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<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 ピエール・サリンジャー、エリック・ローラン著「湾岸戦争 隠された真実」(共同通信社 / 1991年) #230128

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1990年8月2日。

イラクのサダム・フセインは突然隣国クウェートに大軍を差し向け、数時間のうちに占領した。

湾岸危機の始まりである。

クウェートに駐在していた私の友人も人質に取られ「人間の盾」としてイラク国内の軍事拠点に移送された。

ジリジリするような駆け引きが半年間続き、翌1991年1月17日ついに多国籍軍によるイラク空爆が始まり、2月24日からは地上戦も開始された。

この戦争は、テレビマンとして過ごした私のキャリアの中でも、最も印象に残っている出来事の一つだろう。

アメリカの空爆が始まったバグダッド市内からCNNのピーター・アーネット記者が行った中継は、テレビ史を塗りかえる出来事であり、私にとっても一生忘れることはできない。

あの当時、私は社会部記者として国際情勢とは関係のない警視庁記者クラブにいた。

その前年までは報道番組のディレクターとして世界各地を飛び回っていたので、とても歯がゆい気持ちでテレビモニターを見つけていたことを思い出す。

しかし湾岸戦争が始まると、私に突然海外出張の命令が下った。

ヨルダンに飛び、そこでイラクのビザを取得して戦時下のバグダッドに入れというのだ。

1991年2月28日、私はカメラクルーと共に出発する成田空港のロビーで、作戦終了を発表するブッシュ大統領の演説を聞いた。

戦争はひとまず終わったが、イラク国内の取材は逆にやりやすくなると思われた。

戦時下のイラクでは選ばれたメディアだけが入国が許され、当局の厳しい監視下で英語によるレポートのみが認められていた。

ヨルダンの首都アンマンに到着した私は、すぐにイラクの取材ビザを申請した。

3週間ほどアンマンでビザを待ち続けたが、結局取得できないまま撤収の命令が下った。

もしもあの時ビザが取れていたら、私はバグダッドで何を目撃することになったのだろうと今でも時々思い出すことがある。

来月行く中東旅行で、初めてクウェートに入国するにあたり、あのモヤモヤの残る湾岸戦争について自分なりに学び直したいと思い、図書館で1冊の本を借りてきた。

ピエール・サリンジャー、エリック・ローラン著「湾岸戦争 隠された真実」。

ピエール・サリンジャー氏は中東取材の経験の長い米ABCテレビの記者で、エリック・ローラン氏はフランス人の作家・ジャーナリストだそうだ。

この本では、イラクやクウェート、アメリカだけでなく、中東各国の首脳たちの言動や駆け引きが多角的に描かれていて、私が知らなかった湾岸戦争の裏側を教えてくれる。

この本の中から、まず運命の8月2日、クウェートで何が起こったのかを本書の中から引用しておきたい。

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クウェート市では、サアド皇太子が午前1時半、軍司令部にいる国防相からの苦悩に満ちた電話で起こされた。電話はイラク軍が国境を超えたことを知らせていた。皇太子が最初に考えたのは、これまでの個人的な確信に執着することだった。サダム・フセインの望んでいるのは、国境近くにある油田と、恐らくは以前から欲しがっていたペルシャ湾への出口にあるブビヤン、ワルバ両島を手に入れることなのだという確信である。

皇太子はすぐに、首長一族の数人と接触した。皆呆然としていた。司令部に次々と届くニュースはさらに茫然自失させるものだった。ソ連製T62重戦車数百台が60キロ離れた首都クウェート市に襲いかかろうとしていた。数万人を乗せたトラック、それにガソリンと水を積んだ大量の補給車両が後に続いていた。

バグダッド放送はこのころ、「あるグループがクウェート政府転覆を謀った」と発表するコミュニケを放送した。その直後、革命評議会の声明は、この企てが成功し、「若い革命家たちはイラクに援助を要請した。クウェートの臨時新政権の呼び掛けに応じて、イラクはこの援助要請を受け入れることを決めた」と発表した。

「イラクはクウェートの内政と革命の前途に対する外国の干渉をすべて排除するよう求められた」とコミュニケは述べた。イラク放送はサバハ一族を「裏切り者、シオニズムの手先」と非難した。ま

クウェートの2つの主要空軍基地はたちまち制圧された。そのうち民間空港に近いアハメド・アル・ジャビル基地はクウェート側の抵抗なしに降下部隊に占領された。サウジアラビア国境に近いアリ・サレム基地には、激しい砲撃の後、兵員を乗せたヘリコプターが着陸した。

ロンドン発クアラルンプール行きの英国航空149便のボーイング747機が侵攻開始の直前、首都から15キロのクウェート空港に着陸した。乗客は367人、乗員は18人だった。午前2時に同機は滑走路上に停止した。数分後、イラク軍機が空港を爆撃し、装甲車部隊が戦略拠点である空港を目指して進撃してきた。包囲網は閉じられ、乗客たちは事実上の人質となった。

2万5千人のクウェート軍兵士は、イラクの恐るべき戦力に対してわずかな抵抗を示しただけだった。

午前4時、皇太子らサバハ家の人々にとっては侵略を阻止できる希望は全くないことが明らかになった。米大使館とは電話連絡を続けていた。イラク軍の戦闘部隊が首都まで数キロに迫ったという情報が伝えられたとき、一族の中心にいたジャビル首長はダスマン宮殿を去る決意をした。

砲撃におびえている間に、銃声が近づいてきた。窓からは黒煙が立ち上るのが見えた。弾薬庫かビルが直撃を受けたのだ。サバハ一族は幻想を持たなかった。ダスマン宮殿はサダム・フセインが舞台に指示した主要目標の一つ、恐らく最優先目標だった。サダム・フセインにとっては、クウェートを占領すれば恥辱を受けた一族の代表を一掃できるのは確実だった。

数台の車が入り口の階段前に止まり、使用人たちが忙しく行き来して荷物を積み込んでいた。

4時45分、サバハ一族は大型車に乗り込んで慌ただしく出発し、並木道を上って宮殿を取り巻く素晴らしい庭園に最後の別れを告げた。車の列は人影のない道を突き進み、時々、前線へ向かうクウェート軍の装甲部隊と出会った。

手はずはすべて整えられており、出発直前に最後の電話をかけていた。車は米大使館前で止まった。入り口の前にいた大使が首長一行に会釈をした。数メートル先で米軍ヘリコプター1台が離陸を待っていた。乗員は配置につき、ローターは既に回っていた。全員が乗るのは無理だった。首長、皇太子のほか数人が乗り込み、残りは陸路でサウジアラビアに向かうことに決まった。国境までは50キロほどしかなく、道路はまだ安全だった。

ヘリコプターが離陸し、上昇を続けている間、首長は窓ガラスに顔を押しつけ、わが身に振りかかったことに疲れはて、呆然としていたが、その目には、イラク軍の先頭部隊が首都のはずれに突入する姿が見えた。

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首長一族がいち早く脱出したが、国民は何も知らず置き去りにされた。

クウェート市はパニック状態にある。おびただしい住民が、サウジアラビアに脱出を試みるが、道路は既に遮断され、イラク兵の支配下にある。路上に設けられた柵の前で車は停められ、乗り込んだ家族たちは手荒に追い出される。クウェートでは日常的に使われている自動車電話も引っこ抜かれる。これを使って部隊配置を通報するのを防ぐためである。

人影の消えた街路を、300台の戦車がパトロールして市内を威圧し、上空にはヘリコプターが飛び回る。車が焼かれ、ビジネス街や、50台の重戦車に包囲された首長宮殿の近くでは、迫撃砲や自動小銃の発射音が聞かれる。侵攻作戦中、最大の激戦のなかで、現場にとどまったサバハ首長の末弟、シェイク・ファハドが殺される。

数隻のイラク護衛艦が、ミサイルを装備したクウェート哨戒艇に撃破される。しかし結局のところ、イラク軍に立ち向かうのは、何カ所かの分散地点での抵抗でしかない。正午を過ぎて間もなく、攻撃は事実上停止する。200人以上のクウェート人が殺された。

サダム・フセインは、数時間のうちに夢を実現してしまった。今後彼は、世界の石油埋蔵量の20%を支配し、ペルシャ湾への直接の出口である200キロの沿岸を支配するのだ。

なぜ、イラクはクウェートに侵攻したのか?

その理由の一つは、その地理的な状況にある。

イラクは北部と南部に大きな油田を持つ石油大国だが、実はそれを輸出するための港を持っていない。

それは改めて中東の地図を眺めてみればよくわかるのだが、ペルシャ湾の出口をすっぽりとクウェートに塞がれてしまっているのだ。

どうしてこんなことになっているのかといえば、その原因はイギリスが作ったということがこの本に書かれている。

1世紀以上にわたり英国は、湾岸をインドと極東への通路を支配できる真の英国領とみなしていた。この地域では他のいかなる影響力の行使も許さないという英国の明白な決意が、巧妙な外交手腕と結びついて、現在の紛争の芽をつくり出すことになった。

第一次世界大戦までイラクとクウェートはオスマン・トルコ帝国の一部だった。面積わずか1万8千平方キロのクウェートはイラクのバスラ州に属していた。欧州で戦争のうわさが高まった1913年、英国とトルコは、クウェートを自治州とする協定に調印した。オスマン・トルコはドイツ側について戦ったが、その戦争中に英国は、クウェートをトルコ帝国から完全に独立した存在と認めた。

この分割は英国に対して同盟国と戦略拠点を与えたが、イラクは絶対に受け入れず、ペルシャ湾への出口を封じられたこと、自分たちの目から見れば独立の存在とは決して言えない地域を失ったことに不満を募らせた。

イラクは1918年の英国の委任統治下に置かれ、これがもう一つの恨みの種となった。1925年、バグダッド政府は巨大石油コンソーシアムのイラク石油会社(IPC)との協定に調印しなければならなかった。協定は、IPCが英国籍でなければならないこと、社長は英国人であること、採掘権は2000年までとすることなどを定めていた。IPCは石油史上最大の油田を好むままに採掘する自由を与えられ、巨大な利益を上げた。

実際、国境の明確でないこの地域では、イラクもクウェートと同様、人工的な国家だった。フランスと英国の間で旧オスマン・トルコ帝国領の分割を定めた1916年のサイクス・ピコ協定により、イラクはバグダッド、バスラ、モスルの3州で構成されることになった。

この状態を見事に表現した言い方がある。「イラクは、キルクークとバスラの二つの離れた油田を結びつけ、クルド人、スンニ派、シーア派の3つの異なる住民を結びつけようとしたチャーチルの気違い沙汰の産物だ」

恐らく不安定で弱々しい構造から生まれたためだろうが、現代のイラクは絶えず暴力が横行し、支配していた。1958年、親西欧の王制が倒され、ファイサル国王は殺され、ヌリ・サイド首相は群衆から石を投げつけられる。新たな支配者カセム将軍は1年後、襲撃から危うく逃れる。襲撃グループの1人はサダム・フセインという名の若い男で、負傷はしたものの、隣のシリアに逃げ込むことに成功する。

1963年、わめき立てる群衆が槍の先にカセムの首を掲げて行進する。1968年、バース党が政権に就く。サダム・フセインの勝利である。

イスラエルとパレスチナの問題だけでなく、イギリスの植民地統治は今なお多くの災いを中東にもたらしている。

イラクとクウェートの問題もおおもとを辿れば、はるか昔の恨みに遡るのだ。

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そしてより直接的な軍事侵攻の理由は、1980年から8年間続いた「イラン・イラク戦争」にあった。

イランで起きたシーア派革命に対抗し、スンニ派とアラブ民族の旗頭として戦ったイラクは、8年にわたる消耗戦の末、経済的に行き詰まり、クウェートに対し巨額の債務の返済猶予を求めていたのだ。

この本の書き出しは、こうした背景から始まっていた。

1988年8月8日、イラン・イラク戦争は終わった。この日が湾岸危機の始まりになるとは、だれも予感していなかった。

イラクは8年間の戦争で百万人近い死者を出したが、イラン側の方が先に停戦を提案したという理由で、勝者と見られた。戦争終結時のイラクは強力ではあったが、同時に傷も大きかった。その軍事力は中東では並ぶもののない堂々たるものだった。1980年当時の10個師団は55個師団に増え、しっかりと組織された100万人の将兵が戦闘準備を整えており、航空機は500機、戦車は5500両に達していた。財政の破綻ぶりも並はずれていた。開戦当時イラクの外貨準備高は3百億ドルだった。8年後、債務は1千億ドルに達していた。バグダッドの中心部に建てられた大統領官邸の堂々としてはいるが寒々としたサロンに外国の賓客を迎えるたびに、サダム・フセインは、8年間にわたり自分が「ペルシャの脅威からアラブの兄弟を守る真の盾」だったとして、「金持ちの兄弟であるサウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェートがわれわれの債務返済を助けてくれる」のを待っているのだと漏らすのが常だった。

停戦翌日の1988年8月9日、クウェートは石油輸出国機構(OPEC)の合意を破って原油生産の増加を決めた。なかでも、イラクが以前から領有を主張している国境地帯にあり、激しい外交論議の対象となってきたルメイラ油田の生産が増加した。

クウェートの行動はサダム・フセインにとって挑発であり裏切りであると感じられた。原油市場での生産過剰状態はさらに強まり、価格はさらに低下した。これによって、外貨収入の90%を原油に依存しているイラクは年間70億ドルの減収となった。一方、債務の利子返済分も70億ドルに達した。まさに窒息状態だった。

イラクとクウェートほど異なる国を想像することは難しい。イラクでは、権力と力の夢にとりつかれた独裁者である一人の男にすべての権力が集中している。窮乏状態にある人口1800万人を抱えた厳しいイラクに対して、クウェートは富と豊かさの小天地だった。支配者であるサバハ一族は閣僚ポストなど、地位、影響力、利益を分け合っていた。クウェートの対外投資は実に1千億ドル以上に達し、毎年石油収入を上回る60億ドル以上の収入をもたらしていた。その恩恵を受けるのはクウェートの市民権を持つ70万人の人々であり、この国の経済を動かしている移民労働者・・・パレスチナ人、フィリピン人、パキスタン人、エジプト人はわずかなかけらを手にするだけだった。

富はしばしば傲慢と盲目をもたらす。この二重の悪徳を免れなかったため、クウェートの指導者たちは、前兆のないまま戦争と悲劇へと突き進むことになるドラマの展開から逃れることがほとんどできなかった。

イラン・イラク戦争は、アラブの盟主となることを夢見たサダム・フセインが一方的に仕掛けた戦争であり、クウェートからすれば言いがかりだと感じただろうが、クウェートはイラクの求めに冷たく応じ、クウェートからすればわずかなお金を出し惜しんで戦争を招いた側面もある。

軍事侵略によって国を追われたサバハ一族は、アメリカを中心とした多国籍軍によって君主の座に返り咲き、今もクウェートを支配し続けている。

それにしても素早かったのはアメリカの動きである。

軍事侵攻の数時間後にはイラクとクウェートの資産を凍結する処理を取り、アラブ諸国の間で仲介の動きが出ているにも関わらず、わずが数日の間にベトナム戦争以来となる大規模な米軍の派遣を決定するのだ。

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8月6日、サウジアラビアのファハド国王が米軍の駐留に同意した。

アメリカはすでに作戦計画を準備しており、この日のうちに最初のF15戦闘機の飛行小隊がサウジアラビアに向け離陸したのを手始めに、空挺部隊も直ちに出動体制に入った。

「砂漠の盾」作戦はイラクのクウェート侵攻からわずか1週間足らずで開始されたのだ。

空母サラトガと戦艦ウィスコンシンもペルシャ湾に向け出港。

石油メジャー「アラムコ」の本部があるダーランの町から離れたサウジアラビアの砂漠に、米軍の第一陣が展開した。

そして7日、米軍のサウジアラビア到着に合わせてブッシュ大統領がテレビ演説を行い、米軍派遣を世界に向けて発表した。

これを受けて、サダム・フセインはクウェートの併合を発表し、クウェート国内では市民の弾圧、さらには外国人居留者たちを人質とする動きが加速していく。

8月14日には、海兵隊や空軍の6万人の兵士が既にサウジアラビアに配備され、さらに5万人が到着する予定だった。

この「砂漠の盾」作戦のコストは1日1千万ドルと算定されていた。

これに対し、イラクは長年の宿敵イランに対し和平を申し入れ、国境問題での要求を取り下げ、イラン人捕虜1万9千人の釈放を受け入れた。

43万人の兵士と、地域に展開する3500両の戦車に加え、秘密警察ムハバラトの隊員7千人がクウェートに送られた。その目的は、台頭しつつある反イラク・レジスタンスの解体である。首都はいくつかの区域に分割され、多くのチェックポイントが設けられた。家々は家宅捜索され、地下抵抗運動のビラや新聞を持っているものは即座に死刑にされた。銀行の帳簿が入念に調べられ、政府機関の発行した小切手で支払いを受けている役人、公務員、職員がだれとだれであるかが調べ上げられた。

イラクでは地図が作り直された。クウェートはもはやイラクの19番目の州でしかなかった。クウェート市はカチマと名を改められ、車にはイラクのナンバープレートがつけられ、サダム・フセインの肖像や彫像が道路沿いに並び、十字路に出現した。サダム・フセインの側近が言う。「クウェートは歴史の奥底深くのみこまれ、地理上は消えてなくなった」

イラク人たちはクウェートの資産を奪った。占領軍はそれほどでもないが、指導者たちは大規模な略奪を行った。ある車のディーラーは数時間のうちにシボレーとオールズモービルのピカピカの新車1万4千台を失う。それらはバグダッドに移送された。数人の閣僚の側近たちが特別にクウェートにやってきて贅沢品の山を持ち帰る。クウェートの莫大な在外資産は侵攻の数時間後に凍結されたため、サダム・フセインはそれを手に入れることができなかった。しかし特別輸送車の列が、中央銀行や多くの金融機関で差し押さえられた30億ドル分の外貨と、10億ドル分の金をクウェート市からバグダッドへと運んだ。

16日、サダム・フセインはクウェート在住の米国人と英国人を拘禁すると脅し、あるホテルに集まるよう命じる。彼はまた、米兵を「棺桶に入れて」本国に送り返すと脅す。

翌日、イラク政府は、その管理下にある欧米人たちが戦争の脅威が続く限り民間や軍の戦略拠点に移送されるだろうと宣言する。国連安保理はペレス・デクエヤル事務総長に対し、外国人の解放のために行動するよう求める。同じころ、イラク軍の30個師団がイラン国境を離れ、クウェートに既に駐留する15万人の増援に加わる。

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クウェート国内の統制を強める一方で、サダム・フセインは同時に中東の世論に向けたプロパガンダも活発に行う。

メッカ、メディナという二大聖地の守護者であるサウジアラビアが異教徒である米軍に基地を提供したことを強く非難、クウェートの王族たちが石油の利益を独り占めしそこで働くイスラム教徒たちに分け与えなかったことを批判した。

さらに、クウェートの占領を問題にするならばイスラエルによるパレスチナ占領はどうなんだと訴え、クウェートの王族はイスラエルの手先だったと、問題をイスラエルとその同盟国のアメリカとアラブ世界の戦いにすり替えようと試みた。

その結果、アラブ各国ではイラクを支持する世論が高まり、各地でフセインの肖像を掲げたデモが行われる。

アメリカは、イスラエルが介入すると問題が複雑化するとして、シャミル首相に強く自制を促す。

宗教と民族と歴史が入り混じった中東問題の難しさは、一つ間違うと戦争の行方に大きな影響を及ぼす可能性があったのだ。

そして今から振り返って興味深いのは、湾岸戦争が冷戦の終結直後、米ソの蜜月の時代に起きたことである。

ゴルバチョフは長年の同盟国イラクに同調せず、アメリカに歩調を合わせてクウェートからの即時撤退を要求した。

国連でもアメリカが提出した決議案にソ連も中国も反対せず、イラクに対する武力攻撃を認める異例の国連決議が採択された。

湾岸戦争後もサダム・フセインはイラクの独裁者として生き残ったが、世界同時多発テロの復讐に燃えるアメリカによって標的とされ、フセインは処刑され、イラクの国土も完膚なきまでに破壊されることになる。

こうして過去の歴史を振り返ってみると、サダム・フセインの主張にも一理あるような気がしてしまうのも国際政治の理不尽なところだろう。

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イラクによって油田に火をつけられ、市内も破壊されたクウェートの国内はすっかり再建されて、湾岸戦争の痕跡を見ることはほとんどできないという。

それでも、クウェートだけでなく、米軍の拠点となったダーランや亡命したクウェート首長が匿われたジェッダなどを回り、あの戦争が何だったのか私なりに想像力を膨らませて考えてみたいと思っている。

もしクウェートとサウジアラビアに石油がなかったら、アメリカは助けに行っただろうか?

国際正義の名の下に行なわれた軍事行動の背景を知ることは、これからも起きるであろう戦争の真実を理解するのに役に立つ。

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