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マンガ日本の歴史 1巻〜5巻

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石ノ森章太郎の「マンガ日本の歴史」を読み始めた。

これがなかなかの力作なのである。東京大学名誉教授の義江彰夫先生が原案を執筆し、仲倉重郎氏らが脚本を書き、石ノ森章太郎さんが作画をするという分業体制で作成された。

中公文庫で55巻からなる大作だ。

マンガなので読みやすいが、中身は最近の考古学的な研究も盛り込まれ充実している。しかも、文章だけでなく絵が付いているので、当時の服装や風物もわかりやすい。

全巻購入して繰り返し読み返したいほどだが、まずは図書館で借りて読み始めた。

1巻は「秦・漢帝国と稲作を始める倭人」。

縄文から弥生時代前期・中期の日本。中国の文献しか資料が残っていない。朝鮮半島から移り住んだ人たちが日本に稲作を持ち込み、村ができ、国ができ、戦が起き、倭の奴の国王が金印を授かるまでの物語だ。

序 章  後漢王朝へ、倭の奴国より・・・・

第1章  稲作文化、海を渡って日本列島へ

第2章  自然を征服する人々の歓びと怖れ

第3章  百余国の王と民衆

巻末には対象となる年代の年表がつけられている。後の参考に写真を撮っておく。

1巻では、古代の日本人の濃厚な神との関わり、祭りと性の話など、八百万の国の原風景が描かれ新鮮だ。

2巻は「邪馬台国と卑弥呼のまつりごと」。

弥生時代後期の紀元2−3世紀の日本が描かれる。邪馬台国と卑弥呼という古代史最大の論争とロマンがテーマだ。大乱で疲弊した時代。邪馬台国、対馬国、一支国、伊都国、不弥国、奴国、投馬国など30カ国の王による列国会議が開かれ、神の声により鬼道使いの卑弥呼が新たな王に選ばれた。女王の誕生により大乱はおさまり、卑弥呼は魏に使者を送り朝貢したため「魏志倭人伝」にその記録が残った。

序 章  卑弥呼

第1章  倭国の大乱

第2章  親魏倭王・卑弥呼

第3章  卑弥呼よ、永遠に

論争が続く邪馬台国の所在地について原案執筆の義江教授はこう書いている。

『邪馬台国が北九州にあったか、畿内にあったかは、江戸時代以来の論争史をもち、今もって結着していない大問題である。私も決定的な結論を持っているわけではないが、どちらかといえば、北九州説をより妥当ではないかと思っている。

最近発掘された佐賀県吉野ヶ里遺跡は、それ自体は邪馬台国の都ではないが、倭人伝に描かれた邪馬台国の都に似た遺構を出している。このような事例が今後次々とあらわれてくれば、この論争に決着のつく日もくるかもしれない。』

3巻は「興亡する倭の五王と大嘗の祭」。卑弥呼以降、大和王権が形成されるまでの3世紀前半から5世紀末の日本が描かれる。

この巻は冒頭、朝鮮半島に攻め入った倭人が百済と組んで、高句麗・新羅の連合軍と戦うシーンから始まる。石ノ森章太郎はこう書いている。

『卑弥呼より160年を経て、歴史に登場したのは強い倭国であった。かつて朝貢者としてのみ外国とかかわってきた倭国と違い、朝鮮半島に積極的に侵出し、半島を支配する強大な国家である高句麗と対等に戦いを挑む新しい倭国であった。』

日本はこの時代から朝鮮半島に兵を送っていた。確かに教科書で習った「高句麗好太王碑文」はこの時代の日本を今に伝える数少ない資料だが、私にはそうした歴史認識がまったく欠落していた。それにしても、小さな船でよく朝鮮半島を侵略したものだ。

『この160年の間に倭国に何があったのだろう? この間の史実を語る文字史料は皆無に近い。4世紀の日本は、まことに謎に満ちた世紀なのである。』

大和王権が成立する謎に満ちた時代。原案の義江教授はこのように解釈する。

『3世紀後半から4世紀半ばにかけて、日本各地の地域権力が成長し、互いに競合し、連係しながら倭人社会の盟主権を執ろうとしていた。その中で吉備、出雲などが一時、相対的に優勢になるが、やがて畿内に根拠を持ち、それまでのさまざまな墳墓様式を摂取して前方後円墳という古墳固有の墳墓様式を生み出した大和王権が、その様式を各地に与えながら関東以西の日本を統合し始める。

大和王権は4世紀後半までに生成し、同末には朝鮮三国を侵略するほどに強力になっていた。』

『邪馬台国型の各地域王権は、独占した神々の祭祀によって民衆を統合してきたが、その成長の中で、神の祭祀を逆手にとった豪族・民衆の抵抗に苦しみ、神々をてばなさざるをえなくなる。この共通の難局を乗り切るために、王たちは朝鮮半島から高度な文物を独占的に摂取し、また中国大陸の大帝国の政治的認証を求めて、地域間連合を結び、その盟主を作り出す。そして朝鮮半島における三国鼎立状況下で、この課題を遂行するために、盟主の軍事的指導による朝鮮侵略が生まれてくる。この侵略と緊張の繰り返しは、はね返って軍事的指導者としての盟主に倭人社会全体への日常的支配の恰好の突破口を与え、次第に地域の王たちの王=大王(オオキミ)という地位を作り上げていくのである。』

そうした大王として「宋書倭国伝」に登場するのが「倭の五王」である。讃、珍、済、興、武。最後の「武王」とされる雄略天皇の時代に形や内容が整えられ始めたとして「大嘗の祭」の起源が描かれている。今も天皇も最も重要な儀式と言われる「新嘗祭」のことだ。

序 章  倭国、朝鮮へ

第1章  大和王権の登場

付 章  古墳ものがたり

第2章  大王の世紀

付 章  王権の継承・大嘗の祭

「大嘗の祭」について石ノ森章太郎は次のように書いている。

『大王は常に神と共にあることが必要であった。 毎年、天地を司る神から霊力を受け、その恵みを臣下に分け与えることによって、大王は大王たり得るのだ。 そのための儀式が「大嘗の祭」である。』

その内容が興味深い。解説部分を抜き出す。

『「大嘗の祭」は、そのために建てられた特別の宮殿で行われる。だが、ここに至るまでに、さまざまな儀式を通過しなければならない。』

『まず大祓をして、国中から穢れや病を祓い除く。 さらに、抜穂使を特定の地方に遣わして、「大嘗の祭」用の飯と酒をつくるための稲穂を抜き取り、大王は御祓を行い、自身を浄化する。』

『11月頃、魂鎮。タマフリともいう。魂を鎮めることは、同時に、魂を奮い起こすことでもあった。大王に潜在的に宿る神的な霊を引き出すのである。』

『そして、大王は湯浴みして、大嘗の宮殿に向かう。大嘗の宮殿(悠紀殿)に入った大王は、目に見えない至高の神と共に食事をする。そのあとが、真床覆衾(まどこおふすま)という儀式である。この真床覆衾という儀式によって、大王はおそらく、至高の神の霊力を得たのだろう。』

『悠紀殿の儀式が終わると、大王は再び湯浴みをして、主基殿に向かう。そしてまた同じことを繰り返すのだ。主基殿での儀式を終えた大王は、待ち受けるすべての氏族に自分が神と一体になったことを伝える。臣下はそれを言祝ぐ(ことほぐ)。』

『豊明節会(とよあかりのせちえ)は、この後、日をおいて行われたのである。服属を誓った氏族に対する大王の返礼の宴であると同時に、大王が得た至高の神の霊力を分配するためのものである。 そのために大王は氏族を代表する女たちを自分のもとに呼び寄せ、女たちは、大王のもとに赴き、大王の持つ神の霊力を分け与えられた。』

『「大嘗の祭」は、大王の超越的な力が、神から分け与えられたことの証を示すものである。力による王権の争いが激しくなればなるほど、神と人は離れ、それ故にこそ必要な虚構として強化され整えられていった、といえよう。』

『倭の五王の時代とは、共有する神をかかげて逆らう民を抑えて、統一王権の確立のために、幾つもの王朝が興亡する血みどろの戦いを続けなければならなかった、熾烈な時代だったのである。』

こうした皇室行事については、秘中の秘であるため、ネット上にもさまざまな説明がなされているようだ。このマンガに描かれていることが必ずしも真実だとは思っていない。

ただ天皇の退位が決まり、新たな天皇が即位する時、そのルーツが何であったのかあまりに知らない私たち現代の日本人のあり様も如何なものかとは思う。

4巻は「王統譜を編み上げる大和王権」。5世紀末から6世紀末にかけての日本が描かれる。

『大和王権が超越的権力へ発達してゆく時代であり、この時代になると、「日本書紀」の記述が具体的になり、かなりの部分で中国・朝鮮の史料の語るところと一致するようになる。』

この巻で主役として描かれるのが継体天皇。雄略天皇以後の不安定な王権継承の中で、残虐を極めた武烈天皇の後を立て直すべき大王として、大伴金村らによって越前から担ぎ出された。

天皇を「万世一系」とする王統譜(皇統譜)はこの時代から整備されたようだ。

『継体朝以後、対立の時代を含みながらも、王統がその直系の子孫に担われるようになったことは、王統そのものが直系・一系化してきたことを意味するが、そうなると、それを実現した大王権は、前時代までの大王家の王権簒奪の可能性を防いで安定を計るべく、例えばナカツヒメという婚姻・親族関係を構想することを含めて、継体朝以前の諸王統譜を継体王統に収斂するものとして取り込み、一系の王統譜へと編み上げる必要を感じるようになる。

近年学界では、記紀の元となった一系の王統譜=帝紀と、神々の物語=旧時は推古朝に編纂されたもので、その準備は欽明・敏達朝ごろから始まったとする見解が有力である。』

要するに現在の天皇家の一系のスタートは継体天皇ということになるようだ。その正当性を強調するため、天照大神からの流れを創造したのにもその当時の事情があったのだろう。しかしそれから千年以上経ってしまうと、何が真実で何が創造なのか専門家でもはっきりしなくなってしまう。

女系天皇論議を聞いていて違和感を感じるのは、ルーツが神につながって語られる天皇の万世一系を私が信じていないからなのかもしれない。

序 章  越前・三国

第1章  吉備の乱

第2章  継体王朝と磐井の乱

付 章  仏教伝来

第3章  仏教受容で揺れる王権

この巻のもう一つの主題は仏教伝来。インドで生まれた仏教は西暦67年に中国に伝わり、4世紀に朝鮮半島、そして6世紀に仏像と共に日本に伝えられた。

日本古来の信仰と仏教を巡って、物部氏と蘇我氏が激しく対立する。

『蘇我氏が仏教を支持したのは、稲目の父の蘇我高麗の名が示すように、もともと渡来系の氏族だったからであろう。』

蘇我氏は半島からの渡来人だったようだ。

『蘇我氏が仏教を受け入れたのは、百済と違って国を挙げて仏教に帰依していた新羅が、大いに栄えているのを見ていたからである。百済から技術や文化の受容によって大量に流入していた渡来人の合意を得て国内の安定を図るためにも、旧来の神祇信仰に代わって、普遍宗教として仏教が必要であることを、蘇我氏は見抜いていたのである。』

そして蘇我氏が物部氏を滅ぼす戦で活躍したのが厩戸皇子、後の聖徳太子であった。

そして5巻は「隋・唐帝国と大化の改新」。6世紀末から7世紀半ば、大和王権が国際的緊張を逆手にとって、律令国家への道を歩み出す時代を描く。

『西暦598年、長らく分権状態にあった中国大陸が隋によって統一されたことは、東アジア諸国に大きな衝撃を与えた。高句麗、百済に続き新羅も朝貢して冊封された。中華帝国を頂点とする統一的な国際秩序を受け容れ支えることによって、武力制圧をかわし、国際社会での安定と強化を図ろうとしたのである。

大和王権にとっても、ことは対岸の火ではない。そもそも大和王権は初めから朝鮮南部を軍事的に支配することで、国内統一を実現し維持してきた。だが、隋を頂点とする一元的な国際秩序が出現した結果、朝鮮南部諸国は、隋を盾として日本からの離脱を図ろうとする。それだけでなく、朝貢の礼をとった高句麗に対してさえ隋は598年に出兵したから、大和王権は隋に直接支配される危険を感じた。』

島国日本は大陸から切り離されていたため独立を維持できたと考えていたが、昔もいろいろ大変だったのだ。

そして隋の統一に先立つ592年、わが国最初の女帝として推古天皇が誕生し、その翌年、甥の厩戸王子が19歳で摂政に就任した。

序 章  女帝誕生

第1章  聖徳太子の改革

第2章  蘇我氏の専横

第3章  大化の改新

第4章  皇極天皇重祚

この時代は、学校でかなりガッツリ教えられた気がする。明治以降の天皇中心社会では、聖徳太子や大化の改新のエピソードは子供達に教え込みたいことだったのだろう。しかし、実際に聖徳太子の改革がその後の歴史にどれほどのインパクトがあったのか、ちょっと怪しい気がしている。

ちょっと新鮮だったのは、この当時の国際情勢だ。

『大化の改新以後の一連の改革で国力をつけた大和朝廷は、軍船180艘を発して東北地方に跋扈する蝦夷を征討しようとする(西暦658年)。 大化の改新以来作り出した戦闘的な軍事体制を対蝦夷で試し、唐の侵略に備えたのである。 一方、外交による唐への配慮も抜かりなく続けられた。西暦659年、遣唐使を派遣。その折、大和朝廷に服属した蝦夷の男女を同道した。大和朝廷は蝦夷を服属させる力を持っている。したがって唐とは対等の国であるという国力の誇示にあった。』

さらに660年、唐と新羅が連合して百済を潰す。百済からの救援要請を受け、斉明天皇自ら百済救援軍を率いて前線基地の九州に向かった。

日本も意外に国際的だったんだということに改めて気付かされた。

続きの6巻から10巻を図書館に予約してある。その内容はまたこのブログに記録しておきたい。でも、残念ながら最近記憶が定着しない。すぐに忘れてしまいそうだ。

 

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