ルワンダ

テレビをザッピングしていて偶然見つけたドキュメンタリー番組。おもわずチャンネルが止まった。

NHKのBS1「殺人者34万人の帰郷〜ルワンダ虐殺22年目の“声”」。

私が見たのは番組の最後の10分程度だったが、感慨深かった。

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1994年。アフリカ中部の小国ルワンダで信じられないような大虐殺が起きた。私のパリ特派員時代のことだった。

最初は詳細が分からなかった。アフリカで時々起きる残虐な内戦という取り扱いだった。しかし被害者が数十万人から百万人との情報が伝えられるに従い、欧米のメディアでは大ニュースになっていった。それでも日本からは遠いニュースだった。しかし、私はそのニュースが最初から気になって仕方がなかった。

まず取材に行ったのが隣国タンザニアの難民キャンプだった。ルワンダとタンザニアの国境にかかる橋を取材した。橋の向こうはルワンダ。国境のゲートには銃を構えた兵士たちが何人かたむろしていた。

彼らに話しかけた。「ルワンダ領内に入れるか?」

「大丈夫だ。入れ」意外な答えが返ってきた。

まだルワンダ国内では大虐殺が続いていると伝えられていた。取材に入りたいと思いつつも、あまりにも情報が不足していた。そもそもルワンダ国内で使う車もなかった。タンザニアのドライバーは誰もルワンダに入らないのだ。

「改めて出直す」と兵士に告げて橋を引き返した。

その時だった。

橋の下を流れる川を見下ろした私は信じられない光景を目撃した。橋の少し上流に小さな滝があったのだが、その滝壺に何かが漂っているのに気づいた。すぐに分かった。人だ。遺体だった。

よく見ると一体だけではない。川のあちこちに遺体が浮かんでいるのだ。川の上流から次々に人の遺体が流れてくる。この川はルワンダ国内から流れていた。大虐殺のニュースは間違いない。そう確信した瞬間だった。

川を流れる遺体の映像とリポートは日本に伝送されニュースで放送された。それまで遠い国の出来事として報道局ですらあまり関心を払われなかったが、このリポートを見た外信部デスクは「ルワンダのリポート、どんどん送ってこい」と伝えてきた。

難民キャンプに逃げてきた人たちから虐殺の様子を聞いた。ナタでひどい傷をおわされた人たちもたくさんいた。被害者たちは虐殺の様子を実演付きで詳細に証言してくれた。ある日突然隣人が殺しにくる異常な事件が語られた。このリポートも優先的に放送された。

この後、ケニヤの首都ナイロビから国連機に同乗し、ルワンダの首都キガリに飛んだ。キガリでは政府軍と反政府軍の戦闘が続いていた。空港の機能は完全に停止していて入国審査も何もない。

国連の車に乗せてもらい国連の現地本部に向かう。数台の車がコンボイを組み、無人の道を全速力で突っ走る。街には人影がまったくなかった。文字通り、誰一人いないのだ。

国連事務所に着くといきなりドンという大きな砲撃音に飛び上がった。何と国連事務所のすぐ脇に反政府軍の大砲陣地が作られているという。砲撃は頻繁に行なわれる。銃声もあちらこちらかた聞こえてくる。ここは戦場のど真ん中なのだ。

国連が用意してくれたホテルに移動する。元はこの街を代表する高級ホテルだったのだろうが、今は営業していない。国連関係者やジャーナリストなどが滞在しているだけだ。

「空いている部屋を自分で見つけてそこを使ってくれ」と言われる。

夕食として国連軍のランチボックスを渡された。これが晩飯だ。宿泊費は無料だという。

階段を上がって部屋を探すと、すぐにある事に気づいた。廊下を挟んで左右に部屋があるのだが、片方はすべて埋まっていて、もう一方の部屋はがら空きなのだ。理由は明快だった。空いている部屋の側が前線だったのだ。先客の職員は「あの窓から見える丘が政府軍の最前線だ」と教えてくれた。

しかし、安全な側の部屋はひとつも空いていない。仕方なく、私とカメラマンの2人で前線側の部屋を使う事にする。身をかがめて、部屋の中に入る。恐る恐る窓の外を眺める。時折銃声は聞こえるが、のどかなアフリカの風景が広がっているだけだ。

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ルワンダの別名は「ミルコリンズ」。千の丘という意味だ。確かになだらかな緑の丘陵が続いている。そして、目の前の谷を越えた向こう側が政府軍側の最前線なのだ。

部屋にはベッドも何もなかった。マットレスも自分で探してくれと言われていたのでホテル内を捜索する。ようやく2つマットレスを見つけ、部屋に引っ張り込んだ。ついでに木製のテーブルや戸棚を窓際に並べてみた。気休めだが弾よけのつもりだ。

それでも時間が経つにしたがって、最初の緊張感も少し和らいできた。ちょっとしたキャンプ気分だ。明るいうちにメシを食おうということになり、軍のランチボックスをあける。温かいものはないが下手な機内食よりうまかった。

テレビカメラを三脚にのせ、窓の外を撮影する。カメラマンも立ち上がらず、床に身を屈めたままカメラを操作する。

日暮れとともに銃撃戦が始まった。銃弾の通った跡が、赤い線となって見える。まっ暗闇の中をいく筋もの赤い線が走る。谷を隔てて、政府軍と反政府軍が撃ち合う。私たちの部屋は絶好のビューポイントだ。別に希望したわけではないが・・・。

当時のルワンダ内戦の構図は、フツ族主体の政府軍に対し、ツチ族の反政府軍が攻勢を仕掛けている状況だった。その過程で、多数派のフツ族の民兵や住民たちが突然ツチ族の隣人たちに牙を向けた。街のあちこちにバリケードを築き、ツチ族だとわかればその場で殺した。

ホテルには、ツチ族の住民たちもかなりの数、逃げ込んでいた。彼らは、ホテルの中から不安そうに外の様子をうかがっている。このホテルにも、いつフツ族民兵たちが押し寄せてくるかわからない。その時、国連は彼らを守れるのだろうか。

ここでは、国連軍はあまりに無力だった。停戦監視が任務だが、目の前で戦闘が行なわれていた。私の滞在中にも国連の車が攻撃され数人が犠牲となった。白く塗られたランドローバーには青い国連の紋章がはっきりと描かれていた。彼らは国連とわかっていて攻撃してくる。空港からの道のりを全速力でぶっとばした記憶が蘇る。国連の車はここでは標的でしかないのだ。

2度目のルワンダ取材は、内戦が終結した後だった。結局、反政府勢力が勝利し、政府軍を隣国ザイールに追い出した。

戦闘がおさまったルワンダでの取材も凄まじいものだった。まずは大虐殺の代表的な現場と伝えられた教会を探すことにした。そこはキガリから100キロ以上離れていた。運転手付きの車をチャーターして東に向かう。その教会はタンザニア国境に近い村にあるはずだった。しかし、正確な地図が無い。運転手も正確な場所はわからないというので、途中で聞きながら探すしかない。

ところがである。

街を出ると、人がほとんどいないのだ。途中、検問はあるのだが、住民がいない。ところどころに村や民家があるにもかかわらず、誰も住んでいないのだ。道を聞こうにも聞く相手がみつからない。おそらく100キロほど無人地帯が続いていたのだと思う。殺された人たち、難民となってタンザニアに逃れたツチ族の人たち、反政府軍を恐れてザイールに逃げたフツ族の人たち。そして、誰もいなくなった。

迷いに迷って自力で虐殺現場を見つけたのはもう夕暮れだった。教会に近づいていくと、数匹の犬が見えた。犬たちが何かを食べているようだ。近づくと、それは人だった。日が経ってひからびた遺体は無惨に食いちぎられ、すでに上半身がなかった。そんな遺体が教会の前の広場に散乱している。

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教会の中はさらに悲惨だった。床が見えないほど多くの人が折り重なるように殺されたのだろう。すでにミイラ化していて、着ていた衣服がつながってモザイク模様の絨毯のようだった。ものすごい腐臭が立ちこめている。吐きそうだ。

後で聞いた話だと、ツチ族の住民たちは教会に集まるように命令され、外から一斉射撃を受けて800人ほどがここで殺されたという。

2度目のルワンダ取材の結果は、4日連続のシリーズ企画として放送された。

 

 

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