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<きちたび>3泊4日ウラジオストクの旅⑤ シベリア征服!ロシアはいかにして世界最大の国家となったのか?

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私たちが生まれた時には、ロシア(ソ連)はすでに日本の隣国だった。

しかし、それはわずか150年ほど前からの話に過ぎない。それ以前の時代、現在のロシア極東地方には誰が住んでいたのか?

そんな素朴が質問に答えるだけの知識が旅行前、私にはなかった。一体どれだけの日本人が正確に答えられるだろうか?

アルセーニエフ沿海州博物館

ウラジオストクのど真ん中に建つ「アルセーニエフ記念沿海州総合博物館」。

1917年日本軍がシベリア出兵した頃には、横浜正金銀行の支店として使用されていた建物だ。ここが今、沿海州地方最大の歴史博物館となっている。

ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古・民族学研究所編「ロシア沿海地方の歴史」という本を参考にしながら、知られざるロシア極東地方の歴史を簡単に紹介していこうと思う。

博物館の1階には、見慣れぬ地図が貼ってあった。

北朝鮮、満州、ロシア極東にまたがる地域を支配していた黄色く塗られた国は何か?

この国は高校の世界史でもかすかに登場した記憶があるが、「渤海国」という。698年から926年までこの地に誕生したツングース・満州民族による最初の国家である。

渤海国

もともとこの地には、ツングース・満州系に属する靺鞨(まっかつ)と中国で呼ばれた民族が暮らしていた。

『靺鞨の経済は複合的であった。彼らは、土地の鋤き起こしにウマを利用しながら農耕に従事し、ブタを飼育していた。タイガでの狩猟と漁労もまた彼らの経済の重要な部門であった。靺鞨は住居のために半地下小屋を建て、入り口は、年代記の記述によると、上から入るように作られた。』

この地方の情勢が大きく変わるのは7世紀、中国の唐が積極的な侵略戦争を開始し、ついに朝鮮の高句麗を滅ぼしたことによる。高句麗と同盟関係にあった靺鞨は強制的に移住させられその勢力を弱めたが、移住先から先祖の地に逃れた一部の靺鞨と高句麗人が中核となり渤海国が誕生した。創始者は靺鞨のリーダー大祚栄である。

渤海国は、唐や新羅への対抗上、日本との交流を図った。日本に派遣された渤海使は200年の間に34回、反対に日本から渤海国に派遣された遣渤海使は100年間で14回とこの時代としては結構な交流があった。

230年近く続いた渤海国を滅ぼしたのは遊牧民族・契丹(きったん)の帝国・遼だった。

約3分の2の渤海住民は契丹帝国領内に強制的に移住させられ、約5分の1の住民は朝鮮に逃亡、渤海国の領土は著しく寂れた。

この過程で、渤海国の街は破壊され尽くし、遺跡らしい遺跡はほとんど残っていない。だから渤海国にはまだ解明されていない謎が多く、今発掘調査が進められているという。

女真族の帝国・金

そして時代を経て、その寂れた極東地方で勢力を伸ばしたのが女真族の帝国・金だった。

女真族は靺鞨の末裔であり、後世の満州民族である。女真の指導者・阿骨打(あぐだ)は契丹と戦い、1115年、女真の黄金の帝国・金の建国を宣言した。そして10年後、金は武力により契丹を滅ぼしその領土を奪った。

金はその関心を中国に向けた。長年の戦争の末、中国北部を支配下に置き、女真人の多くは北中国に移り住んだ。都も北京に移され、極東地方は金帝国の辺境となった。

女真の帝国・金は1115年から1234年まで続いた。

モンゴルと満州人

その金を滅ぼしたのは、あのモンゴル帝国。きっかけは、女真の皇帝がチンギス=ハーンに対して朝貢を要求したことだった。これに対する回答として、翌年春、モンゴルの騎兵が黄金の帝国女真の国境に侵入した。その後、モンゴル人の攻撃は続き、街を廃墟に変え、ほとんどすべての住民は皆殺しにされた。

ユーラシア大陸の東で女真を滅ぼしたモンゴル帝国は、大陸の西ではロシア民族の祖国である「ルーシ」を滅亡させた。しかし史上最大の領土を支配したモンゴル人の帝国は、14世紀に入ると解体へと向かう。

そして極東では、新たに南女真族(満州人)の一部が強大となった。1616年に後金国を樹立、17世紀後半には中国全土を制服した。清の誕生である。しかし極東地方では・・・

『 略奪と破壊をもたらした満州軍の遠征によって、16世紀末から17世紀初頭にかけて、地元住民の大部分が満州に連れ去られた。経済と文化は破壊された。残った住民たちは、満州人の襲撃から逃れて森へ去り、そこで狩猟と漁労のみに従事していた。ここで最初のロシアの探検隊たちが出会ったのは、このような荒廃であった。』

ロシア人のシベリア征服

ここでようやく、このブログの本題であるロシア人が登場する。

極東から一旦目を転じて、モンゴル帝国に滅ぼされた後のロシアの動きを見ておく。

当時ルーシの中核をなしていたのはキエフを都とするキエフ大公国だったが、13世紀初頭モンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った数多くいるルーシ諸公の一人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。

そしてこのモスクワ大公国がロシア帝国の前身となる。

有名なイヴァン雷帝の時代、ロシア人によるシベリア征服事業が始まる。その先鞭をつけたのが、ロシア民話の英雄イェルマークによる探検だった。コサックの頭領だったイェルマークは1577年ストロガノフ家に任命され西シベリアにあったシビル・ハン国の攻撃を開始した。これにイヴァン雷帝がお墨付きを与える形でロシアの東方への拡張が始まる。

そして1639年、コサックの探検家モスクヴィチンがロシア人として初めてオホーツク海まで到達する。

『 約60年かかったロシア人のウラルから太平洋への進出は、主に平和的な性格を持っていて、地域のために新しい社会・経済的な関係の拡大をもたらした。地元の住民はヤサーク(人頭税)を課税され、それはクロテンの毛皮で、のちにはリスの毛皮で支払われた。 モスクワ政府は、毛皮が国庫にもたらす利益に大いに関心を抱かせられた。毛皮は最も重要な商品で、国はこの毛皮と交換に、自国の貨幣を鋳造するために必要な銀を手に入れていた。』

つまり・・・

『 広大なシベリアと極東の開拓では、軍務に服する人たちや、獣皮を求める狩猟企業主たちが指導的な役割を果たしていた』のだ。

ロシア人が出会った人々

東へ東へ進出するロシア人たちが遭遇したのは、どんな人たちだったのか?

博物館にはこんな写真が展示されていた。

そして、こんなチャーミングな衣装も・・・

それにしても、この衣装、とても優しい絵だ。きっと平和に暮らしていたんだろうと想像できる。

彼らは、激しく抵抗することもなく、ロシアの侵略を受け入れた。

こうしてシベリア、極東へのロシア人の移住が始まる。各地に要塞が築かれた。

その結果、それまでお互いのことをほとんど知らなかったロシアと中国の国境が接近した。

『 ロシア人のアムールへの登場は、満州人による中国侵略と1644年の満州王朝清の政権樹立の時期に一致した。初めのうちは、満州人の主要な関心と苦労は、激戦が展開された中国国内の地での、反満レジスタンスの鎮圧に向けられていた。 清国人たちは、1678年になってようやく、自国の北東の領域に、柳柵と呼ばれた国境の防衛施設の境界線を設け、行政上の形式を整え始めたばかりであった。』

つまり、ロシアは先住民族たちが中国に出払った留守に極東地方に進出してきたことになる。

ロシア人 vs 満州人

ロシア人と満州人が衝突するのは時間の問題だった。

この絵は、1680年代、ロシア人が築いたアルバジン要塞を満州軍が包囲攻撃している図である。そして1686年、ロシアと清国の間にネルチンスク条約が結ばれた。ロシア人は極東地方から退去したが、中国との間に国境線を取り決め、交易が可能となった。

この時代、南を塞がれたロシア人の探検隊は北方を目指し、カムチャッカからアラスカへとその領土を広げていった。ベーリングを隊長とする探検隊がアジアとアメリカがつながっていないことを確認したのも18世紀初めのこの時代だった。

19世紀に入ると、イギリスやアメリカなど列強のアジアでの活動が活発化する。これに対応してロシアは、1855年には日本との通商条約を締結したのに続き、中国との間でも1858年にアイグン条約、天津条約を、1860年には北京条約を結んだ。これによりロシアは晴れて太平洋への出口となる極東地方を手に入れたのだ。

巨大国家は過去の遺物

このブログの冒頭で書いたように、ロシアが現在の広大な国土を獲得し日本の隣国となったのは1860年。今からわずか158年前のことである。

当時は欧米列強による植民地獲得競争が激化していた帝国主義全盛期でもあった。多くの国が船によって本国から遠く離れた異国を征服していったのに対し、ロシアだけは本国から東へ東へと地続きに領土を拡大していった。第二次大戦後、多くの植民地は独立し、かつての列強はその支配地域を大幅に縮小する中で、唯一ロシアだけは帝国主義時代に征服したシベリアの大地をいまだに維持し、世界最大の国土を持つ国となったわけだ。

しかし、国土が広くなるということはそれだけ多くの問題を抱えることにもなる。

その後ロシアは、西ではドイツやスウェーデンと戦い、南ではトルコと戦い、そして東では日本と戦うことになる。

常に戦争を抱えるロシアは軍事優先の国造りを運命付けられてたとも言え、それが民衆の不満を呼び起こし、世界初の社会主義革命へとつながっていくのである。

今もロシアはその国土を守るため、チェチェンを弾圧し、ウクライナに干渉している。北方領土についても譲る気はなさそうだ。

IT化され戦争が少なくなった現代社会では、シンガポールやスイスのような小国こそが高い生活水準を国民に約束できる。反対に巨大国家を維持するためのコストを賄うのはロシア国民にとっても大きな負担になるだろう。

今は原油で稼いで何とかしのいでいるが、近い将来、ロシアは今の国土を維持できない、もしくは維持することを国民が望まない時代が来るのではないかと私は予想している。

大きいことはいいことだというのは、戦争を前提とした世界での話だ。

ロシアの指導者が広大な大地を守るため、戦争を前提とした世界に時計の針を戻そうとする誘惑に負けないよう祈りたいと思う。

<関連リンク>

3泊4日ウラジオストクの旅

①出入国カードの記入も必要なし!ロシアの旅はすごく便利になっていた

②ロシア観光には短期でもビザが必要!でも意外に簡単に取得できる

③意外に美味しかったロシア料理!私が食べたディナー全品を紹介する

④旧式兵器を観光資源にする軍事都市ウラジオのあっけらかんとした現在

⑤シベリア制服!ロシアはいかにして世界最大の国家となったのか?

⑥ホテル・ビーチ・遊覧船・そして・・・!写真で綴るロシア極東の街歩き

⑦日露戦争・シベリア出兵・そして抑留!日露は不幸な歴史を乗り越えられるか?

<関連情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。



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