<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館⑧ 司馬遼太郎著「街道をゆく〜韓のくに紀行(司馬遼太郎全集47)」(1984年/日本/文藝春秋) #210116

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正月早々、北朝鮮に動きがあった。

5年ぶりとなる朝鮮労働党の党大会が5日から始まり、金正恩氏を「総書記」に選出した。

これは、祖父の金日成、父の金正日が使っていたもので、自ら封印していた党の最高ポストの肩書きを復活させた形だ。

14日には軍事パレードも行って、新型のSLBM「北極星5」を初公開するなど、バイデン政権の発足を前に軍事力を誇示しながらアメリカの出方を伺う姿勢を示した。

一方韓国では、8日にソウル中央地裁が元慰安婦問題で、日本政府に賠償を命じる判決を言い渡したことをきっかけに日韓関係が一段と冷え込んでしまった。

日本と朝鮮半島の長い対立の歴史にまた面倒な問題が書き加えられた。

隣国との対立というのは世界中どこでもみられることではあるが、もう少し上手い関係は築けないものかと思わずにはいられない。

私は去年、福岡から対馬への旅をしてから、古代史の世界にはまってしまったらしく、図書館でその手の本ばかり借りてきて年を越した。

中でも学校で「任那(みまな)」として教わった朝鮮半島南部の国家?については、研究者によって見解がまったく異なっていて興味深い。

学校では、「任那」というのは日本府が置かれた日本の植民地のような国だと教わった記憶がある。

しかし、こうした任那像は戦前朝鮮半島を併合した日本で生まれた皇国史観と結びついているようで、戦後になると「任那」の存在について日韓で様々な解釈がなされるようになった。

そこで、戦後の日本人ビジネスマンに多大な影響を与えた作家・司馬遼太郎さんが、どのような視点でこの古代史の謎を読み取ったのかを知りたくなり、一冊の本を借りてきた。

司馬遼太郎著「街道をゆく〜韓国のくに紀行」

司馬さんの本は図書館ではいつも人気で文庫本はすべて貸し出されていたので、代わりにこの紀行文が収録されている「司馬遼太郎全集 第47巻」を借りてきた。

この紀行文の取材のため司馬さんが韓国を旅行したのは、日韓が国交正常化して6年後の1971年5月15日から5月18日までのわずか4日間。

司馬さんはたった4日の旅行をもとに、週刊朝日の連載を、1971年7月16日号から翌年の2月4日号まで書き上げた。

これだけ見ただけでも、職業作家の凄さが知れるというものだ。

私には到底考えも及ばないプロの技である。

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では早速、司馬遼太郎さんが「任那」についてどのように記しているか、その部分を引用させていただこう。

朝鮮の上代史は系譜的にのべることはむずかしい。四捨五入してごく図式的にいえば、はじめに三韓(馬韓、辰韓、弁韓)時代があり、ついで三国(高句麗、百済、新羅)時代がきて、やがて新羅が統一をするということがいえる。

この「三国」のうち、高句麗は北方にある。民族としての感じも、あるいは風俗や言語まで韓族とはちがっていたらしい。韓族の国が、南のほうの新羅・百済だが、ところがこの両国にはさまれてちっぽけな国がひとつあった。洛東江の下流がうるおしている穀倉地帯にあり、それがいまの地名でいえば金海付近にあった。

その国名は、いろんなふうによばれていた。みな同国を指すのだが、列挙すると、

金官国(きんかん)

駕洛国(からく)

加羅国(から)

伽倻国(かや)

任那国(みまな)

などとよばれる。

最盛期は非常に大きかったという説もあれば、そうでもなくいまの釜山から金海あたり一帯程度がその領域だという説もある。

日本列島にまだ日本国家が成立していなかったころ、さかんに倭人(日本人)がここへ往来し、なかには住み着いてしまっている者もあり、それよりもさらに数多くの駕洛国(以下この国名でいう)の国人が日本地域にやってきて住みつき、耕地をひらいた。その往来が非常にひんぱんだったということは、日本の『古事記』『日本書紀』からも、『魏志』からも、いくつかのヒントを得ることができる。

朝鮮の民間伝承でも、

「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」

というのがあるそうだ。上代では、駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれる。

ちかごろになると、

「倭というのはかならずしも日本人のみを指さない。上代のある時期までは、南朝鮮の沿岸地方から北九州をふくめての地域の呼称もしくは諸族の呼称であった」

という説得力に富んだ説まで出ている。さらにまたこの駕洛国のひとびとが日本に弥生式農法と文化をもってきた、ともいう。

「倭というのはかならずしも日本人のみを指さない」という説は、先日私も初めて読んで大いに興味をそそられたばかりである。

司馬さんは、さらに続ける。

まだ日本が、日本という国名さえなかったころ、

「おまえ、どこからきた」

と、見知らぬ男にきく。

「カラからきたよ」

と、その男は答える。こういう問答が、九州あたりのいたるところでおこなわれたであろう。カラとは具体的には駕洛国をさし、次いで朝鮮半島一般をさすようになり、韓という漢字をカラと読んだりしたが、そのうち中国大陸に隋・唐という巨大な統一国家が出現するにおよんで、中国のことをカラとよぶようになり、唐の字をあてた。はるかにくだって江戸時代には舶来品一般のことを唐物といったように、海外をさすようになった。要するにモトのモトは、洛東江畔の駕洛国から出たのである。

日本の古記録では、この駕洛国のことを、

「任那」

という。平凡社の『世界大百科事典』でも、「任那」の項で、

「四世紀の半ばころから六世紀の半ばころにわたる二百年間、日本が南部朝鮮に持った植民地的領域の名」

と、書かれている。「植民地」というヨーロッパ的概念のことばを任那の場合につかうのは、適当ではない。

そういうばかなことはない、という説が、朝鮮の学者からいろいろ出ている。駕洛人こそ日本列島へ進出したのだ、と説くのが、朝鮮民主主義人民共和国の金錫享氏である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」も大筋はそうである。日本の崇神天皇の名前がミマキイリヒコというが、そのミマは任那のミマであると江上氏は言い、「任那こそ日本の出発点であった」という。いずれも、じつにおもしろい。

ただ日本と朝鮮における古代史というのは、後世のわれわれにとって空想のつばさを借りなければとうていその世界に行けず、しかしながら文学作品か宗教的教義でないかぎり、われわれ人間というのは他人の空想に酔うことができない。これらの諸説が日本の読者に大きな関心をよびつつも、まだ学問の世界での席が与えられていないのは、おもしろすぎるからであろう。

「任那こそ日本の出発点であった」という説が学問の世界で認められない状況を、その説が「おもしろすぎるからであろう」と評するあたり、一流作家らしい見事な表現だと感心した。

日本と朝鮮の学者の間で、国家や歴史、イデオロギーが絡んで譲れない見解の相違について、「おもしろすぎる」の一言でさらりと流してしまったのだ。

そのうえで・・・

この両者のあいだをとって、できるだけ空想をつつしんだ考え方のひとつとして、

「任那日本府は、ほんらい任那に土着した日本人の政治的連合体で、大和朝廷とは直接には無関係である」

という、井上秀雄氏の説がある。

ついでながら、任那というような国名は日本の古記録にあるだけで朝鮮の史書にはないから、そういう国は実在しなかったという説がかつておこなわれたことがあったが、しかしながら朝鮮側に有名な好太王碑文にこの国名が刻まれているし、それに加羅国、駕洛国のあたりの政治的地域を日本語として任那と呼んでいたという言語の問題にすぎないから、これは問題ではなかろう。

いずれにしても、いまの金海の地は、古代南朝鮮人もしくは古代日本人が「倭」という人種名でそこに土着し、好太王碑文によればかれらは「倭」という集団名で高句麗国の南下軍と奮戦しやぶれたという土地であることだけは、まぎれもないことである。

つまり、かつて朝鮮半島南部に「任那」または「駕洛国」などと呼ばれた国があり、その国を作ったのは「倭」という人種だったことまでを司馬さんは認めたということのようだ。

至って穏当な評価だと思う。

古代史という明文化された資料がない時代の有り様は、各自が自分の都合で自分がそうであって欲しいという願いも込めて都合よく解釈する傾向がある。

日本人と韓国人の研究者の間で見解が大きく異なってしまうのは、まさに近代から現在にかけての日韓関係の反映なのだ。

最近のニュースでは、「過去最悪の日韓関係」などという常套句がよく使われるが、日本と韓国の関係が良かった時期など明治以降ほとんど存在しない。

司馬遼太郎さんの時代も今と変わらず日韓関係は芳しくなく、「街道をゆく」の中にもその辺りの愚痴が書かれていた。

任那は日本の植民地だった。

という具合に、『日本書紀』ではなっている。これが朝鮮側の学者から否定されていることはすでに述べた。日本の古代国家が海外に植民地を必要とするような条件がないし、たとえあっても維持を可能にする条件が希薄だから、これは『日本書紀』の筆者が、国家としての必要上、日本のイメージをできるだけ東海のミニ中国として描こうとしたための筆の走りすぎであろう。

しかしながら、『日本書紀』が任那として呼んでいるこの駕洛国のあたりの住民が、何度も触れてきたように、倭人もしくはそれに似た民族の集団であり、日本列島に住む民族が彼らに対して人種的一体感を持っていたであろうということは否定できない。といって、こういうあたり前のことをいっても、朝鮮人も日本人も喜びそうにないというのが、この二つの、つまり人類学的に相似的要素が強く、そして地理的にも近い両民族の実にくだらない共通点である。

戦後、日本の占領から解放された韓国では『民族の誇りを養う為、政府や学界が、記紀、考古学的成果、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の史料を、積極的に曲解する民族史観を国を挙げて推進している』(ウィキペディア)とされる。

日本と韓国の研究者の見解は、ますます隔たるばかりだ。

しかし、司馬さんが指摘する通り、古代史をできるだけフラットに見ていくと、『日本人と韓国人は同根』、同じツングース系の血を引く相似形の民族であると考えるのが妥当なのだろう。

紀元前には、稲作技術とともに多くに人たちが朝鮮半島から九州に渡り、弥生文化を作っていった。

6〜7世紀には、朝鮮半島の混乱が新たな大陸系の血を日本列島に流し込む。

日本府が置かれていたとされる「任那」というエリアは、6世紀になると百済と新羅によって侵略されて地図から消え、660年には百済も唐と新羅に連合軍によって滅ぼされる。

日本が初めて海外に派兵した「白村江の戦い」もこの時代に起きた。

古代日本がなぜ他国の戦に兵を送ったのか私はずっと疑問に思っていたのだが、その経緯について司馬さんは、次のように想像している。

日本に「天皇」の呼称が出現するのは中国大陸に隋・唐という一大統一帝国が誕生したことと直に関係があるであろう。東アジアの政治情勢は急変した。日本もぼやぼやしておれなくなった。年表を見ると

『蘇我入鹿、誅殺さる』

というのが、645年である。入鹿という、代表的な豪族を、飛鳥板蓋宮の宮殿の中で誅殺した。実際に手を下したのは闖入した剣客たちだが、剣客たちを直接指揮していたのは皇太子中大兄皇子であった。皇太子クーデタというべきもので、この誅殺後、年号を初めて作って「大化」とした。年号を作ることは、中国の王朝の風である。日本もこれを創始することによって、中大兄皇子(後の天智天皇)は対内的にも対外的にも日本が独立王国であることを宣言したことになる。日本地域の歴史は古いが、しかし日本国家の事実上の成立はこのクーデタからであるというべきであろう。

この大化改新のクーデタからわずか15年後に百済が降伏し、義慈王が唐に連れ去られ、百済の遺臣鬼室福信から「日本にいる王子豊璋を迎えて独立運動をしたい。ついては日本は援軍を差し向けてほしい」と依頼してくるのである。日本が大化年号の創始という統一国家の形式を整えてからわずか15年である。

対外派兵の実力などはとてもない。

という見方が存在するのも無理はないであろう。

が、実際には実力があった。

人口が多かった。

確かな数字などあるはずがないが、日本の西日本が水稲耕作の適地であることは、水稲耕作の家元である江南よりも優れていた。日本は降雨量が多く、山には樹木が繁茂してよく水を貯え、そのため河川の涸れることがなく、さらには四季の気温がほどよく循環して水稲農業にうってつけである。一定の土地に多数の人口を養う手段としては、水稲工作が、牧畜や狩猟よりも遥かに優れている。大雑把な言い方をすれば、当時、人口密度はひょっとすると日本は世界で最も高い地域の一つだったかもしれない。

ただその多い人口が、組織化されて強力な統一国家体制に組み込まれているということが、極めて希薄だったということだけである。それを中大兄皇子が大味ながらやった。蘇我入鹿という代表的豪族のかしらを剣で倒すというそれだけの作業で統一という大事業がさらりと進んだのは、そういうあり方で日本の古代社会がすでに生産的に進化していたことを表す。

しかしながら百済から救援の使いが来た時、この新統一国家の首脳たちは最初肝を潰したことであろう。

「唐と戦うのか」

ということである。

想像を絶する冒険であった。

第一、軍隊というものをどのようにして作ればいいのかもわからない。

古代社会にも、戦士たちはいた。特に北九州の松浦半島や壱岐・対馬にいる連中は早くから朝鮮へ押し出して小規模な対外戦をやっていた形跡はあるし、他の地域でも部族同士の争いに戦争らしいものをやっていたことは確かだろうが、しかし国軍を成立せしめて大唐帝国の正規軍と戦うといったようなことは全く未経験であった。

「大丈夫ですよ。大したことはないじゃありませんか」

という風に安易な励ましをやってのけた連中が、独裁者中大兄皇子の側近に多数存在したに違いない。その多くは百済からの渡来人であったと思われる。彼らは母国を救うために日本の人口を利用しようとした。

「軍隊を作れとおっしゃるなら私どもにその経験がありますから、御命令さえあればやりますよ」と、彼らは言ったに違いない。

中大兄皇子の一代の行跡から推量して、その性格は極端な放胆さと極端な臆病さを同時に兼ねた人物であったように思われる。この時は放胆の面が出た。

やってみるか。

渡海のために水軍が必要であった。

この当時の日本における最大の海上勢力は北九州沿岸地方に住む阿曇(安曇)氏であり、その狩猟は阿曇比羅夫である。

阿曇氏に次ぐ海上勢力が、瀬戸内海を根拠とする阿倍引田氏である。その首領を阿倍引田比羅夫という。この二人の海の比羅夫に第一艦隊と第二艦隊を編成させた。

また、百済王子豊璋を手ぶらで帰すわけにはゆかない。これに手兵五千余をつけることにした。この手兵の総指揮官職に、狭井連檳榔という人物が任命された。狭井氏は大和の古い豪族だから、その兵は大和や河内を中心とした連中であったろう。彼らは豊璋を送るために先発した。

この時期に中大兄皇子がかついでいた天皇はすでに孝徳帝ではなかった。老いた女帝斉明帝であった。中大兄皇子はこの老女帝をかついで、はるか博多湾(那大津)まで進出してここを対唐戦争の大本営とした。

この博多湾の大本営で、すでに68歳だった斉明天皇が崩御された。661年。

暑い頃であった。中大兄皇子は麻服を浅黒く染めた喪服を着用し、即位の大礼はあげずして天皇になり、喪服のまま渡海のための軍務をとった。日本史上、国家の規模において行う最初の外征であり、もしこの大事業に失敗すれば日本は滅亡するかもしれないという危機感が天智天皇にあったということは、この天皇の性格からして察せられる。この天皇の一代は、国際情勢をもろに感じたためのノイローゼのような気味があった。

なるほど、物語のように自然に情景が目に浮かんでくる。

これはあくまで司馬さんの想像であり真偽のほどはわからないが、歴史がその時代に生きた人々の息遣いとともに生き生きと蘇ってくるのは、さすが作家の仕事であろう。

そうした戦乱を逃れて多くの人がまた海を渡って日本列島にやってきた。

現在「日本人」と称している私たちの中にも、百済や新羅から渡ってきた渡来人の子孫がたくさんいるのだろう。

日本人が誇る日本古来の文化の多くもこうした朝鮮半島からの渡来人の力によるところが大きいようだ。

百済が滅んで、その亡命者が大量に日本にきた。日本は国家事業としてこれを受け入れ、以後、彼らの力によって、飛鳥文化ができあがってゆく。

その後新羅は2世紀半ほど続いて滅ぶのだが、新羅が滅んだ頃には日本では平安期で、朝鮮半島文化についての関心を失っていたから、互いにほとんど無関心であった。

話の年代を遡らせる。新羅が百済を滅ぼした後のことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本の文化や生産に参加した。

日本にゆけば優遇される。

と、戦勝側の新羅人も考えたに違いないが、彼らを動かして海に浮かばしめた直接の動機は政情不安やら内乱だったに違いない。朝鮮は半島国家であるだけに常に政情不安がある。新羅は唐の助けを借りたために唐の属領に近い形になった。このための軋轢や政争というものが、日本への政治亡命者を間断なく出す羽目になったように思える。

日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたと言ってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。百済・新羅から渡来した人々は互いに敵国だったため、日本に来てからも仲が悪かったらしい。

渡来人たちの具体例も記されていた。

百済の再興を目指して日本に助けを求め「白村江の戦い」のきっかけを作った鬼室福信の一族、鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓について想いを巡らしている。

この墓は、滋賀県・近江の山村にあるという。

百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう。私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、鬼室集斯のような王族の場合は一族郎党を率いて朝廷を通してやってきたに違いない。

「蒲生」という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神崎郡のあたりは「蒲生野」と言われる原野であった。

蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)と同じ意味を表す異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったと思われる鴨族の居住地のことだったに違いない。

要するに鬼室集斯ら百済の亡命者がこの蒲生郡一帯に住んだ時にはすでにこの辺りには出雲系の鴨族がいて古神道を奉じ、弥生式農業を営んでいたに違いないが、『日本書紀』の記述の臭いから察しても広漠たる原野というに近く、人煙もまれであったように思われる。

鬼室集斯がこの国にやってきた時、天智朝廷は、大層な位階を与えているのである。小錦下とは、後の従五位下に相当する。

さらにこの天智天皇の時、まだ制度は粗笨ながら初めて大学寮が設けられており、百済から逃げてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。

この国はすでに日本という国号を号していたとはいえ、国家制度はまだ整わず、社会状態も文化の実情もまだ「倭」という部族連合国家的な姿から十分に抜け切っていなかった。しかしながら海を隔てて隣接する大陸にすでに大唐帝国という統一国家が出現し、白村江でその大帝国の外征軍と戦って惨敗した以上、その大帝国に対抗せねばならぬという外的事情と、その外的事情を内的事情に転化して古代的土着勢力を一掃して強力な統一国家を確立すべき必要に迫られていた。

それにはまず、官僚養成のために必要な大学を作らねばならないのである。そのための総長が必要であった。鬼室集斯がどれだけの学者であったかは不明だが、彼以外にはその適任者がなかったに相違なく、それによって日本最初の大学総長が百済人であったという歴史が必発するのである。

そう言われてみれば、「賀茂神社」など賀茂とか加茂という名称は全国各地でよく目にする。

同じく渡来人で「秦氏(はたうじ)」に関する記述も興味深い。

今の京都市の市内と郊外は、かつて山城国と呼ばれていた。平安遷都以前においてこの山城平野を開拓したのは朝鮮からの渡来者であった。彼らを秦氏と言い、太秦を首都としていた。その隆盛期に出た秦河勝は政治家としての聖徳太子の経済的なパトロンであり、太子のために太秦に広隆寺をたて、いわば別荘として提供した。その秦氏がその部族の工人に作らせたか、本国から持ってきたかしたものがこの日本で最も優れた彫塑とされている弥勒の半跏思惟像なのである。侵略というこの凶々しい関係の他にそういう関係も日本と朝鮮との間に濃厚にある。たとえばその秦氏は決して虐待されていない。上古ではこの氏族から大臣も出たし、その後も豪族として大いに栄え、その支族は山城と播磨に広がり、はるかに降って戦国の大名である土佐の長曾我部元親の長曾我部氏も本姓ハ秦氏ナリと自ら称しており、いずれにしても上代から中世にかけての日本の氏族の中で、この朝鮮系氏族は最も華やかな氏族の一つであった。

京都太秦の広隆寺にある弥勒菩薩は、「国宝第1号」となった日本を代表する仏像である。

『侵略というこの凶々しい関係の他にそういう関係も日本と朝鮮との間に濃厚にある』

日本人も韓国人も、明治以降の歴史ばかりに目を奪われず、太古からの長い長い関係性を幅広く知識として身に付けることによって、まったく違った日韓関係が生まれるきっかけになるのではないか・・・。

司馬遼太郎さんの「街道をゆく」を読みながら、そんなことを夢想した新年であった。

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