トランプ評論

トランプ氏の歴史的な番狂わせについて、連日メディアで専門家と称する人たちが分析を繰り返す。

「トランプショック」で暴落した株価は翌日には今年最大の上げ幅を記録した。当選後のトランプの発言が予想外にマイルドだったことも手伝って、メディアの論調も手のひらを返したように好意的になった。

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はたしてどう理解すればいいのか?

どれもこれも後付けにしか聞こえず説得力がない。そんな中で「東洋経済」に面白い評論がのっていた。忘れないよう書き写しておきたい。

以下は脇坂あゆみさんという翻訳家が書いたものだ。

「米国大統領選挙は大方の予想に反し、不動産王のドナルド・トランプが制して決着した。世論調査の支持率は拮抗していたものの、終盤は安定してヒラリー・クリントン有利であり、アメリカの有力紙もほとんどがクリントン支持を表明し、初の女性大統領誕生を予測していたなかでの歴史的な番狂わせとなった。だが日本時間11月9日の午後、アメリカの地図が次々と共和党色に赤く塗りつぶされていく様子をちらちら眺めながらトランプの勝利を確信しはじめたとき、どこか既視感があると思った人も多いかもしれない。

そう遠くない2004年のブッシュ対ケリーの大統領選である。

この年の選挙も大接戦だった。そして東西の海岸メディアと、海岸文化寄りの親日派・知日派米国人のフィルターを通して選挙をみていた日本人の予想も大方ケリー有利だった。今回、リベラルな海岸メディアは12年前と同様、日本のメディアを巻き込んで、自国の真ん中にいるサイレント・マジョリティの空気をまたも読み違えたといえるだろう。

たしかにそのときも、今回も、支持率は最後まで拮抗していた。世論調査の手法に限界もあろう。加えて今回は、「隠れトランピアン(トランプ支持者)」問題もあった。東京にいてさえ、「トランプで悪くないかも」などとつぶやこうものなら偏狭な人種差別主義者として抹殺されそうな空気があった。筆者自身も直近の1カ月はクリントン候補が選出されると思っていた。実際、執筆をしている10日の時点でも、一般投票数ではクリントンがトランプを上回っているようだ。

だが結果が明らかになった後になっても、トランプ現象に関するメディアの社説の多くは、この結果を招いたトランプ支持者の意図をごく一面的にしか伝えていない。人種間の分断も経済格差も不法移民問題も現実であり、取り残された人々もいようが、トランプ大統領の誕生は、無教養な低収入の白人労働者の怒り、疑念と絶望の発露ではない。保守的で勤勉な無名のアメリカ人がそれぞれに描いた自国と世界の未来への希望の表明の結果なのである。

では世論調査で息をひそめていたとおぼしき「隠れトランピアン」たちは何を考え、何に希望を抱いていたのだろうか。

第1に中西部の共和党に多い伝統的なアメリカ人は、政府は何もしてくれない、といった怒りに突き動かされているわけではない。海岸文化が象徴するものがリベラリズム、多様性、グローバリズムだとすれば、中西部の文化が象徴するのは頑ななまでの自立心であり、具体的には神への信仰と勤勉さと創意工夫だけを頼りに自ら切り開いていく生活と家族愛だ。

それは政府への疑念や公共の施策から取り残された疎外感ではなく、個人の生活を支配する権力への警戒と健全な懐疑、つまりはアメリカ伝統の保守主義である。彼らがトランプを支持したとすれば、怒りというより、リスクをとって自力で成功への道筋をつけた彼への尊敬と期待のほうが大きいように思う。これは筆者の彼の地での遠いが鮮烈な記憶からの推察である。

第2に、中西部でなくともアメリカという国は、他の文化と比べてビジネスマン、とくに独立独行の大実業家を讃える伝統が根付いている。昨年12月の記事「日本人が知らない”カネの国”アメリカの美徳」でも触れたが、彼らの間にはおそらく根強い実業家大統領への憧れがあった。

経営者から低賃金の労働者から零細の自営業者まで、私企業で働くビジネスマンは誰もが日々グローバルな競争にさらされ、とくにアメリカではいつリストラされるか、あるいは新興国の競合にシェアをうばわれるかといった強迫観念と緊張感のなかで仕事をしている人が多い。だから本物の実業家が政治のトップに立てば、同じ規律と緊張感をもって政府のリストラを進め、商売をなるべく楽にしてくれるのではないかという期待があったのかもしれない。

リスクを張って市場で戦うすべての事業者同様、トランプも政府による数多くの規制にとまどい、多くの従業員を抱えながら訴訟も戦い、胃の痛い思いを何度もしてきたことだろう。チャレンジしては失敗し、それを繰り返して大きな事業を築き上げた。法人税のカットはもちろん、複雑な法務・労務・税務などのプロセスの簡素化も進めてくれるかもしれない。ギャンブル性の高い不動産業出身であることはかなり不安だが、卓越した交渉能力で通貨安競争に歯止めをかけ、公正な貿易条件を担保してくれるかもしれない…、等々。

ヒラリー・クリントンが生涯をかけて立場の弱い女性や子供の権利や生活の向上のために戦ってきたことは尊敬に値する。多くのアメリカ人は「寛容な国民」だ。だがもしグローバル経済の荒波がアメリカの隅々にまで押し寄せてきているならば、より差し迫った課題は目の前のグローバル競争にどうやって生き残るかであり、現役世代のビジネスパーソンの大勢は、おそらくトランプの経営者としての手腕に賭けたのだ。

この期待は、ある限られた市場のなかでの社会正義に生きる政治ジャーナリストには、共有できないものだったのかもしれない(FOXテレビの司会者ショーン・ハニティーなど少数の例外はいたが・・・)。

第3に、これも以前の記事(日本人が知らないアメリカ的思想の正体)で紹介したことだが、自由至上主義者(リバタリアン)たちの存在があったことを見逃せない。わかりやすい例ではクリント・イーストウッドなど、政府からの自由こそがアメリカのアイデンティティであると信じている人たちである。

思想的にはリバタリアン党のゲイリー・ジョンソン(元ニューメキシコ州知事)に近く、世論調査からは全有権者の10%超をリバタリアン支持者が占めていたと思われる。リバタリアンといわれる彼らは茶会(ティーパーティー)運動を後押しし、2010年の中間選挙で共和党躍進の原動力ともなっていた。

ところが、トランプの評価については二分された。このグループとは筆者はリアルタイムで少しかかわりがあり、ある程度事実として知っているのだが、自由貿易と市場主義を純粋に信じる原理主義者たちはトランプの主張を危険視し、トランプから離れていった。その結果、スイングステートのひとつであるニューメキシコ州ではリバタリアン候補のジョンソンが9%と票を伸ばす一方で、最終的にクリントンが選挙人を獲得している。

しかし、それ以外のスイングステートのリバタリアンは両者の経済政策を眺め、減税、規制緩和推進など目の前の商売にとってマシと思われるトランプに票を投じるという苦渋の決断をしたのかもしれない。

選挙戦終盤でトランプに1億円超を寄付して話題になったシリコンバレーのリバタリアン投資家のピーター・ティールの言を借りれば、「メディアはトランプの言葉尻をとらえ、(候補者として)真面目に考慮することがなかったが、トランプの支持者は言葉尻にとらわれず、真面目に考慮した」のである。

トランプはそうした冷静な判断をある程度可能にする自分のビジネス、信条、価値観についての本を何冊も書いているし、多少の偏向報道では揺るがないほどの年月、メディアの寵児としての経歴がある。多くの国民にとってはテレビのリアリティーショーの『アプレンティス』に君臨する憧れの大実業家なのだ。

トランプがこだわるのは性別や人種、宗教ではなく、個人の能力と勝負への執念であり、『アプレンティス』ではむしろ性別、学歴といった一般常識にもあえて切り込み、最高の人材を発掘するという設定だった。シーズン1では、参加者を男女のグループに分け、女性チームが勝ち続けたときには自分の事業では「これから女性しか雇わない!」と宣言したほどだ。

一方、彼女たちが物販や広告などの課題を与えられた際、あからさまにその若さやセックスアピールに頼ったことから、「少し女性カードを使いすぎている」と忠告したこともあった。

シーズン2では、高卒の起業家と一流大学出身のエリートのグループを競わせた。参加者にはマイノリティもいた。そこで印象に残っているエピソードがある。マイノリティのなかに1人、ものすごく性格の悪い黒人女性がいた。有能だが勝つためには手段を選ばない強烈な個性だった。チームワークも何もなく、視聴者も含めて誰もが、次に「お前はクビだ」の決まり文句で解雇されるのは彼女だ、と思いながら眺めていた悪役だった。だがなかなか解雇されなかった。

選抜が進んだ第8話でのこと。ボードルーム(負けたチームがトランプタワーの役員会議室に呼ばれ、うち1人が解雇される)で、彼女が保身のためにチームのメンバーの1人に対して罵詈雑言の限りを尽くし、目も当てられない泥仕合になったときのことだ。解雇されたのは、その性格の悪い女性ではなく、自分を守るために戦わず、節度を守ってしまった相手の女性だったのだ。トランプは、嫌われ者の女性は人としてどうかと思うと戒めたうえで、それより悪いのは攻撃を受けてもやりかえさず、負けを受け入れたもう1人の女性と断じたのだ。

人種、性別、宗教もない。常識もない。トランプが価値を見出すのは大きな勝負をかけること、それに勝つこと、そしていい仕事をすることなのだ。勝負の舞台では、やられたらやりかえす。決して攻撃の手を緩めない。そこには競争相手への個人的な偏見も恨みもない。彼にとって人種や性別などは些末な判断材料であり、ただ勝つことへの執念があるだけなのである。

それは共和党の予備選での容赦ない他候補への攻撃でもあきらかであり、本選の討論会で「互いについて尊敬する点」を訊かれてクリントンが決してあきらめない戦士であることだと述べたことからもうかがわれる。特定のグループへの憎悪があるのではなく、単なる負けず嫌いなのである。

筆者自身はこうしたトランプの勝つためには手段を選ばない点がいつも美徳であるとは思わないし、あまりにも時代がかっているとさえ思う。

だがトランプが唱えつづけたグローバル競争の脅威が現実だとすれば、そこでアメリカが戦っていくには、これまで以上に冒険をし、アイデアを競わせ、成功をたたえ、それに報いていくしかないと、トランプを支持する人々は感じたのではないだろうか。選挙戦の最中に彼は「これはアイデアを競う選挙である」と言っていたことがある。

成長に必要なのは善意の互助制度ではなく、 野心であり、あくなき挑戦であり、変革への決意と成功への執念である。だから一度でいい、トランプにやらせてみようじゃないか。静かに2人の候補者をみつめていたサイレント・マジョリティは、醜悪な中傷合戦に耳を覆いながら、そんなことを考えていたのではないか。

経験豊かな安定した政治家ではなく、不動産というきわめてハイリスクな産業からうまれた政治手腕も未知数の実業家に大きな仕事を託したアメリカと、ひとりひとりの無名のアメリカ人がマスメディアの一様な反トランプのキャンペーンにふりまわされず、それぞれに勇気ある判断をくだしたことに、筆者はむしろ敬意を表したいとさえ思う。

2015年の予備選で始まった大統領選はついに幕を下ろした。だがトランプ陣営がどのような閣僚と政策スタッフで周囲をかためるのか、上院・下院を制した共和党議会のリーダーシップとどのような協業体制を築いていくか、誰にも予想がつかない。コーク兄弟はじめリバタリアンの運動家たちが長い年月をかけて築いてきた共和党の政治マシンや、下院議長のポール・ライアンに代表される茶会系議員との話し合いもこれからである。アメリカの政治からはまだまだ目が離せない。」

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彼女の評論が正しいかどうか、私には判断できない。しかし、アメリカのメディアも含め、今回耳にしたトランプショックについての解説の中では、私には一番腑に落ちるものだった。

日本のメディアが支局を置いているワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルスにいてはわからないことがある。ネット情報を集めてもわからない事が確実にあるのだ。

現場を歩き、現地の人の話を直接聞くことで、それまで自分が抱いていたイメージが壊されることがある。それは必ずしも見る、聞くということで得られるとは限らない。現場を回っていて感じる違和感、そこから真実に近づくこともある。

それこそが取材をする意味であり、ジャーナリストの仕事だ。

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