この国のかたち④

司馬遼太郎著「この国のかたち」第一巻を通勤電車の中で少しずつ読んでいる。随所に気になる話が出てくるのはさすがである。

「若衆と械闘」という項で、中国人と日本人を比較した記述がある。こんな書き出しだ。

『となりに、中国がある。 顔かたちが日本人とまったくおなじというこの隣人に、私などは尽きせぬ興味がある。 中国人はとくに個人がいい。 「本当は、ボクは日本人より中国人のほうが好きなんだ」と、こっそり私の家内の耳元でささやいた老アメリカ人がいる。 かれは若いころ日本語を学び、その後四十年以上、ジャーナリストとして日本と関係をもってきた。かれの理由は単純明快だった。 「中国人はリラックスしているからね。」 私は横できいていて、久しぶりで大笑いした。たしかに日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。 鎌倉武士が自分の一所(所領)に命を懸けたように、いまもたとえば一百貨店の社員は他の百貨店に対し、常時戦闘的な緊張を感じている。自分の店内でも、自分の小さな売場を公として、他の売場に対して競争をしている。 「日本人はいつも臨戦態勢でいる」と、私の友人の中国人がいったことがある。 そこえゆくと、中国に住む大多数のひとびとは、歯痒いほどゆったりしている。そのときどきの政情に多少の懸念を感ずることがあるにせよ、ほぼ天地とともに呼吸し、食ヲ以テ天トナスーーー食えたらいいじゃないかーーーという古来の風を、革命後ものこしている」

長々と引用したが、私には新鮮な「へえ」があった。正直、中国には二度ほど行ったが、中国人と深くつきあったことがない。中国人がそんなにリラックスしているというイメージを持ったことがなかったのだ。中国人観光客は昔の日本人観光客のように団体で行動し、大声でしゃべり、周囲の顰蹙をかっている。いつもせかせかして争っている。そんなイメージを持っていたのだ。

一方、日本人に関する記述は非常によくわかる。確かに常に臨戦態勢である。なぜ臨戦態勢なのか、自分でも意識していないほどに、日本人にとって常に目標を設定し、それに向けて努力することは当たり前のことと考えられている。私の会社でもそうだ。売り上げや利益目標は常に前年度よりプラスに設定される。他社との競争に勝ち抜いてシェアを伸ばす。何のためにそうするのかと言うほどの意識もないまま、長年そうするものだと皆が思っている。不思議と言えば不思議だ。

きのう目を通した業界紙に、テレビ業界の社長さんたちの年頭あいさつが載っていた。内容は社長さんによって様々ではあるが、突き詰めるといかにして時代の変化に対応しシェアを伸ばし、生き残るかということがテーマだ。そのための方策を社員たちに求めている。つまり常に臨戦態勢を求めているのだ。これではなかなかリラックスなどできるものではない。シェアでいえば、所詮はゼロサムゲームなのだ。どこかが伸びれば、どこかが落ち込む。各社それなりに優秀な人たちが、日夜必死になってゼロサムゲームを戦っている。少しでも手を抜くと、たちまち蹴落とされる恐怖がある。やはりリラックスは難しいのだ。

だから、中国人がリラックスしている様子に興味が湧いた。本当に彼らはリラックスしているのか。テレビなどで伝えられる中国のニュースはとてもリラックスとはほど遠い話ばかりだ。いつか自分の目で確かめに行ってみたいと思う。

話変わって、「隊」という漢字についても記述も興味深い。

幕末の長州に奇兵隊以下、緒隊とよばれる庶民による志願軍が生まれたが、当時「隊」という漢字はあまり使われていなかったのだという。

『当時の長州人は、多くの漢字の中から使用頻度のすくない隊というめずらしい文字をさがしてきて、このあたらしい仲間組織の概念名称とした。隊が、のちに中国にも逆輸入され、さらには韓国でも使われていることを思うと、当時の長州状況と思いあわせてささやかな感慨がある」

戦国以来の軍制では、軍の組織単位は「組」だった。「先手組」「鉄砲組」「新撰組」。長州藩でも正規軍は組で呼ばれた。

「藩」という言葉も江戸中期には使われていなかったらしい。これも意外だ。「藩」の呼び名が定着するのは幕末ではないかという。そして「藩」という言葉の多用を通じて、「公」の意識が大きく成長し、やがて明治維新につながると司馬さんは考えている。

またまた話変わって、土佐の話。「倜儻不羈(てきとうふき)」という難しい言葉が出てくる。土佐は「倜儻不羈の一手販売のような土地だった。元来、土佐人には風土的精神として拘束を好まないところがあった」と断言する。

「倜儻不羈」とは何か?

『倜は“すぐれていて、拘束されないさま”で、儻は“志が大きくてぬきんでている”こと、羈は“馬を制御するたづな”、不羈は“拘束されない”ということ。漢語としては紀元前から存在した」と説明してある。「江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす」のだそうだ。

拘束されず、大きな志をもつこと。私の目指していることに近いと思った。覚えておきたい言葉に出会った。

この土佐の対極にある藩として肥前佐賀藩の話が出てくる。「薩長土肥」の肥である。

この藩では、「全藩の子弟を組織して一種類の学制の中につめこみ、定期的に試験を施して、落第すれば先祖代々の家禄まで削るという、恐怖をもって一藩をかりたてた。しかも思想は朱子学というドグマで統一されていた」という。その結果、「多くの秀才を出すことになったが、倜儻不羈の気象を亡失させた、と大隈は嘆くのである。かれが後年、早稲田の地に一私学をおこした動機は、この批判のなかにもある」と、肥前出身の大隈重信がガリ勉主義を批判したことを書いている。

そして「江戸期の多様さ」という項で司馬さんは、現代社会と江戸期の社会を比較している。

「私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある」と書き出す。しかし、懸念も示している。

『今の社会の特性を列挙すると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性。また文化の均一性。さらにはひとびとが共有する価値意識の単純化。たとえば、国をあげて受験に熱中するという単純化へのおろかしさ。価値の多様じょうきょうこそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走り続けているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか』

そういう不安から、司馬さんは江戸期の多様性に言及する。

「徳川家は大名同盟の盟主にすぎず、その行政機関である幕府機構は自領の行政をするだけにすぎなかった」「幕府の司法権は各藩の藩内には及ばなかった。諸大名の屋敷地に罪人が逃げ込んだ場合も幕府の司法権は及ばず、また各藩での家中の不始末についても、幕府はじかに司法権を執行するわけにはいかなかった」

そして教育・学問の分野でも藩によって違った。

『各藩は江戸中期ごろから競って藩校をもち、その充実をはかったが、将軍の家である徳川家の場合、それに相当する旗本学校を瓦解までついに持たずじまいだった。 要するに江戸の旗本・御家人の子弟は、勝海舟の父小吉がそうだったようにぶらぶらと無学のまま生涯を送ることもできた。 江戸の直参たちは、のんきなものであった』

一方、薩摩藩は「むしろ意識的に学問を軽んじた」という。

『暗黙のうちながら、藩士の教育など初等程度でよいとされた。あまり学問をすると理屈っぽくなり、峻烈果敢な士風が鈍磨するとさえおもわれていたらしい。 この藩は他藩にない青少年教育の制度をもっていた。郷中とよばれるもので、台湾の少数民族から日本の西日本一帯をおおっていた南方古俗ともいうべき若衆宿を、士族教育の場に吸い上げて制度化していたのである」

居住区ごとに郷中があり、その長である郷中頭は、かれがあずかっている少年の父親がいかに身分が高かろうとも教育のことで話し合う場合は、同格とされた。

「郷中頭は暗黙の互選によって人望のある者がえらばれる。つまり、人望主義がとられた。郷中頭は18、19歳で引退し、オトナ社会に入るが、若い頃の西郷隆盛は魅力的な郷中頭で、乞われるままに24歳までつとめたそのころの若者に、大久保利通、大山巌、東郷平八郎などがいた。 要するに郷中には師匠がいるわけでなく、若者が若者を統御し、訓練したのである」

多様性は大事だ。インターネット時代になり、ますます多様性が失われる気もする。それぞれ気持ちよく生きられる世の中がいいのだが・・・。

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