若い頃から沖縄が好きだった。
学生時代に初めて訪れた1970年代の沖縄は、アメリカの香りがした。ドライブスルーのハンバーガーショップ「A&W」に興奮、映画「アメリカングラフィティー」の世界がそこにはあった。
そんな時代を思い出させてくれるお店を訪ねた。
ジャッキー・ステーキハウス
本土復帰前、1953年創業の老舗「ジャッキー・ステーキハウス」。
人通りもまばらな裏通りに、そこだけド派手なアメリカがあった。
このお店のサイト、アドレスが凄い。なんと「steak.co.jp」なのだ。
「jack」ではなく「steak」。そのサイトにはこんな説明が載っている。
『 アメリカ統治下にあった沖縄には、急速にアメリカ文化が流れ込み、街は英語と日本語が入り乱れ、そして人々の日常会話は、沖縄方言という 一種独特の雰囲気が醸し出されました。
そんな風の中でジャッキーは、生まれ、そして多くの米兵や 地元の人々に愛され続けて来ました。
老舗をうたう多くの店が高級化へ走る中、その味はもちろんの事、価格、ボリュームで ジャッキーは今なお、気軽に入れる 安くて、美味しくて ボリュームたっぷりのステーキハウスとして人気があり、いつもたくさんの お客様であふれています。』
本当にあふれていた。
この店は予約を受け付けないので夕方5時半ごろ早めに店に行ってみたのだが、すでに店の外まで人があふれていた。
この時点で50分待ち。
受付で名前を書いて、店の周りを少しお散歩してくることに・・・。
30分ほどブラブラして店に戻ると、待ち時間は70分になっていた。
壁には大量の色紙。俳優、芸人、ミュージシャンにスポーツ選手。ありとあらゆる有名人のサインがあるようだ。
沖縄とは思えない寒い日だったので、狭い店内に居場所を確保できたのはラッキーだった。
そしてようやく席に案内されたのは6時20分すぎ、お店の読み通り本当に50分待ちだった。
アメリカのダイナーを思わせる内装。革張りのボックスシートは妙に落ち着く。
「宮里藍がよく行くステーキ屋のタコスが美味しいらしい」という妻の一言がきっかけでこの店に来ることになったのだが、席に座って店内を眺めていると、脳の奥底で眠っていた記憶が蘇ってきた。「この店、昔来たことがある」。
学生時代、初めて沖縄に来た時、「アメリカと言えばステーキでしょ」と言いながら友人と来たのがこの店だった(と思われる)。私はずっと別の有名店「ステーキハウス88」だと思っていたが、どう見てもこの店だったのだ。
お店の人気NO.1
私はお店の人気NO.1「テンダーロインステーキ」のSサイズ150g(2100円)とタコス1個(130円)、妻は「ハンバーガーステーキ」のSサイズ(800円)を注文した。
予約ができないのは不便だが、その代わりお値段は確かに良心的だ。
ステーキやハンバーグなどには、スープとミニサラダがつく。スープはとろみのあるチャウダー風。サラダのドレッシングも甘めで総じてアメリカンだ。
そして人気NO.1のテンダーロインステーキ。
塩胡椒や醤油など、好みの味付けでOKだが、店のオススメは「NO.1 ステーキソース」。
甘酸っぱいソースがステーキの味を引き立てる。これは本当に美味い。ソースもうまいが、やはり肉が美味いのだろう。
柔らかい赤肉。日本のステーキ屋といえば、霜降り肉が定番だが、私は年のせいかアメリカの肉の方が美味しいと感じる。
こちらがハンバーガーステーキ。肉の味がしっかりしていてこちらもアメリカの味だ。
妻は「普通」と言っていたが、このハンバーグは本場のハンバーガーの味がした。まじで美味い。これだけ並んでも食べたくなる味、よくわかった気がした。
宮里藍のタコス
そしてこちらがお待ちかね、藍ちゃん絶賛の「タコス」だ。
本来は5個で650円なのだが、バラでも注文できるというので1個だけいただいた。
皮はカリカリ、ひき肉もたっぷり入っていて上からはチェダーチーズの細切りがどっさり。こちらもまさにアメリカ風だ。
私は大学時代、1年休学して南米旅行に出かけたことがある。スペイン語の勉強を目的に3ヶ月あまり滞在したロサンゼルスで初めてタコスを経験した。エルサルバドル人とルームシェアしていたこともあって、タコスは本当によく食べた。何より、安いのが学生には魅力だった。若かりし日の忘れ得ぬ思い出の食だ。
藍ちゃんが大好きというだけあって、このタコスは美味い。日本ではなかなかタコスが根付かないが、このクオリティーのタコスは東京でもあまりお目にかからない。これぞ沖縄なのだろう。
沖縄はやはり、日本で一番アメリカに近い土地なのだ。
大満足で店を出る時には、待ち時間は90分に伸びていた。
席についてからわずか30分。デザートもコーヒーもないので回転は早い。
創業から65年、今も那覇を代表する大人気店を満喫した。
沖縄最大の軍用地主
沖縄にしっかりと根付いたアメリカ文化。しかしもちろん、いい事ばかりではない。沖縄とアメリカの関係は、文字通り「複雑怪奇」だ。
今回沖縄に行くにあたって図書館で何冊か本を借りたのだが、その中で圧倒的に面白かったのは佐野眞一著「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」という本だ。
佐野氏らしいディープな情報が盛り沢山だが、その中に「竹野一郎」という人物が登場する。沖縄最大の軍用地主だという。私のまったく知らない沖縄の一端がそこには書かれていた。
佐野氏の本から引用させていただく。
『 竹野の自宅は那覇市のど真ん中にある。官公街に面し国際通りまで歩いて5分という一等地である。周囲は主人の異常な警戒心を物語るように高い鉄扉と鉄条網に囲われ、屋敷の全容は隣接する高層マンションの屋上に上らない限りうかがえない。庭一面に芝生が綺麗に張られた広壮な邸宅はミニゴルフ場のクラブハウスのようだった。
竹野は高額所得者ランキングの常連メンバーである。03年度の沖縄県内法人申告所得ランキングを例にとれば、竹野が代表取締役会長をつとめる沖縄土地住宅は、沖縄電力、琉球銀行、日本トランスオーシャン、オリオンビールなど沖縄を代表する大企業に伍して、第6位(前年は4位)にランキングされている。 個人の納税額を見ても、2000年5位、02年16位、03年20位、04年20位と、常に上位入りしている。
沖縄土地住宅は竹野の自宅から300mと離れていないビル内に事務所を構える沖縄製糖の中にある。沖縄製糖は沖縄土地住宅の母体で、やはり竹野が代表をつとめる。』
私はこの竹野一郎という人物に興味を覚え、那覇のど真ん中にあるという自宅を見に行ってみた。
沖縄県庁や県警本部から歩いてすぐのところにその家はまだ残っていた。佐野氏の記述の通り、鉄の扉が入り口を塞いで中の様子を伺うことはできない。
それでも、確かに「竹野」の表札が確認できる。
佐野氏の本の続きを引用する。
『その後の調べで竹野の収入源となっている嘉手納弾薬庫地区の軍用地は、嘉手納基地全体の約19%に相当する115万坪にものぼっていることがわかった。その土地は元々、竹野の父親の竹野寛才が社長をつとめる沖縄製糖のサトウキビ畑だった。
沖縄製糖の前身は1913年に設立された台南製糖である。竹野寛才は同社の支配人だったが、同社社長でサントリー創業者の鳥井信治郎が製糖事業から身を引いたため、1952年に社長に就任した。』
家の周囲をぐるりと回ってみた。佐野氏が「ミニゴルフ場のクラブハウス」と書いた母屋が塀越しに見えた。ただ、本から想像したほどのきらびやかさはない。佐野氏の本でこの家の正体が知られてしまったため、その後あまり使っていないのかもしれない。
親が手に入れたサトウキビ畑が米軍に接収され年間20億円とも言われる地料を生んでいる。これを沖縄ドリームと呼べばいいのか? 私が竹野さんだったら自らの運命をどう感じるだろうか?
竹野氏の土地は、嘉手納弾薬庫地区という沖縄の中でも最も返還されにくい場所にあるという。
基地返還を求める声をメディアを通して聞いてきた私たちは、沖縄の人たちはみんな返還を望んでいると考えがちだ。しかし地主の本音は違う。「絶対返還されない」ということは、長期にわたって安定収入が見込まれる土地という事になり、軍用地としての価値が高いのだと言う。
こんな世界もあるのだ。
本を読んで、それまで漠然としか知らなかった沖縄の複雑さに触れた気がした。確かに街を車で走ると「軍用地買います」と書かれた看板を目にした。「基地経済」という言葉はよく聞くが、その実態を知る人は本土には少ない。
普天間基地
移転に揺れる普天間基地を見に行った。
普天間基地を遠目に見下ろすニュースでお馴染みの光景は、宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園にある展望台から撮影されている。
この展望台は1992年に作られた。世界平和を願う地球儀がモチーフだという。
展望台の3階からは普天間基地に駐機するオスプレイが肉眼で見える。
基地の右手には、2004年に米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学、基地の奥には先日ヘリコプターの窓が落下した普天間第二小学校もある。ニュースの現場が私の眼前に広がっているのだ。
展望台には地元宜野湾市が設置したボードがあり、普天間基地の概要が記されている。
『 普天間飛行場は1945年の米軍占領と同時に土地が強制接収され、米陸軍工兵隊が本土決戦に備えて滑走路が建設されました。その後、基地の形態を変えて、本土復帰後においては国の提供施設として米国海兵隊により普天間飛行場として使用されています。』
そして、興味深い数字も・・・。
基地従業員数 204人、 地主数 3874人。基地が返還されると、これらの人たちは間違いなく影響を受ける。この人数を多いと見るか、少ないと見るか?
戦後70年以上、基地のある生活を強いられてきた人たちに大きな変化が訪れようとしている。
展望台には、こんな案内板も・・・。
「普天間飛行場の跡地利用に係る取り組み」。辺野古への移転が予定通り進むと480万平米の土地が戻ってくる。その広大な土地を使って地域経済の活性化を図ることは可能なのか?
宜野湾市は「普天間未来予想図」という動画を毎年作っているという。
しかし、動画を拝見する限り、跡地利用策はまだ漠然としているように見える。これで街に賑わいが作れるのか、目玉が足りない印象を受ける。
「未来基金」を作って、地元の若者を留学させるなどのプランが案内板に書かれているが、それで基地返還後の沖縄経済を支えることができるだろうか?
展望台のある嘉数高台は、昭和20年4月8日から16日間続いた激戦の舞台だ。日本軍は首里に置いた司令部を防衛するため、その北方に当たる高台に地下陣地を築き、米軍の主力部隊を迎え撃った。
公園の茂みには今も「陣地壕」の入り口が残っている。
日本軍は嘉数高台に「反射面陣地」を築き、米軍の戦車部隊に激しく抵抗した。
この「嘉数の戦い」での日本軍の戦死傷者は6万4000人と言われ、沖縄に投入された総兵力10万人の半数以上が損害を受けたとされる。
展望台の近くには守備隊が立てこもった「トーチカ」が保存されている。
北側に向かって開かれた小さな銃眼が2つ。鉄筋コンクリート製のトーチカは激しい銃撃を受け、表面が激しく損傷している。
裏側には日本兵が出入りするための穴が開いているが、これが狭い。
せっかくなので、私もトーチカに入ってみたが、膝をついて潜り込まないととても中に入ることはできない。
トーチカの内部は、およそ2m四方の広さ。ここに3人の兵士が入って敵に対する。
兵士たちの任務は、目の前の敵をただただ撃退することだ。それができなければ、死が待ち受けている。戦闘を前に、兵士たちはトーチカの中で何を思っただろう?
しかし、そんな戦時の切迫感は今は微塵も感じられない。
私が訪れた日、嘉数高台公園では祭りが開かれていた。沖縄は今、桜の季節だ。この三連休、沖縄の各地ではお祭りが開かれ、ステージではお笑いコンテストが行われていた。
嘉数高台で戦史に残る激戦を繰り広げた日米両国は戦後、日米安保体制を構築し、かつての激戦地に海兵隊が常駐する基地を置いてきた。
その普天間基地の返還に日米が合意したのは1996年。あれからもう20年以上がすぎた。
沖縄と日本とアメリカの複雑怪奇な関係。
それぞれの文化と感情が複雑に絡み合いながら、どのような未来に繋がっていくのだろうか?
<関連リンク>
⑥「万国津梁」アジアをつなぐ架け橋「浜辺の茶屋」で見た沖縄の豊かさ
<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。