年縞

「環太平洋文明叢書①津軽海峡圏の縄文文化」という本を借りた。この中で「年縞」という言葉を初めて知った。

この第1章として、立命館大学環太平洋文明研究センター長の安田喜憲氏が「年縞が解明する縄文の人類史的意味とその開始をめぐって」と題する講演が収録されている。これがなかなか面白い。

「世界では、1万年前に大きな気候変動があると言われてきた。しかし、その1万年の激変を強調する研究者がどこに住んでいるかというと、欧米の先進国だ。その欧米は最後の氷河時代には氷河の縁辺だった地域だ。そういう所のデータを分析すると、確かに1万年前に大きな変動があったが、日本のデータを分析すると、1万年よりも1万5000年前に大きな変動がある」

「最初は彼らの言うことを信じ、自分たちのデータが間違っているとさえ思ったが、彼らの地理的位置こそ特異であって、日本のデータこそが最終氷期の標準的な姿を示しているのではないかと考えるようになった。それから25年経って、彼らもようやく水月湖のデータを認め、1万5000年前に大きな画期があるということが世界の標準になった。福井県の水月湖の年縞の分析結果が、世界の標準となった。2013年のことだ。IntCall3で定義される暦年数正年代の中心時間軸として、水月湖の年縞の分析結果が取り扱われることになった。今や日本の年縞研究が世界をリードする時代になった」

「私は、環境考古学を1980年に提唱し、長年研究してきた。年代を決める時、放射性炭素同位体という方法で決めてきたが、プラスマイナス100年という誤差がつく。これでは信用されない。 しかし天は年縞という時間軸の目盛を与えてくれた。年縞は、アジアで初めて日本の福井県水月湖で私が発見し、年縞と命名した。1991年に縞々の堆積物を発見し、それが年輪と同じく1年に1本ずつ形成される年縞であることが確認できたのは1993年。軟エックス線で年縞を見ると、白い層と黒い層がセットになっていて、白い層は珪藻という藻が春先から夏にかけて繁茂することで、黒い層は秋から冬にかけて粘土鉱物が周辺から流れてきて堆積してできる。それが日本の湖では10万年間ずっとある。このようなところは世界のどこにもない。日本列島は年縞の形成においても最高の条件を保持している」

「それを分析すれば、季節単位で過去の環境の変動、気候変動がわかるようになる。たとえば、花粉の化石を分析することによって、森の変遷や気候の変動がわかるし、珪藻の化石を分析すれば水位や水質の変動がわかる。年縞を使うことで、1万年前であっても、人の一生の単位で、過去の気候変動を論じることができるようになった。」
「ゴヨウマツ亜種やトウヒ属・ツガ属といった氷河時代を代表する植生は、1万5000年前から急激にになくたっていた。そして200年後にトウヒ属がこの水月湖周辺から姿を消し、代わってスギであるとかブナ、落葉のナラが繁茂してくることがわかったのだ。 逆に今まで旋回で大きな環境変動があると言われていた1万1500年前には、水月湖周辺ではブナ属が減少し、落葉ナラ属が増加してくるが、森林帯の大規模な変動はなく、1万5000年前に比べて大きな変動ではない」

「日本列島で一番古い土器が出土したのは青森県津軽半島にある大平山元遺跡(1万6700年〜1万4540年)で、次が帯広の大正3遺跡(1万4910年〜1万3800年)。日本の縄文土器のルーツはまったく新しい視点から研究することが求められ始めた。中国では長江流域で1万7000年や2万年前の土器が出土している。しかし、中国の玉せん岩遺跡のものは厚さ1センチ、大平山元遺跡の土器は厚さ5ミリ。土器を作る技術は日本独自に発達した可能性を考慮に入れる必要がある。しかもその技術は西日本で発達したと考えられたが間違いだったかもしれない。今までは弥生人のほうが優れている、縄文人は原始的な生活を送っていたから1万年間ずっと続いたというのが考古学者の見解だった。それはおかしい。1万年間続くと言うことはどれだけ大変なことか。やっと私がそういうことを言うようになって、考古学者も考えるようになった」

「欧米では、ヤンガー・ドリアスという寒の戻りこそが、人類に大きな影響を与えたと言う。しかし、日本の気候変動を復元すると、日本列島ではヤンガー・ドリアスは一時的には寒い時期もあるが、欧米のように人類の居住が中断し、縄文時代草創期の文化が途絶するほどの大きな影響はもたらしていない。日本列島では4200年前に大きな気候の寒冷化があり、それが三内丸山遺跡の崩壊の契機になったと言う説を指摘している。人々は北から南に移動した。」

「今まで、文明と言うものは、文字を持った人間だけが有していた。黄河もメソポタミアも、インダスも文字を持っている。しかし、アイヌは持っていない。縄文人も持っていない。東南アジアの人々も中国や台湾の少数民族も文字がない。その文字がない人々は何を大事にしたかというと「言霊」だ。その言霊を重視した人々も文明を持っていたと言うのが、私の説だ。言霊を大事にする人々は皆「抜歯」をしたのではないか。抜歯によって口の邪気を払う、そういう文明の伝統を持つ人々がいた」

「東南アジアから北海道も含めての地域が、縄文文化の伝統を強く持った女性中心の社会を長らく維持してきたと言う風に私は考えている。アンコールワットのあるカンボジアにも女性だけのお墓が検出された。女性の地位が高かったことを意味する。ヘルメットや剣と一緒に埋葬された女性の遺体が発見された。沖縄でも女性が強いので、争いのときは女性が先頭に立った。縄文時代は女性中心の時代、その後稲作漁労社会になってからも、その伝統はずっと残っていたのではないか。」

「日本列島の湖だけに年縞が多く残っていると言うことは、縄文時代はもちろん、それ以降の稲作漁労社会でも、森里海の物質の循環、水の循環系をきちんと守ってきたことを示している。年縞が残っているのは、日本人の祖先たちの生きとし生けるものに対するやさしいライフスタイルのおかげだ。山を崇拝する世界観が、富士山が世界文化遺産になることで世界の人々に認められたように、今度は縄文時代以来の日本人のライフスタイルが世界の人々に認められなければならない」

縄文文化とは、女性中心の戦争をしない、自然と共存するライフスタイル。
このイメージを育ててきたのはこの安田先生がキーマンのようだ。
安田喜憲 1946年生まれ   環境考古学の確立で紫綬褒章受章

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