日中国交正常化

中公新書の「日中国交正常化・田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」を読んだ。

中央大学の服部龍二教授が情報公開された資料や関係者からの聞き取りをもとに国交正常化交渉の舞台裏を描いた本だ。日中国交正常化40周年を前にした2011年に出版された。

今でこそ当然と考える日中国交正常化だが、当時の世界情勢を考えるとかなりの賭けだったことがわかる。

中華人民共和国が成立してまだ20年あまり。台湾の蒋介石はまだ生きており、大陸反攻を唱えていた。

蒋介石は日本への戦時賠償を放棄した。戦勝国中華民国と敗戦国日本との間には1952年に日華平和条約が締結され、敗戦国から破棄を通告することは常識的にはありえないと考えられた。

自民党内には台湾派が多くいて、蒋介石の恩義と共産主義中国への反感から国交正常化に強く反対していた。青嵐会が生まれたのもこの時だ。

1964年フランスが最初に承認に踏み切ったのを皮切りにヨーロッパ諸国は徐々に中華人民共和国を承認し始めていたが、アメリカはニクソン訪中後も国家として承認していなかった。

そして何より、戦争中日本軍によって肉親を殺され多大な被害を被った中国国民の間で日本への激しい憎しみが生々しく残っていた。

こうした逆風の中で日中間の扉を開いたのは周恩来だ。

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当時中国にとってソ連との対立が深刻化しており、日米と接近することでソ連と対抗することが最優先の戦略だった。1971年、ニクソンの電撃的訪中発表、中華人民共和国の国連加盟という大きな変化が起き、日本政府も対中関係の見直しを秘密裏に検討し始める。

大平が主導し、田中は総裁選で福田に勝つために日中国交正常化をカードに使った。そして72年7月田中内閣が誕生。大平を外相にすえ、9月25日田中訪中が実現する。

一番気を使ったのは日米関係に影響を与えないことと台湾への配慮だった。訪中前にハワイでニクソンと首脳会議を開き事前にアメリカに日本側の考えを説明した。台湾には椎名悦三郎を副総理にして送り込んだ。蒋介石への田中親書は安岡正篤によって格調高い漢文調に整えられた。これは田中の指示だった。

党内反対派の突き上げは大平が粘り強く対応した。田中と大平という全く違うリーダーシップがうまくかみ合い、難題を一つ一つクリアしていく。二人は官僚をうまく使った。外務省のチャイナスクールをあえて使わず、中国課長の橋本を中心に、高島条約局長、栗山条約課長らごく少数で事に当たった。橋本の上司は飛ばし大臣直々の人選で進めた。

そして1972年9月29日、田中と周が日中共同声明に調印した。

合意を急いだ結果、今日の日中間には様々な問題が残った。しかし、この時このメンバーで合意していなければどうなっていたのか。その後の日中のリーダーたちが国内向け発言を繰り返すのを見るにつけ、周恩来と田中角栄でなければできなかった難題だったといえるかもしれない。

個人的には日本は戦後賠償問題から逃げるべきではなかったと考える。日清戦争では日本は中国に賠償を求めたからだ。

尖閣の問題もその一連の過程で処理されるべきだった。しかし、それを議論していたら双方の国内から異論が吹き出し国交樹立はいつまでもならなかったかもしれない。日本と中国の関係は他の欧米諸国とは明らかに違う。北方領土よりも難しくはるかに重要な問題だったのだ。その意味で、素直に田中、大平の決断を評価したいと思った。

本の中にこんな件がある。

「リーダーシップの要素とは、企画構想力、実行力、決断力、包容力であり、そのすべてを田中は備えていた」

これは通産相秘書官、首相秘書官であり、後年、通産次官になる小長啓一の分析だと言う。

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