大河の一滴

「林住期」に出会い、五木寛之さんの本を少し読んでみることにした。

「大河の一滴」・・・平成11年、1999年の世紀末に幻冬社から初版が出ている。

17年後の今読むと五木氏自身、世紀末のムードに影響を色濃く受けているようにも見える。

自殺の多さを憂えている。プラス思考を奨励する風潮に疑問を呈し、「ブッダは究極のマイナス思考から出発した」と説く。「これまでの人生観を根底からひっくり返し、『人が生きるということは苦しみの連続なのだ』と覚悟するところから出直す必要があるのではないか」と書いている。そして心の萎えた人たちに向け、「人はみな大河の一滴」「高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆けつづけた戦後の半世紀を振り返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還っていく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか」と訴える。

img_5713

本の中で五木氏は1999年という時代について「いよいよとほうもない闇の濃さを深めてきている」と書き、「心の内戦」というキーワードを使い、蓮如が活躍した応仁の乱前後に似ていると危機感を露にしている。1999年、私は夕方ニュースの編集長をしていた。どんな時代だったのか、改めて少し調べ直してみた。

img_5719

1995年の阪神大震災とオウム事件、97年には神戸児童殺傷事件、山一證券の破綻、98年は和歌山カレー事件。政治の世界では非自民連立政権が崩壊して95年に自社さ政権(村山内閣)が誕生、その後橋本、小渕内閣と合従連衡がめまぐるしく続いた。確かに希望に満ちた時代ではない。むしろ既成概念が次々と崩れていき自分たちがどこに行くのか不安な時代だった。世紀末思想と合わさって五木さんの本がベストセラーになったのも分かるような気がする。

ただ私にはこの本はあまりしっくりこなかった。私のプラス思考が強すぎるのか、今の日本や世界は皆が言うほど悪くない、昔に比べて明らかに暮らしやすいと感じているからか。

img_5717

そんな本の中で気に入った部分があった。「滄浪の水が濁るとき」というくだり。古代中国の屈原という知識人と漁師の話だ。官位を追われ濁世を嘆く屈原に対し漁師はこんな歌を歌いながら去って行く。

「滄浪の水が清らかに澄んだときは自分の冠のひもを洗えばよい もし滄浪の水が濁ったときは自分の足でも洗えばよい」

この屈原と漁師とのやりとりは様々な説話として中国に語り継がれてきたという。五木氏は日本の現状を「ここ数年来、未曾有の濁水が押し寄せて渦を巻きつつ流れているように見える」と屈原の時代との類似を指摘しながら、こう綴っている。

「屈原に語りかけた漁師の言葉には、しぶとく生きる底辺の民衆の知恵と決断が潜んでいるように私には思う。世の中はときに澄み、ときに濁る。清らかに澄んでいないことをひとり嘆き、怒っているばかりでは生きていくことはできない。幸いにも水が澄んだら自分の大切な物を洗えばよい。たとえ濁った水といえども、その自分の汚れた足を洗うには十分というものだ。窮地に立った人は、屈原の物語をどう読むか。私個人の好みでいえば、屈原にも共感しつつ、それでも自分は漁師の歌により大きな何かを受け取るような気がする。濁水をただ嘆くな。滄浪の水もし濁らばおのれの足を洗うべし。密かにそうつぶやきながらいまを生きている。」

私は明らかに屈原ではなく、漁師に近い。

1件のコメント 追加

コメントを残す