渋谷QFRONT

渋谷スクランブル交差点に面する「Q FRONT」は、大型サイネージの目立つ渋谷のランドマークだ。今は東急グループが管理するこのビルにまつわる黒い歴史が今読んでいる佐野眞一著「阿片王 満州の夜と霧」に出ていて興味を惹かれた。

どうせすぐ忘れてしまうので、その部分を書き写させていただこうと思う。文章の中に出てくる「里見」というのが、佐野氏が「阿片王」と呼びこの本で描こうとしている主人公・里見甫氏のことである。

 

『 日本商事は、渋谷駅のハチ公前、いまQフロントという複合ビルがある峰岸ビル内にあった。

伊達が里見に会うため出入りしていたのも、キャバレー「チャイナタウン」の控室に隣接するその日本商事のオフィスだった。

里見の戦後の活動拠点が渋谷にあった日本商事の事務所だったという話から考えて、同社は戦後設立された会社だとばかり思っていた。だが、閉鎖された法人登記をとってみると、同社が設立されたのは、昭和12(1937)年2月15日と書かれていた。昭和12年といえば、里見が本格的に阿片販売に乗り出す年である。もうひとつ目を引いたのは、日本商事の設立時の目的欄に、塩、葉煙草、医療品などの輸出入と書かれていたことだった。

里見が上海でつくった阿片販売組織の宏済善堂が現地販売網の相手として選んだのは、中国の秘密結社・青幇の頭目として知られる盛宣懐の甥の盛文頤だった。その盛文頤の公的な肩書きは祐華塩公司社長である。阿片と塩が苦力集めに不可欠な物資だったということは、前に述べた。

これらの事実は、日本商事が阿片資金の国内受け皿組織ではなかったかとの疑惑を抱かせた。その点について何か聞いてはいないかと、久光善太郎の孫の久光一規氏に会ったが、戦前の祖父の仕事内容についてはまったく覚えていなかった。久光一規氏は戦後の昭和29年生まれである。

「祖父の人生については、私にもわからないことが多いんです。戦前、祖父が満州に行ったことはないと思います。戦前は工場を経営し、軍用機の部品をつくっていたようなことを聞いたことがあります。石炭の仕事にも関係があったようです。

10歳前後の頃、祖父に連れられて渋谷の峰岸ビルに行ったことはあります。もちろん戦後の昭和30年代末ごろのことです。祖父は祖神道という新興宗教の信者で、同じ信者だった里見さんにその集まりで会ったこともあります。里見さんが戦前の“大物”だったということは、祖父に聞きました。戦前にスパイとして大活躍し、ロシアで捕まって、歯を抜かれたり、爪を剥がされるといった拷問を受けた人だ、と祖父は話していました」

里見が戦前、ロシアに捕まったという記録はないから、この話はたぶん、久光善太郎が孫を怖がらせるためにした作り話なのだろう。

日本商事が入っていた峰岸ビルオーナーの峰岸澄夫も、里見遺児基金名簿に名を連ねている。だが、峰岸は昭和62年に62歳でなくなっていた。子供もなく、東京・杉並にあった家もすでに人手に渡っていた。

その後の調べで、峰岸ビルを管理していたのは、峰岸が社長を務めていた和栄興業という不動産管理会社だったということがわかった。同社の関係者を訪ね歩くうち、峰岸澄夫のことを知る東急百貨店のOBにたどりつくことができた。

「峰岸さんの父親(峰岸梅吉・昭和10年没)という人は、渋谷の名士で、あの辺一帯の大地主だったそうです。戦前は道玄坂から現在の渋谷センター街にかけて、すべて峰岸さんの土地だったとも聞いてます。

峰岸さんは東北大学の文学部を出た人でした。文学青年のような雰囲気で、いいところのお坊ちゃんという感じがしました。生活に困ったことなどなかったからでしょう」

峰岸ビルが竣工したのは、日本経済が高度成長に向け駆け上がっていった昭和34(1959)年のことだった。1階から6階までは東宝系の封切館、7階には当時全盛期だったキャバレーチェーンの「チャイナタウン」が入った。里見が代表をつとめる日本商事のオフィスは、その控室の隣だった。

当時は日本映画階がピークを迎えた頃で、家賃収入は順調だった。だが、日本映画階はまもなく斜陽となり、それに伴って峰岸ビルの経営もおもわしくなくなった。当時売り出し中の堤清二率いる西武流通グループが峰岸ビルを買収して渋谷に進出してくるのではないかとの噂が囁かれるようになったのは、ちょうどその頃だった。

渋谷は西武のライバルの東急の本拠地である。ましてや峰岸ビルは渋谷の一等地にある。峰岸ビル前の土地は、路線地価のランキングで、銀座の鳩居堂前、新宿のタカノフルーツパーラー前と並んで、都内の地価トップ3に毎年顔を出す常連だった。

西武の買収を防御するため、東急から峰岸ビルに役員が送り込まれることになった。峰岸の人となりについて話してくれた東急百貨店OBも、そのひとりだった。

「峰岸ビルの帳簿を見て驚きました。放漫経営の見本のようでした。峰岸さんは乗せられやすい人でしたから、あちこちからむしりとられていたんだと思います。タニマチ気取りでほうぼうに金をまいていたようです。愛知揆一の講演会にも入って、金づるのようなこともしていました。たっぷりむしりとられていたようですね。峰岸さんは、私なんかには理解できないような胡散臭い人脈を持っていたようでした。そういう人たちからも、常にたかられていたようです。

葬儀はかつての渋谷の大地主にしては、寂しいものでした。あれだけ政治家に貢いだのに、弔問に来た政治家は松野頼三だけでした。渋谷の大旦那だった峰岸家も、あれで終わってしまったんですね」

東急百貨店OBがいった「胡散臭い人脈」のなかに、峰岸ビルに入居していた日本商事社長の里見や、同専務の久光が入っていたことはほぼ確実である。日本商事はたぶん峰岸ビルにたかって家賃も払っていなかっただろう。

問題は里見と峰岸を結ぶ線が、どこでできたかである。キーワードはおそらく、東急百貨店OBの証言の中にも出て来た愛知揆一である。

戦後、大蔵大臣、外務大臣、官房長官などの重要閣僚を歴任した愛知は、岸信介らと並ぶ満州官僚のひとりである。大東亜省の前身の興亜院の官僚時代、愛知は華北連絡部に勤務した。興亜院の華北連絡部は、阿片問題を扱う部署である。

峰岸ビルを管理していた和栄興業元社員の有賀充男氏によれば、峰岸家は鎌倉時代から続く名門で、渋谷一帯の土地をそもそも源頼朝から拝領したものだという。

「峰岸さんはたしかに愛知揆一とは深い関係にあったようですね。愛知の後援会の「素交会」の主要メンバーだったと聞いたことがあります。この会には里見さんも入っていたらしい。峰岸さんはそこで里見さんと出会ったのではないかと、私は思っています。日本商事という会社についてはよく知りません。少なくとも法人として峰岸ビルと賃貸契約を結んでいた記憶はありません。おそらく里見さんと峰岸さんの個人的な関係で、勝手に出入りしていただけなんじゃないですか。そういえば、久光善太郎さんなんかも、よく出入りしていた。あの人は、遼東半島に石炭の利権を持っていると言っていたな。久光さんという人も、どこか胡散臭い人でした」

有賀氏の話でとりわけ興味深かったのは、日本商事は戦前、中国で塩の権利を持っていたという話だった。日本商事の登記簿の目的欄の中に、塩の輸出入という一項があったことは前に述べた。

「峰岸さんは、その権利をたしか里見さんから譲ってもらったはずです。いや、おそらく、里見さんから買わされたんだと思ったな。ある時峰岸さんから『塩の権利を持っていると、大蔵省に何らかの請求ができるはずだ。戦前の話とはいえ、請求権ぐらいはあるだろう。ちょっと大蔵省に聞いて来てもらいないか』と頼まれたことがあります。

で、私は大蔵省に行きましたよ。我々は中国に塩の権利を持っているが、どの程度の対価を請求できるのか、と。大蔵省は一笑にふすだけで、まったく相手にしてくれませんでした。峰岸さんはとても残念がっていましたね。言葉は悪いが、峰岸さんは里見さんたちに一杯くわされたのかも知れません」

 

私は毎日、通勤の途中でQFRONTを目にする。

このビルでかつて満州につながる「胡散臭い人脈」がうごめいていた。

繁華街の闇は、私たちの目に見えないところに広がっている。

 

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