大正天皇

側室の子

大正天皇は、何事につけ父親である明治天皇とは違っていた。

大正天皇は、側室が産んだ子供である。明治天皇は皇后との間に子供ができず、側室が産んだ子供も幼いうちに死んだ。大正天皇は、女官だった柳原愛子(なるこ)との間に生まれた第三皇子だったが、生きて成人した最初の子供だった。ただ皇室の慣例により、生母に育てられることはなく、生まれてすぐに里子に出された。

そうした自身の生い立ちが影響したのか、大正天皇は家族の団欒を大切にし、一夫一婦制を貫いた。大正天皇の家庭的なスタイルは一般国民にも広がり、この時代に日本でも家族団欒で食事をとるスタイルが定着した。

写真を嫌い御真影でしか知られなかった明治天皇とは違い、大正天皇は写真にもおおらかで、新聞にも天皇の写真が掲載されるようになる。

不自由な天皇

しかし、生き生きとした皇太子時代は明治天皇の崩御とともに終わる。

1912年7月29日、明治天皇が亡くなると、皇太子時代の自由な行動は許されなくなり、何事も簡略にという大正天皇の意向は無視されることが多かった。

1915年に行われた即位の礼では、儀礼の簡素化を希望した大正天皇の意向は受け入れられず、20日間にわたる行事が京都を中心に行われた。

大正天皇は、原敬や大隈重信を信頼し彼らと話をすることを好んだが、山縣有朋のことは激しく嫌った。明治天皇とは違って良いとする大隈に対し、山縣は明治天皇を模範として大正天皇に苦言を呈していたからだ。

1916年には信頼する大隈が政権を去り、苦手な軍人や官僚ばかりの寺内内閣が誕生。18年には米騒動が全国に波及した。この頃から、再び病気がちになる。

19年5月、東京奠都50年を祝う式典に、大正天皇と貞明皇后、皇太子(のちの昭和天皇)が群衆の前に姿を見せたが、三人が揃ってのお出ましはこれが最初で最後だった。その後、大正天皇の病気は急速に悪化する。

新しいナショナリズム

天皇の不在が長引く中で、政府は天皇の病状公表と皇太子の摂政就任に向けて少しずつ舵を切る。皇太子のヨーロッパ訪問は当時最先端のメディアだった活動写真に収められ、全国で上映された。病気の天皇の影は薄くなり、天皇は脳を患っているという風説が広まっていく一方、若き皇太子が国民の関心を集める。

ヨーロッパ訪問から帰国した皇太子は、東京と京都で開かれた市民奉祝会で国民の前に姿を現して「令旨」を読み上げ、会場に集まった人々は万歳三唱を唱えた。それは新しい皇室の形だったという。

原氏の著書では、ここで「新しいナショナリズムの誕生」という項目が登場する。

『 21年9月初旬に東京と京都で現れたのは、のちの昭和天皇と国民が相互に顔を合わせながら、一体となる光景であった。

大正天皇の病気が公表され、天皇は脳を患っているという風説が広がった以上、もはや天皇が、かつての明治天皇のように、国民の視線から遮断されたところで、「神」として崇拝されることはありえなかった。政府の戦略は、裕仁皇太子という新しい皇室シンボルを、観念的で見えない「現人神」ではなく、逆にその表情や肉声までが万民のもとにさらされる、見える「人間」にすることにあった。ただしそれは嘉仁皇太子(大正天皇)のように、人々に向かって思ったことをそのまま口に出したり、自らの感情を剥き出しにすることを意味するのではなく、人々の前で政治的権威を誇示することを通して、下からの積極的な忠誠の様式を確立させることに重点が置かれていた。

このような天皇像の転換は、思想史の地殻変動を呼び起こすことになる。より具体的に言えば、天皇の病気を引き金とする上からの新しい戦略が、それに呼応する下からの新しいナショナリズム、いわゆる超国家主義を生み出したのである。皇太子の一連の行事がようやく終わった9月28日、神州義団団長の朝日平吾が、遺書「死ノ叫声」を残し、安田財閥当主の安田善次郎を「君側ノ奸」の一人と見なして私邸で暗殺した事件こそは、その先駆けをなすものであったと言ってよい。』

昭和初期に頻発するテロや事件を起こした青年たちは、昭和天皇を「変革のシンボル」と見なし、天皇と国民の間を遮断する政治家や経済人を標的とする傾向があった。

10月4日、天皇の4回目の病状発表が行われ、初めて「脳膜炎様の疾患」に言及、11月25日、皇太子が摂政に就任した。

皇太子の摂政就任に先立って、牧野伸顕と松方正義が大正天皇と会い、報告したとされる。ただ原氏は『天皇はもはや言葉の自由がきかない状況の中で、精一杯の抵抗の姿勢を見せていた』のではないかと考えている。皇居の中で何が起きたのか、真実を知ることは容易ではないのだ。

摂政に就任した皇太子は全国を回った。

『訪問した地方の学生生徒をはじめ、青年団、在郷軍人らが万単位で一つの場所に集まり、生身の姿をさらした皇室シンボルの直接的な視線を浴びながら、日の丸の旗を振ったり、最敬礼して君が代を斉唱し、万歳を叫ぶという、大正末期から昭和初期にかけて日常化する光景が、この時初めて大々的に現れたからである。確かに嘉仁皇太子の巡啓の際にも、連合運動会などで散発的に君が代が斉唱されることはあった。だが、日の丸や君が代を象徴として、皇太子や天皇と人々の一体化を図る儀礼がこれほど大規模に行われたことはいまだかつてなかった。』

そして、皇太子を活動写真が常に追い、その姿と熱狂的に迎える市民の様子は瞬く間に全国に拡散されていった。

『巡啓や行啓の途上、植民地を含む各地できわめて統制のとれた旗行列や分列式が加わることで、政治空間に占める儀礼的性格が一層強まってゆく。』

『大正末期になると、全国各地で繰り広げられる国家儀礼を通して、「特種の国体観」「万邦無比の我が国体」という思想が、すでに視覚的に確立していた。「明治」や「大正」とは異なる、「昭和」の光景がここにある。それはまさに、大正天皇が嫌がっていた規律と秩序を重んじる政治空間が、全国レベルで成立したことを意味していた。』

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