石ノ森章太郎さんの「マンガ日本の歴史」の続きを読んだ。
まずは6巻から・・・

6巻「律令国家の建設とあらがう神祇」。
百済救援のため朝鮮半島に大軍を派遣し、唐と新羅の連合軍と戦った「白村江の戦い」から始まる。
『この巻で扱う西暦660年から720年代までの時代は、国際的な緊張を最大限に利用して、社会と民衆との激しい葛藤を乗り切り、律令国家が建設されてゆく過程である。』
序 章 白村江の戦い
第1章 天智天皇の急進改革
第2章 壬申の大乱
第3章 律令国家への道
第4章 奈良時代始まる

島国日本は長く外国との関係が疎遠だった印象があるが、大昔の人も国際関係に神経を使い、その危機感から国内情勢も変化していたことを再認識した。当時はどういう状況だったのか?
『百済の滅亡は、百済を6世紀以来政治的に抑え込んで文物摂取のルートとしてきた大和王権にとって拱手できない問題であり、次に来るべきは唐・新羅の日本侵攻と実感せざるをえなかったからである。それにもかかわらず、百済・倭連合軍は663年、白村江の戦いで大敗し、百済は最終的に滅亡した。隋建国に始まった東アジアの激動は、ついに唐帝国の巨大な軍事力に日本の王権が直接脅かされる局面にまで到達したのである。
ここに至って朝廷は最大の国際的危機に立たされるとともに、それを大化改新以後の改革の梃として最大限に活用する。孝徳朝の2度の派遣の上、この時代、659年、665年、669年と立て続けに遣唐使の派遣を行ったのは、何よりも唐の日本侵略を回避するための必死の外交であったが、同時に唐の法典・国制を具体的に学び取り日本の国家・社会の改造に活かすためであった。』
このあたりの歴史は、昔学校で習った記憶がかすかにあるが、その後気にしたことがなかった。しかし20世紀の歴史とよく似た国際情勢にあったことを初めて理解した。
当時、政権の実験を握っていたのは大化の改新の主役、中大兄皇子、のちの天智天皇である。この危機を逆手にとって、急進的な国内改革に乗り出す。それまでの呪術的な日本社会が法律に基づく律令国家へと大きく変容する背景には、他国に侵略されるかもしれないという強烈な危機意識があったのだ。
いつの時代も日本人は他国から侵略されることを恐る余り、身を守る手段として朝鮮半島に兵を送る傾向があったようだ。白村江の戦いの際、出撃拠点となったのは北九州の長津宮とされ、中大兄皇子もそこで陣頭指揮をとったという。
そして天皇の絶対的権威を固めるため、「古事記」「日本書紀」が編纂されたのもこの時代ということになる。
なかなか興味深い巻である。

7巻は「大仏開眼から平安遷都へ」。
奈良時代の8世紀20年代から平安時代の始まる9世紀冒頭までの約80年の歴史である。
序 章 大仏開眼への道
第1章 激動の天平時代
第2章 女帝の悲劇
第3章 桓武新王朝・平安遷都へ

『荘厳な宮殿や邸宅に住み、綾羅錦繍で身を装い、煌めく家具調度に贅を凝らす都の天皇や貴族たち。弥生・古墳時代とさほど変わらぬ竪穴・掘立柱住居に住み、粗末な麻の衣を着て、素焼きの土器で暮らし続ける地方の民衆たち。平城京跡や正倉院宝物を各地の集落遺跡と重ね合わせるとき、中央と地方の格差があまりに大きくなってしまったことに驚かされる。』
このような中央集権国家となった日本は、私から見ると急速に魅力がなくなっていく。天皇を中心とした権力闘争ばかりが目につき、この時代の日本史からは民衆の姿が見えてこない。
そんな中で、東大寺の大仏建立のための資金集めに、聖武天皇が当時民衆に絶大な人気のあった行基を利用した話は興味深かった。行基を調べると、当時の民衆についてもう少し理解できるかもしれない。

8巻は「密教にすがる神祇と怨霊の祟り」。
平安時代初期、9世紀冒頭から9世紀末までの約80〜90年の時代を扱う。
序 章 密教伝承・最澄と空海
第1章 擡頭する藤原北家
第2章 徘徊する怨霊たち
第3章 摂関政治への展望
第4章 物語世界の創造

平安時代になりますます日本史はつまらなくなる。平和な時代なのだろうが、描かれるのが宮廷周りのどうでもいい話ばかりになる。天皇に娘を嫁がせそれによって権力を握る、そんな話に興味はない。怨霊話も平和の象徴。人間、大きな問題が降りかからないと心の病にかかってしまうものらしい。
そんな貴族たちの心の病を癒すため密教が急速に力をつける。
でも平和な時代には文化が育つ。かな文字が生まれ、「竹取物語」などの物語が生まれた。そうした意味のある話をもっと歴史として読んでみたいものだ。

9巻「延喜の治と菅原道真の怨霊」。
9世紀80〜90年代から10世紀30年代頃までの40〜50年間、いわゆる王朝国家幕開きの時代を扱う。
序 章 菅原道真の登場
第1章 藤原氏、最後の他氏排斥
第2章 王朝国家の幕開き
第3章 延喜の治と道真の怨霊
付 章 怨霊から天神へ

この巻の主役は菅原道真。関白藤原基経の死後、宇多天皇の信頼を得て急速に力をつけた菅原道真だったが、藤原北家など他の公卿のボイコットもあり失脚する。その道真の恨みが怨霊となって都で様々な不幸をもたらすといったお話。有力者の子供が夭逝したり、天変地異が吹き荒れたり。でもまあ基本的には戦さの少ない平和な時代だったのだろう。
そうした中で注目しないといけないのは、土地所有の変化だ。
『8世紀末から9世紀に入ると、共同体所有を打ち破る私的・個別的土地所有の動きが芽生えてきた。
醍醐天皇は902年の庄田宅禁令の中で、私的第土地領有の可否を国司の判断に委ねる方向を示したことは、律令国家の根幹をなす中央集権的土地管理体制を放棄する第一歩が踏み出されたことを意味した。』
ちなみに「王朝国家」という言葉は学校で習った記憶がないので調べてみた。ウィキペディアによるとこうだ。
『王朝国家(おうちょうこっか)は、日本が律令国家体制から中世国家体制へ移行する過渡期の国家体制を表す歴史概念。王朝国家体制とも。10世紀初頭に成立し、11世紀中期ないし12世紀後期までの期間に存続したとされる。 王朝の語は、戦前期より、鎌倉時代以降を武家時代と称したのに対し奈良時代・平安時代を王朝時代と称したことに由来する。戦後、日本史研究の進展に伴い、律令支配を原則としていた奈良期-平安前期と、律令を必ずしも支配原則としなくなった平安中期・後期とを別個の時代ととらえる考えが主流を占めていった。それに伴い、前者の時代区分を律令時代、前者の国家体制を律令国家と称したのに対し、王朝時代は後者の時代区分として認識され、同様に後者の国家体制を指して王朝国家という語が使用されるようになった。』
日本史もいろいろ変化しているのだ。
それに関連してもう一つ気になったのは、「延喜の治」という呼称だ。「延喜・天歴の治」という天皇親政の時代を神聖なものと考える歴史観だが、ウィキペディアの記述は興味深い。
『両治世は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代として後世の人々に観念された。両治世を聖代視する考えは、早くも10世紀後半には現れており、11世紀前葉~中葉ごろの貴族社会に広く浸透した。当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まったのである。
実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着した。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開した。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれた。
第二次世界大戦後に研究が進むと、潜在的に不満を抱いていた中下流の文人貴族層による過大な評価であることが明らかとなり、またその時期の実際の政策も宇多天皇期及びその後の宇多上皇による事実上の院政下で行われたものの延長でしかないことが明らかになった。また、摂関政治の前提である摂政・関白自体が延喜・天暦期には非常設の臨時の職に過ぎなかったことも明らかにされた。これによって、延喜・天暦期を特別に重視することなく、9世紀から11世紀までの期間を律令国家期から王朝国家期への移行期としてとらえる見解が通説となっている。』
歴史の多くは後付けである。後世の人がその時々の都合で歴史を解釈する。
昭和40年代の日本史の授業はまだ多分に天皇中心で、後醍醐天皇や楠木正成を英雄視するものだった気がする。戦前の教育の匂いがまだ教育現場に残っていたのだろう。
今、学校ではどんな歴史が教えられているのだろう?
歴史というのは宮中だけで進むものではない。もっとバランスのとれた客観的な日本史研究がさらに進むこと、将来また権力者によって歴史が改ざんされないことを願いたいものだ。
今回読んだ時代では、天皇の譲位は日常茶飯、女帝も頻繁に登場する。皇位継承もかなりおおらかな印象を受ける。天皇を利用して権力争いが繰り返された歴史を見ると、戦後の「象徴天皇制」というのはいいアイデアだと思えてくる。
天皇が絶対的な世の中では、必ず天皇を利用して議論を封殺する輩が登場する。それがこの時代の教訓のような気がした。
<参考>
太郎 でリブログ.