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東北・蝦夷の魂

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鹿島神宮

先日NHKの「ブラタモリ」を見ていたら、急に「蝦夷(えみし)」に興味が湧いた。

この時の放送は、茨城県の鹿島神宮。何の知識もないままに見ていると、本殿が北を向いていると言う話が出てきた。

つまり鹿島神宮は、北の蝦夷の脅威から朝廷を守るために建てられたというのである。

日本には「神宮」と呼ばれる神社は3つしかない。伊勢神宮と鹿島神宮、そして千葉県北部にある香取神宮の3つだ。確かに、そんな大事な神宮がどうして宮古から遠く離れた関東にあるのか不思議に思った。

これまで蝦夷に興味を持ったことはなく、よって全く知識がない。そこで、関連する本を図書館で探してみることにした。

高橋克彦

そして読んだのが、高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」という本だ。

高橋さんは、江戸川乱歩賞や日本推理作家協会賞などを受賞しているミステリー文学の大家だが、盛岡に暮らし、東北や蝦夷を主人公とする歴史小説も書いている。

「風の陣」「火怨」「炎立つ」「天を衝く」は蝦夷4部作と呼ばれ、勝者によって書かれた「正史」からは抹消された東北人たちの物語を掘り起こすことに強いこだわりを持っているという。

「東北・蝦夷の魂」は、東日本大震災後に高橋さんへのインタビューをまとめる形でくるられた本で、私たちが抱いている常識を覆す興味深い説がたくさん収められている。

そんな本から、私の心に残った部分を書き残していきたいと思う。

大和と和

中央政権からは逆賊と呼ばれるヒーローを、岩手が排出してきたのは偶然ではない。もともと阿弖流為(アテルイ)の時代の何百年も前から、朝廷と東北には対立構造があったのだ。まずは、私が長年考察を重ねてきた「出雲の国譲り」の真相から話を始めよう。

遥か昔、出雲には「和」と呼ばれる国の人々が暮らしていた。やがて大陸から九州に渡ってきた邪馬台国、つまりヤマト族の集団が北上を続け、出雲で「和」の人々と敵対関係になった。最終的に畿内全域を統一したヤマト族は、出雲王朝である「和」から国を譲られたという神話を広め、大和朝廷を作り上げた。

そもそも何故、「大和」と書いて「やまと」と読むのか?

「大」を「や」と読むこともなければ、「和」を「まと」と読むこともない。私たちは「大和」は「やまと」と読むものと刷り込まれてしまったので、それが当たり前になっている。

日本の古い言葉には文字がなかった。そのため中国から伝わった感じの中から、意味の同じ文字を原日本語に当てはめて使った。

これで「大和」とは何かが見えてくる。

ヤマト族は「和」の国を邪馬台国に組み入れた。だが、「和」と交流のあった中国は、それをヤマト族の侵略行為だとして、併合を認めなかったのではないか。そのためヤマト族は出雲王朝の「和」から正式に国を譲ってもらったことにした。そして邪馬台国と「和」という二つの国が合体して「大きな和の国、つまり大和となりました」と宣言したのだろう。

但し、読み方は「だいわ」ではなく、「邪馬台=やまと」とした。外交上の国家名が「大和」であれば、中国も今まであった「和」が新たに再統一されたものだと認定するしかない。

「和」の人々は「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。東北に定住した者は蝦夷と呼ばれ、九州に定住した者は隼人と呼ばれるようになった。だから東北に暮らす我々は、意味氏の末裔ということになる。

蝦夷はもともと「和」の国の人々だったのだ。

蝦夷から受け継がれたDNAによって、我々は無意識のうちに自分が「和」の国の人間たちだとわかっている。だから「和服」「和食」「和訳」などの言葉も、当然のように受け入れている。

では、「和」の国の和とは何であるのか?

それは親和の和であり、平和の和である。ヤマト族が「大和」を「やまと」と呼んだため、「和」の言葉の本来の意味が曖昧になった。

「和」の国の「わ」は、リングの「輪」でもある。

「全員で和になるように手をつなぎ互いに助け合う」のが、「和」の民の精神だった。だからこそ大和朝廷は、阿弖流為や安部貞任を滅ぼそうとした。本来、大和と「和」は敵対していた国だからだ。

今でこそ単一国家とされているが、少なくとも鎌倉時代の初め頃までは、明らかに日本には国が二つあった。大和朝廷が支配する国と、出雲王朝の流れを汲む「和」の人たちの国である。

その対立構造の中に、阿弖流為や安部貞任の戦があった。

聖武天皇が東大寺の大仏に鍍金(メッキ)する黄金を求めていると、たまたま東北で金が産出した。それまで朝廷にとって東北は戦をする価値もない土地だった。多賀城をこしらえたのも、東北を支配するというより、ここまでは我々の領域だぞと蝦夷に示すためだった。

多賀城は蝦夷を滅ぼすための最前線と説明されているが、そうではない。ローマ帝国が北方民族の侵入を防ぐため長城を作ったのと同じ発想で生まれたものなのだ。

それまでは利害がぶつからないから協調していた。ところが蝦夷の国に黄金が出現したため、朝廷軍が入り込むようになった。こうして蝦夷と朝廷との長い戦いが始まる。

古代東北の民・蝦夷は、本来穏やかな暮らしを好む「和」の民だった。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

阿弖流為とは、征夷大将軍・坂上田村麻呂と戦った蝦夷の棟梁であり、安倍貞任は前九年の役で源氏と敵対した有力豪族安部氏の棟梁である。ちなみに安部首相は自らを安部氏の末裔だと自ら語っているそうだ。

この一連の「出雲の国譲り」にまつわる高橋氏の説はとても説得力がある。

古事記や日本書紀に登場するこの神話は、とても不思議な話である。大国主命をはじめとする国つ神が、天から降りてきた天つ神に国を譲る理由がよく理解できなかった。因幡の白兎でもわかるように大国主命はいい神様なのに、突然天上の天照大神から交代を告げられるのは、とても理不尽な気がしていた。

国譲りの真相

秋田県鹿角市に「大湯ストーンサークル」というのがあり、高橋氏は若い頃この謎を解こうと資料を当たっていくうちに東北に竜にまつわる伝説が多いことに気づく。

東北のストーンサークルを造った人たちは竜信仰を持っていたようだ。

日本の龍信仰の始まりは出雲からである。出雲の斐伊川の上流には八岐大蛇(やまたのおろち)伝説がある。その地で八岐大蛇は神として崇敬されていた。ところが出雲王朝を滅ぼしたヤマト族=天照系の神話では、八岐大蛇は邪悪とされ須佐之男命(すさのおのみこと)が退治してしまう。

出雲を支配していたのは大国主命たちである。東北には大国主命を祀る神社が多いのに、本家本元の出雲には大国主命を祀る神社は出雲大社しかない。もっと奇妙なのは、出雲大社での大国主命の祀られ方だ。拝殿の中には大国主命がいて、それを取り囲む形で天照の神々が配置されている。まるで大国主命を逃さぬよう見張っているかのようだ。

神話によれば天孫族たち、つまり天照系の一派が日本にやって来た時、出雲を治めていた大国主命たちは快く国譲りをしたとされている。

だが、出雲大社の成り立ちは、天照一派が大国主命一派を服従させたことを示すものだったのだ。

新しい支配者が古い支配者を塔に幽閉するのは世界共通だ。

古い支配者に国土を眺めさせるためにではない。かつての支配者が決して救出できないところにいるのを、民に見せつけるためだ。だから大国主命も天孫族によって高い場所に幽閉された。

伝承によれば出雲大社の本殿は130mを超す高さだったとされる。それは見せしめとして造られたのであって、決して大国主命への尊敬からではなかった。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

これは、面白い。

なぜ出雲の地に日本一の高層建築が築かれたのか、これまでどうもしっくりこなかったが、高橋氏の説は目から鱗である。

さらに・・・

では、大国主命に従っていた国つ神たち、つまり日本の先住民の首領たちは、出雲を追われてどこへ行ったのか?

長野の諏訪明神の御神体は蛇=竜だ。

諏訪大社に祀られている建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主命の子で、国譲りを迫る天照の使者建御雷(たけみかづち)と力比べをして敗れ諏訪へ逃げた。のちに様々な祟りをなしたので、朝廷は大和に三輪神社を建立する。

主祭神の大物主大神は蛇神である。三輪神社の縁起は、大国主命が自らの幸御魂・奇御魂を三輪山に祀ったのがそもそもの始まりという。このことからも日本の国つ神は龍の系列であったと考えられる。

「日本書紀」では地上に現れた一番最初の神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)とされている。国常立尊は天から命じられて九州に降り立ったものの、何十年経っても報告に戻ろうとしない。そこで天の使いが何度もやって来るが、国常立尊は国つ神たちの仲間になっていた。

業を煮やして、ついに天照が降りてくる。

出雲を征服した天照らは、畿内へと攻め込む。戦闘準備をして待ち構えていたのが、現在の奈良県一帯を支配する豪族・長髄彦(ながすねひこ)だった。天照一派の遠征軍を率いる五瀬命(いつせのみこと)は、長髄彦の弓に当たって死ぬ。五瀬命の弟、磐余彦尊(いわれびこのみこと)は一旦退却し、八咫烏に導かれて熊野から吉野川を遡り奈良へと至る。

「古事記」は、その後の長髄彦と天照軍の攻防に触れていないが、饒速日命(にぎはやひのみこと)の神が磐余彦尊に帰順の意向を示したことで、天照軍は畿内を制圧したことになっている。

饒速日命は長髄彦の妹と結婚していた。「日本書紀」は天照軍に服属しない長髄彦を饒速日命が殺したとしている。磐余彦尊とは後の神武天皇だ。

長髄彦ゆかりの神社が、青森県の十三湊(とさみなと)の近くに今もある。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

もし出雲の国が、大和朝廷によって武力で征服されたことを意味しているとすると、話の筋が通る。

古事記や日本書記は天武・持統天皇の時代に朝廷に都合よく編み出された神話だから、国を譲られたと主張することで、自らが国の盟主である正統性を歴史に書き込みたかったのだろう。

邪馬台国は半島から渡ってきた人たちが九州に作った国であり、それが神武東征の神話のように東に攻め上って大和朝廷となったというのも、実にすっきりと理解ができる。

ただこの説のまずいのは、天皇が半島から来た侵略者の子孫であることが明らかになってしまうことだ。だから邪馬台国論争は今も続いている。

アラハバキと縄文人

さらに、高橋氏の説に納得する理由は、縄文人は争いを好まなかったとされる説との符号である。

本の中でも、縄文人との関連が登場する。

長髄彦神社の周辺には、やはり龍の伝承が残っている。

龍の伝承はシュメールからシルクロードを経てインド、中国、最後には日本へ渡って来た。もともと、日本にあった信仰ではなく、シュメールから伝播して来たものだったのだ。だからインドや中国の伝説と日本の竜伝説はとても似ている。

津軽の民が古代から信仰していた神にアラハバキがある。

御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、いまだに正体は解明されていない。亀ヶ岡遺跡や大湯ストーンサークルからは、変わった形の壺や笛に用いたとされる菱形の土器がよく出土する。それらはトルコの辺りにかつて存在したヒッタイトの土器と非常に似ている。

ヒッタイトは世界で初めて製鉄を行なった古代帝国である。ヒッタイトのどこで土器が作られていたかを追い求めると、製鉄施設を含むアラジャ・ホユックの遺跡にたどり着く。

ヒッタイトでは鉄製品をハバルキと呼んでいた。

アラジャ・ホユックのハバルキが転じて、アラハバキになったのではないのか。

土器の類似性から、相当古い時代に龍を崇める民が日本に渡って津軽辺りに住み着き、縄文時代を作り上げた可能性があると考えている。

津軽を中心に東北のアラハバキ神社を調べていくと、御神体はほとんど鉄鉱石である。岩木山の麓にある岩木山神社もアラハバキを祀っているが、御神体は黒い鉄のような石だ。十三湊に近い洗磯崎神社も鉄鉱石を御神体にしている。

出雲の八岐大蛇の神話も、鉄鉱石を製錬するタタラから溶けて流れた鉄から連想されたと考えられる。

大国主命は相当古い時代に龍の伝承を持って日本にたどり着いた一族の末裔であり、彼らが得意としたのが鉱山開発だったのだろう。

映画化されて有名になった「砂の器」という松本清張の小説がある。

秋田県の亀田辺りらしい訛りを話す犯人を刑事たちが追い詰めていく。捜査の過程で島根県に亀嵩という場所があり、秋田の亀田そっくりの言葉を使っていることが分かる。

その亀嵩はまさに八岐大蛇伝説のある場所だ。亀嵩を含む島根の人たちが故郷を追われ、やがて東北に定着したに違いない。

出雲から海伝いに北へと逃れ、新たな民族を形成していったのが東北人のルーツなのである。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

縄文遺跡は日本中、特に東北や関東、信州などに多い。各地で交易も行われた形跡があるが、国を揺るがすような大きな戦争はなく1万年も続いたとされる。

その平和を乱したのは、稲作とともに半島から渡ってきた弥生人だった。稲作のために共同生活をし、稲作によって多くの人を養うことが可能となった。稲作はより大きな集落を作り、やがて国を生み、国同士の領土争いをもたらした。

そしてその争いを制したのが、大和朝廷であり、天皇家であった。

朝廷に追われた出雲の人々は、古来からの縄文人が暮らしていた関東や東北に逃れ、朝廷から蝦夷と呼ばれるようになる。半島から渡ってきた人から見れば、彼らは遅れた野蛮人ということになる。

でも、高橋氏が指摘するように、見方を変えると蝦夷こそ日本列島に昔から住んでいた縄文人であり、平和を愛する民だったのかもしれない。

東北は「ひのもと」

この本を読むまでは、「えみし」というのは、アイヌの人たちのことかと思っていた。でも、北海道を「蝦夷地」と呼ぶようになったのは江戸時代のことで、えみしとアイヌは全く別の民族だということを知った。

そして「みちのく」という呼び名についても記述も興味深い。

陸奥(みちのく)あるいは奥州という呼び名は、支配する側の呼び方であって、東北の本来の名称は「ひのもと」だった。

「ひのもと」は「日の本」と書く。日本と表記したために元の意味が曖昧になってしまった。

坂上田村麻呂が蝦夷の本拠まで大軍を進めていくと、そこに蝦夷の国の中心地だということを示す「壺の碑」があった。石碑には「日本中央」と刻まれていた。

田村麻呂が見つけた「壺の碑」は、あくまでも蝦夷による「ひのもと」中央碑である。東北はかつて「ひのもと」と呼ばれていた。その「ひのもと」のルーツは亀嵩である。「ひのもと」は、おそらく八岐大蛇がいた斐伊川の「もと」という意味だ。つまり斐伊川の源流のあたりが「ひのもと」だった。

出雲から東北へ追いやられた者たちが、我々は「ひのもと」の民だということを忘れぬため、「日本」の名称を使ったのだろう。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

「日本」のルーツが蝦夷にあったとは、驚きだ。

桓武天皇の野望

蝦夷と朝廷との最初の大きな戦は、阿弖流為と征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦いだ。その原因は朝廷側にあった。

桓武天皇は蝦夷制圧と平安京建設を国家の二大政策と定めていた。

これは日本という国の枠組みを自分の代で決定づけようという桓武天皇の強烈な意思の表れであった。

国の中心たる都を移動するには莫大な費用がかかる。

費用をどこから調達するかといえば税である。いつの時代も増税に賛成する民などいない。そこで桓武天皇は蝦夷の襲来があると民の危機感を煽った。奈良のような小さな都では不安だというキャンペーンを張った訳である。

新たな都の平安京では、蝦夷討伐を祈願して羅生門に兜跋毘沙門天を安置した。羅生門は東北の方角に面した鬼門である。東北から蝦夷軍が攻めてこないよう、巨大な兜跋毘沙門天を据えて都の守りとしたのである。

京の都は東北の脅威を意識して造られた都市だった。遠い東北に暮らす蝦夷は、都の民には実態が分からない。だから、いくらでも恐ろしい蛮族だと宣伝できる。とにかく獣のように凶暴な者たちだというイメージが都人に刷り込まれていった。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

安倍氏と物部氏

蝦夷と朝廷の次なる大戦は「前九年の役」、安倍貞任と源氏の戦いだ。

安倍一族とは何者なのか?

高橋さんは、蘇我氏との争いに敗れた物部氏との関係も含めて安倍氏の素性を推理する。

安倍といえば、遥か以前に蝦夷征伐を行なった阿部比羅夫が連想される。

比羅夫は渡島(現在の北海道南部)まで遠征している。東北に暮らす蝦夷の征伐ではなく、北海道のアイヌを朝廷に従わせようとしたのが比羅夫だった。

阿部比羅夫の配下の中から、かなりの人数が東北に残った痕跡がある。比羅夫の命を受けて、東北統治を試みたのかもしれない。

東北に残った者らが、比羅夫の一員であることを示すため、阿部(安倍)を名乗ったというのが私の仮説だ。

奥六郡を手中にしていた安倍氏の財力は、物部氏との関係で築かれたと考えている。

聖徳太子の時代、蘇我氏と物部氏の対立があり、物部氏は政治の中心から追われてしまった。物部氏は正史でまともに扱われることがほとんどない。第一の要因は、物部氏が饒速日命に関連して登場しているせいだ。

饒速日命は「古事記」に登場するとはいえ、正史では架空の人物とされている。だから、それに従ってきたという伝説を持つ物部氏の家系を、荒唐無稽なものと遠ざけてしまうのだろう。

蘇我氏と対立して畿内を追われるまで、物部氏は播磨などに自分たちの領土を持っていた。彼らが一番得意としたのは鉱山の開発と馬の飼育だった。

さらに物部のモノは物の怪、つまり神道に通じる。神社に馬が奉納されるのも、物部から始まっている。

神様が降りてくる磐座(いわくら)、というより鉄鉱石を見つけるのも物部の役目だ。もともと饒速日命を奉ずる出雲の民は、鉱山技術者の集団だった。

東北の神社や鉱山の多くには物部氏にまつわる伝承が残っている。安倍氏の伝説が残っている所もたいていは金山や鉄山に関係がある。安倍氏は物部氏と手を組むことによって、黄金や鉄を採取する手段を得たのだろう。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

源氏のプロパガンダ

そして、前九年の役、後三年の役を経て、勝ち残ったのは清原清衡、のちの藤原清衡だった。ここから奥州藤原氏の黄金の百年が始まる。

世界遺産となった中尊寺の金色堂が建てられたのもこの時代だ。

それに終止符を打ったのは、源頼朝だった。鎌倉幕府を開き権力を握った頼朝は、弟・義経を匿った平泉を滅亡に追い込んだ。

公家の力が衰退してきた時期に、源氏は軍事貴族として頭角を現した。公家に代わって政治を司る正当性が自分たちにはあると、常にプロパガンダしてきたグループが源氏だった。

蝦夷の反乱に終止符を打った征夷大将軍の坂上田村麻呂こそ、武将の典型で英雄だと崇められるようになったのは、死後四百年ほど経た鎌倉時代である。

頼朝は1192年に征夷大将軍に任じられている。すでに平泉を制圧した後だったが、頼朝はこの役職で奥州支配の大義を得たことになる。

源氏が田村麻呂を英雄に仕立て上げたのは、頼朝が任じられた征夷大将軍がいかに重要な役職であるかを世に知らしめようとしてのことだ。そのため「御伽草子」のような読み物を利用したプロパガンダが展開された。以後、征夷大将軍は武家の最高の位として、足利幕府、江戸幕府の歴代の当主もその役職をいただくことになる。

前九年の役に取材した軍記物語「陸奥話記」は作者未詳だが、前九年の役は源頼義が王権保護のために「賊徒」安倍氏を誅した戦いであると記している。「源氏史観」で貫かれた内容からして、源氏のプロパガンダの一環として書かれたのではないかと考えられる。安倍貞任らを日本最大の逆賊として描いているのは、敵を大きく見せないと、それを討った源氏の力を示せないからだ。「陸奥話記」には、源頼義の行動を正当化し、安倍氏の側に合戦の責任を負わせるための虚構や史実の改変が随所に見られる。平泉に関しても同様で、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」も、プロパガンダのためそうとう手が加えられている可能性がある。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

東北の視点

本では、この後、豊臣秀吉に反抗した九戸政実、戊辰戦争で薩長に対抗した奥羽越列藩同盟についても書かれている。

いつの時代も、中央の権力者の勝手で攻撃され、常に負けながらもプライドを保った東北人への愛にあふれた作品だ。

そのうえで高橋氏は、東日本大震災の際、世界を驚嘆させたお互いを思い合う住民たちの振る舞いこそ、「和」の民の精神だと書いている。

東北は千数百年も前から「和」の精神を根底に据え生活してきた。東北から中央政権に戦いを挑んだことなど一度もない。なのに何度も大きな戦に巻き込まれてきた。中央の権力が東北を攻めたのは、金や馬を手に入れるためだった。

さらに近代になると、東北は兵士の供給地となり、電力の供給地とされ、東北に中央では得られないものを負担させる構図となった。

今、福島第一原子力発電所の大惨事を経験し、何十年も立ち入りできない地域も出てきている。これからの日本は、古代から東北にある「和」の精神で生きていく術を学ばなければ立ち直れない。

何度も戦いに敗れながらも、決して屈しなかった東北を、私は語り続けるつもりだ。

高橋克彦著「東北・蝦夷の魂」より

ちょっと視点を変えると、より真実が見えてくる。

天皇中心に書かれた日本の正史よりも、東北の視点で書かれた高橋氏の説の方が本当の歴史に近い気がする。

現代人が常識と思っている日本の歴史の多くは、明治政府の都合で作られた「正史」である。

蝦夷に関する資料がほとんど残っていないため、推測の域を出ないのが残念だが、日本を知るためには蝦夷について知ることが絶対に必要だということは、この本を読んで痛感した。

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