重ね、一つ一つ、社会のルールや国際法を積み上げてきた。

その代表的な例が、二度の大戦の発火点となったヨーロッパであり、EU統合のプロセスは緩やかではあったが私の希望でもあったのだ。

しかし、イギリスのEU離脱に続くトランプ政権の登場で、こうした先人たちの努力はあまりにもあっけなく葬り去られようとしている。

寛容さを失った社会は必然的に分断を生み、治安維持を名目に徐々に自由も奪われて、やがて何よりも大切な平和な暮らしを脅かすようになるのだ。

トランプ大統領の暴走は、ここにきて悪い方に加速している。

ワシントンに凱旋門を作ると言い出したと思ったら、今度はそこを大量のドローンや狙撃兵を配備した「最高水準の軍事複合施設」にすると意味不明な発信を続けている。

より深刻な問題としては、報道内容が気に入らないと言ってCNNなど報道機関3社に対しホワイトハウスでの取材許可を取り消し、あからさまなメディア規制を開始し、さらにイスラエルのネタニヤフ首相に逮捕状を出したことを理由にICC(国際刑事裁判所)を「ならず者の組織」と呼び、赤根智子所長らを制裁対象に指定、さらに国連総会で各国にICCからの脱退を呼びかけたのである。

もはや、アメリカこそが世界秩序の破壊者であり、民主主義陣営のリーダーだった頃の面影はすっかり消え去ってしまった。

それでもなお、30%以上のアメリカ国民はトランプ大統領を支持しており、テキサス州などでは学校や公立の図書館から多様性や人権に関する書物が排除される思想統制の動きも始まっている。

福音派を中心とするトランプ支持者たちは、科学ではなく聖書を絶対視して自分たちの本能のおもぬくままに社会を作り変えようとしているのだから、私たち日本人には到底理解できない「正義」がアメリカでは大手を振ってまかり通っているのである。

アメリカのシンクタンク「ユーラシアグループ」が毎年年頭に発表する『世界10大リスク』の言葉を思い出す。

今年2026年の最大のリスクとして指摘されたのは「アメリカの政治革命」だった。

初めて聞いた時にはあまりピンと来なかったが、今ではその予見性に驚かされる。

その指摘の一部を引用したおこう。

米国は政治革命のただ中にある。ドナルド・トランプ大統領は、自らの権力に対する抑制を
組織的に解体し、政府機構を掌握し、それを敵に対して武器化しようとしている。昨年の「世
界 10 大リスク」で我々は「トランプの支配(リスク No.2)」について警告した。戦術的な
規範破壊として始まったものは、党派主義的な強硬策や行政権の逸脱を超えた制度レベル
の変革へと発展した。それは、過去の野心的な大統領たちの試みたこととは質的に異なるも
のである(コラム 1「二つの革命の比較」参照)。第 1 次トランプ政権では持ちこたえてい
た安全装置の多くが今や崩れつつあり、この革命が終わった時に米国がどのような政治シ
ステムになっているか、もはや確信を持って語ることはできない。

今、アメリカで進められているのは「革命」であるという指摘は実に的確である。

この秩序を意図的に破壊するトランプ的な動きに連動しようとする勢力が世界中に台頭している現実は、平穏な暮らしを願う人たちにとってものすごい脅威なのだという認識を持たなければならない。

日本も決して例外ではない。

私も最近、日本もアメリカのことを笑えないと感じている。

高市政権の下、懸案だった皇室典範の改訂が成立し、皇族数の確保を名目に旧皇族の男系男子を皇室に迎える道が開かれた。

「男系男子による皇位継承が神武天皇以来の皇室の伝統である」というのが推進した人たちの言い分なのだが、そもそもほとんど庶民には知られていなかった神武天皇を祭り上げ、「万世一系」という天皇の物語を明文化させたのは明治政府だった。

明治維新は、下級武士によるクーデターであり、間違いなく世の中をひっくり返す「革命」だった。

明治のリーダーたちが巧妙に利用したのが、天皇という中世社会では忘れ去られていた権威である。

「古事記」や「日本書紀」に書かれていることをすべて事実として学校でも教られるのだが、古代になればなるほどその内容は神話にすぎず、これは聖書の内容をすべて真実とみなす福音派とさほど違いはないのではないかと気づいたのだ。

「古事記」や「日本書紀」は決して科学的な資料ではない。

その編纂を命じた天武天皇やその妃であった持統天皇、さらには実務を担った持統天皇の側近・藤原不比等の思惑が古事記や日本書紀には色濃く反映されているのだ。

それでも、自民党の保守派やそれを支援する右翼的な思想の持ち主にとってはその価値は絶対的であり、天皇は天照大御神の子孫と位置づけ、日本を「神の国」と呼ぶのである。

私は今の天皇家の振る舞いを大いに支持する者であるが、それは戦後の反省から、昭和・平成・令和の天皇が自ら模索し作り上げた「象徴天皇」を支持しているのであって、天皇を「神の子」などとは思ったことがない。

だから、私にはクレージーにしか見えないトランプ支持者たちも、学校で教えられた日本の歴史を信じる日本人はさして違わないのかもしれないと思ってしまうのだ。

引っ越し後、私がよく訪れる公園の一つに都立の「武蔵野中央公園」がある。

広々とした原っぱが広がることから「はらっぱ広場」と呼ばれ地元の市民に愛されている公園だ。

しかし、この場所には戦前、日本有数の軍需工場である「中島飛行機武蔵製作所」があった。

零戦をはじめとする陸海軍の軍用機に搭載するエンジンを大量生産する最新鋭の工場だったため、1944年11月、米軍がサイパンやテニアンから本格的な本土空襲は開始した時、真っ先にその標的となり、終戦までに9度にわたる攻撃を受けた場所なのだ。

公園の一角には、中島飛行機や空襲の記憶を伝える記念碑も建っているが、ここがかつて軍需工場だったことを知る武蔵野市民は決して多くはない。

中島飛行機武蔵製作所の敷地は非常に広大で、現在は中央公園のほかに、URや都営の大規模な団地が立ち並び、さらにはNTTの中央研究所や都立高校、武蔵野市役所もその跡地に建てられている。

私が引っ越したマンションは練馬区ではあるが、一帯は「北裏」と呼ばれている。

「北裏」とは、中島飛行機武蔵製作所の北門裏という意味だそうだ。

知らないだけで、調べてみれば私たちの身の回りに、日本が行った戦争の記憶が眠っているのである。

高市総理は30年前、国会で次のように述べたと伝えられた。

「私自身は当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」

確かに私たち戦後生まれの世代は「戦争を知らない世代」である。

しかし歴史を勉強すれば、戦争の残酷さ、自分たちの先人が行った所業の非人間性について知ることはできる。

私のマンションから歩いて数分の場所にある「武蔵野陸上競技場」も、戦前は中島飛行機が所有する運動場だった。

被害の歴史は強調し、加害の歴史は忘れ去る。

これは独裁国家だけでなく、日本を含むほとんどの国で見られる政府の振る舞いだ。

中国や韓国から歴史問題について蒸し返されて憤る前に、自分が教えられた歴史だけでが真実なのか、自ら勉強し総合的に判断することが重要である。

知識がないところに想像力は生まれない。

そして、想像力が働かなければ他者の痛みは理解できず、どんどん不寛容な社会になってしまうのだ。

引っ越しを機に、私は改めて中島飛行機や日本のナショナリズムについても勉強を始めた。

これもまた、私の「新たな日常」なのである。

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