カズオ・イシグロ

今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの小説「日の名残り」を読み終えた。

舞台は1956年のイギリス。

オックスフォードシャーの由緒あるお屋敷で働く執事が、主人から休暇をもらい田舎にドライブ旅行に出かける。イギリスの美しい田園風景の中で、過去のお屋敷での出来事が執事の胸に去来する。

老執事の一人語りで綴られる物語は、現在と過去を行きつ戻りつしながら淡々と進んでいく。特に驚くようなことが起きるわけではない。

イギリス文化を体現する執事という人種の思考方法が日本人には興味深い。慇懃で伝統に忠実で融通がきかない。こんな上司は嫌だなあと思うシーンもいくつも出てくる。ただ読み進むうちにこの主人公にも慣れ、常に完璧であろうと努力する職業人の優しさも感じられるようになる。

執事が使えるダーリントン卿は高潔な理想主義者だが、第一次大戦後ドイツに融和的な姿勢で臨み、ナチスドイツとイギリスの高官の橋渡し役を果たす。この貴族はヨーロッパの平和を守るということを最優先に行動し、母国からはナチスの協力者として厳しく非難されることになる。執事はお屋敷で繰り広げられる国際政治の重要な場面に立ち会う。

この小説で私が一番興味深かったのは、第一次大戦と第二次大戦の間のイギリスの国内政治だ。2つの大戦で激しく戦った両国だが、ドイツへの巨額賠償についてイギリスは否定的だった。そしてダーリントン卿の印象的なセリフが出てくる。

「イギリスはいつでもびりっけつだ、スティーブンス。時代遅れの制度に最後までしがみついている国、それがイギリスだ。だが、遅かれ早かれ、事実には直面せねばならん。民主主義は過ぎ去った時代のものだ。普通選挙にいつまでもこだわっていられるほど、いまの世界は単純な場所ではない。烏合の衆が話し合って何になる。」

「われわれは長引く経済危機の真っ只中にいる。北部を旅行したとき、私は、人々が苦しんでいるのをこの目で見てきた。働き者の、普通の労働者がひどく苦しんでいるのだ。ドイツとイタリアは行動によって建直しをはかった。赤色ロシアにしても、まあ、それなりの方法で何とかやっていると言ってよかろう。それに、ルーズベルト大統領を見てみるといい。国民のために大胆な一歩を踏み出すことを恐れはしなかった。それに比べてイギリスはどうだ。時間だけは一年一年過ぎていくのに、何もよくならない。われわれがすることといえば、討論し、口論し、時間を引き延ばすだけだ。せっかくのいい考えも、あの委員会この委員会を通過しているうちに、全行程の半分もいかないうちにすっかり骨抜きにされてしまう。もののわかった少数派は、周囲の無知な多数派に野次り倒されて、沈黙せざるをえない。」

「ドイツとイタリアを見よ、私はそう言いたい。強い指導者に行動の機会を与えれば、どれほどのことができるかをな。普通選挙だ何だというたわごとは、あの国々では誰も言わない。家が火事になったらどうする? 家族全員を居間に集めて、どの逃げ道が最適か一時間も討論するか? 昔ならそれでよかった、昔ならば。だが、世界はすっかり複雑な場所に変わってしまった。その辺を歩いている人が、誰でも政治学と経済学と世界貿易のことを知っているとは期待できまい? だいたい、一般人にはそんなことを知っている必然性がないのだ。」

立憲政治、議会政治の母国ですら民主主義の非効率性を嘆き、強いリーダーが全てを決めて国を導く効率的なファシズムこそが新しい時代の政治だと憧れた。その後の歴史を知る我々からすると違和感のある発言だが、冷静に考えると政治リーダーたちにとって無知な大衆の意見を気にしなければならない民主主義という仕組みは本当に非効率だと思えるのだろう。

大衆はぶれる。文字通り「風」のようだ。そんな当てにならない風に国の進路を委ねるリスクを感じたとしても不思議ではない。政治を担うエリートたちは、自分こそ優秀だと考える人が多い。優秀な人間が広い視野で情報を収集し適切な判断を下す方がいいに決まっている、そう考える政治家はいつの時代にもいる。しかし、優秀な政治家が大きな過ちを犯すことを歴史は何度となく目撃してきた。

安倍さんの危うさも、どこかそんな部分を感じさせることだ。

ただこの小説は決して政治ものではない。縦軸となるのは、共に働く女中頭との友情と葛藤、そして別れ。ドライブ旅行で執事は、お屋敷をやめて結婚したこの元女中頭に会いに行く。2人の職業的な会話は、常に事務的なのだがその中にお互いの感情の機微がかすかに織り込まれる。そして、20年ぶりに再会した女性の口から語られた言葉とは・・・。

さらに、「品格とは?」というのもこの小説のテーマかもしれない。品格とは何か? およそ品格とはほど遠い私には知る由もないが、紳士の国イギリスならではの品格論は一考に値するだろう。

日本生まれの日本人だったイシグロ氏が書いた文字通りのイギリス文学。

穏やかな読後感が残った。

 

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