<きちたび>1979年ロサンゼルスの旅② ロスでのちょっと甘酸っぱい遊学生活

先日偶然見つけた若き日のノート。

そこには、大学3年の時に休学して実現させた初めての一人旅の記録が残っていた。

半年間アルバイトでお金を貯め、およそ8ヶ月かけて自動車で中南米を回るという大胆な計画を立てた。

しかしそんな学生の安易な計画は、すぐに破綻して行き当たりばったりの旅が始まる。

ノートの記録をもとにして、21歳の私がこの旅でどんな体験をしたのか、このブログに書き残しておこうと思う。

第二弾は、自動車での中南米一周という夢を早々に断念し、語学学習を目的に3ヶ月半を過ごしたロサンゼルスでの「遊学生活」のお話である。

サンフランシスコへのドライブ旅行

若き日の私がロサンゼルス到着後に書き始めた日記はわずか3日ほどでストップしていた。

文字通りの三日坊主、私の欠点はいろいろ思いついて始めても長続きしないことなのだ。

そして、日記が唐突に再開したのはその年の12月に入ってからだった。

12/1(日)

今日、シャワーを浴びている最中、足を滑らせて頭から風呂桶の外に転落した。たまには頭を打ってみるのもいいものだ。先週のサンフランシスコ行きからの脱力感とスランプがいっぺんに吹き飛んだ思いだ。気付いてみれば早12月。日本では師走、師走とみんな走っている頃だ。この日記も何と長い空白であったことか。今日は久々に少し単語が頭に入った。これも転んで単語を風呂場に落としたせいだろうか。

旅のノートより

「先週のサンフランシスコ行き」という言葉が書いてある。

そういえば、ロサンゼルスで知り合った3人の日本人男女を私の車に乗せて、サンフランシスコまでドライブしたことがあった。

あれは11月末だったのか・・・。

シゲさんとアケミと、あれっもう一人の女の子、名前なんだったっけ?

ロスでの私の「遊学生活」もこの頃にはすでに3ヶ月が過ぎ、相変わらず「アダルトスクール」に通ってはいたが、肝心の語学力の進歩はあまり芳しくなかった。

サンフランシスコでは、有名な路面電車に乗ったり、観光名所の「フィッシャーマンズワーフ」を訪れたり、完全なおのぼりさんになり切って旅行を楽しんだ。

アルバムをめくると、港で撮影したこんな格好いいおじさんの写真が残っていた。

誰が言い出したのかは忘れたが、ゴールデンゲートブリッジを渡ってダウンタウンから1時間ほど、「ミュアウッズ国定公園」にも足を伸ばした。

ここには樹高80メートルにもなるレッドウッドの巨木が立ち並んでいて、太古の時代にタイムスリップしたような厳粛さに圧倒されたことを今でも覚えている。

しかし個人的にこのドライブで最も記憶に残っているのは、ロサンゼルスからサンフランシスコに向かう時通ったハイウェイ1号線の絶景とそこに建つ豪邸の数々だった。

アメリカの金持ちは半端ない。

本当の金持ちはビバリーヒルズではなく、こうした大自然の中で暮らしているのだということを知った。

中でもモントレーやカーメルといった街の美しさには圧倒された。

港に並ぶたくさんの大型ヨット。

海岸線にポツリポツリと建つ大きな邸宅。

これぞまさにアメリカンドリームを体現した街なのだと思った。

今にして思えば、ゴルフで有名なペブルビーチはまさにこのエリアにあるのだが、当時の私はそのような地名など何も知らず、偶然ドライブ中に通った街として強い印象だけが残ったのだ。

ついでながら、日記には一切記述はないが、私のアルバムにはサンディエゴの写真が何枚か残っていた。

一緒に行った日本人男性との写真もあるのだが、それが誰だったか思い出せない。

ただ旅行の目的は明確で、サンディエゴの空軍基地で行われた「ブルーエンジェルス」の航空ショーを見ることだった。

なぜ「ブルーエンジェルス」を見たいと思ったのかは記憶にない。

ひょっとすると誘われてついていただけかもしれないが、当時の私にとって軍隊というものがそれまで全く接点がなかった新鮮な興味の対象だったことは間違いない。

広大な基地内を自由に歩き回る経験は私を興奮させた。

たくさんの観客がいたが、みんな自由な感じで、思い思いに楽しんでいる。

世界最強のアメリカ軍は、日本の自衛隊とはだいぶ印象が違って、オープンで格好良く、自由の国アメリカを象徴する存在だと若き日の私の目には映ったようだ。

はっきりとした記憶は何も残っていないのだが、ここサンディエゴで唯一妙に覚えていることがある。

それは、空軍基地に持っていくためにマクドナルドに立ち寄ってコカコーラのラージを注文したことだ。

日本サイズのラージをイメージしていると、とんでもない大きさの紙容器を渡された。

その驚きがあまりに大きかったのだろう。

そんなどうでもいいことだけ、不思議なほどはっきりと記憶しているのだ。

アメリカはとてつもなくデカい。

マクドナルドのコーラは、若き日の私が抱いていたそんな印象を象徴する一つの出来事だったに違いない。

「ルームメイト」ヘルマン氏の話

ロサンゼルスでの長期滞在を決意した私は、アダルトスクールの掲示板にルームメイト募集の張り紙を貼ってみた。

おそらくロスに到着後、半月ほど経った頃だったような気がする。

すぐに何人かが訪ねてきた。

その大半は、一見してゲイだとわかる男たちで、「悪いが私はゲイではない」と言って断った。

そんな中で一人、子供もいるというラテン系の男がいた。

名前はヘルマンといい、エルサルバドルから家族でロサンゼルスにやってきた移民だった。

中南米への旅行を計画していた私にとって、彼との同居はスペイン語の習得にも役立つと思い、ヘルマン氏とルームシェアすることを決めた。

子供も設けている彼なら、ゲイではないだろうというのも決め手だった。

ヘルマン氏はすでに郊外のパサデナに家を借りる手筈を整えていた。

住所は、6741 N Figueroa St. 。

玄関を入るとすぐにリビングがあり、ベッドルームは2つ、家具付きで駐車スペースも目の前にあるルームシェアには理想的な物件だった。

こうして私はリトルトウキョウの安宿から抜け出し、ここでの新生活をスタートさせたのは、おそらく10月初めのことだったと思う。

さて、12月初めの日記にはヘルマン氏とのこんな日常が描かれていた。

ヘルマン氏はあいも変わらず、愛車コロナを今日こそ直すと意気込んで出かけたが、結局今日も終わらなかったようだ。それどころか、さらにブレーキとタイヤのベアリングがダメなのが判明し、無一文の彼はさらに負債を負うことになりそうだ。しかし、彼の楽天性にも頭が下がる。普通だと、自分の車に欠陥があったのだから、「このボロ車めが」とか言って、蹴りの一つもくれてやるところだが、彼の場合、そこを修理することによって、1つではなくて、3つも愛車が改善されることが嬉しくてたまらない様子だ。金銭のほうも、おとといの給料日に手に入れた200ドルがもうなくなって、明日払う部屋代は俺が立て替える羽目だ。そういう状態にありながら、「自分は人に金を借りるのが嫌いだ、気分な良くない」とはよく言えたものだ。でも、確かに彼の場合、自分が金を手にしたら、すぐに借金を清算したがるので、それもまんざら嘘でもないのだろうか。

旅のノートより

別の日の日記にはこんな記述がある。

家に帰ると、今日もまたヘルマン氏が、スピーチの原稿作り。またトピックを変えたらしい。毎日トピックを変えていたんでは、いつまで経っても原稿ができあがらないのは当然だ。これで、もう2週間ほど同じことを繰り返している。全く非生産的な人物である。それだけなら別に構わないのだが、ヘルマン氏は根本的に英文法が分かっておらず、スペイン語の直訳しかできないので、彼の「スパングリッシュ・センテンス」を添削するのが私の毎日の日課になってしまっているからたまらない。いい加減、彼のスピーチが終わってもらわないことには、落ち着いて勉強できやしない。

旅のノートより

中南米からカリフォルニアに移住したヒスパニックの人たちは日本人とは違ってどんどん喋るが文法はお構いなし。

さらに英語を喋れなくてもスペイン語でも生活できるコミュニティーも多いので、ヘルマン氏の両親などは全く英語を話さなかった。

その分、家族の団結は驚くほどで、日記にはこんな記述も残っている。

12/16(日) 晴 時々 曇

今日はヘルマン氏の一人息子デービットの洗礼式の日。例によって石のごとき団結力のヘルマン一家、総動員はもちろんのこと、ブランカの男友達2人、そして今日の主役デービットとアナ(ヘルマン氏の元パートナー)、そして俺。しかし、教会では1家族の割り当て人数があり、とてもじゃないこんな大人数は入りきらない。結局、ブランカ、マリナ、ブランカの友人たちは外、俺は立ち見とあいなった。バプティズムの式が始まり、まず神父が母親と子供が最も通路寄りに、そしてその隣に父親が座るように言った。ヘルマン氏が席を移ろうとすると、アナ嬢は「来ないで」。次いで、神父は話のあと、宣誓のため父母に起立を命じた。ヘルマン氏が立とうとすると、またアナ嬢は「立たないで」。いよいよ洗礼の時。彼らはカトリックなので、母親、父親、名付け親2人の計4人が子供に付き添う。デービットの番になる。ヘルマン氏も立って前に出ようとする。またまたアナ嬢は「来ないで」と言う。そこで写真撮影がてら、俺がヘルマン氏の代理に。ヘルマン氏は完全に頭に来て、教会から出て行ってしまう。

とにかく、ヘルマン氏の女関係、というよりはラテン人の異性関係というのは、日本人とはだいぶ違っているようだ。一般的に初体験の時期は早く、15〜17ぐらいが普通のようだ。ミサエルが言っていたが、「もしチャンスがあれば12〜14歳の女の子でも抱きたい」のだそうだ。シゲさんが友人の言として話していた「ラテンの人間は最大の楽しみ、趣味が異性であり、他に趣味を持たない」というのもまんざら間違っていないようだ。

しかし、これを普遍化してしまうことはできない。というのは、ラテン人は一般的に信仰心が強く、保守的な家庭で育った女の子たちは、結婚するまでバージンを通すという子も多い。そのいい例がシルビアだ。彼女はディスコミュージックを聴くのさえ嫌なほど嫌っており、女性解放運動にも反対、パーティをやる金があれば、カンボジア人のような悲惨な状態にある人のために寄付するという女の子。もちろん彼女はまだ18になったばかり、理想に燃えている時期である。しかし、俺は彼女が真の博愛精神の持ち主だと思う。ただ彼女の欠点は、受け入れるものと拒絶するものを前もって決めてしまうことだ。

話が勝手に逸れてしまったが、ヘルマン氏とアナ嬢はもちろん結婚していない。互いにその意思もない。彼女が子供を産んだのは16の時。彼は養育費も何も払っていない。日本の男だったら、子供を作ってしまったのだから、多少その女の子に対して悪いと思うのが普通だが、ヘルマン氏曰く「あの女はバカだ」。

旅のノートより

こうして、ヘルマン氏とルームメイトになったおかげで、私はロサンゼルスのヒスパニック・コミュニティと深く交わることになった。

とにかく濃厚な家族関係と自由奔放な生き方。

彼らと過ごすうちに、逆に日本社会を客観する機会が増えた気がする。

ちなみに、ヘルマン氏は確かにゲイではなかったものの、バイセクシュアルであることがわかった。

3ヶ月の同居中、数回夜中に私のベッドに潜り込もうとしたため、その度に蹴飛ばして追い返さないとならなかったのはちょっとしたストレスでもあった。

アダルトスクールでの貴重な体験

ロサンゼルスでの生活の中心にあったのは「アダルトスクール」だった。

移民の国アメリカを象徴する学校で、英語を話せない人なら誰でも無料で語学の勉強をすることができる。

全米各地にアダルトスクールが設けられているが、私が通ったのはダウンタウンにある「エバンス・コミュニティ・アダルトスクール」だった。

上の写真は、その「エバンス」で開かれたハロウィンパーティーの一幕で、映っている女性は私の先生だった。

国籍も年齢も実に多様な生徒たちが通うこのアダルトスクールでの日々。

英語力の向上は期待したほどではなかったが、私の視野を広げる意味ではその後の人生に大いに影響したと思っている。

このアダルトスクールの授業で、私は一人のベトナム難民から想像を絶する体験を聞いたことを日記に書き記していた。

12/7 (金)例によって例の如く快晴 日中30°、深夜13°

性教育クラス(先生がゲイだったので私はこう呼んでいた)では、トゥイとカンバセーションした。彼はボートピープルだった頃のことを語ってくれた。彼は小さな船でベトナムを逃れたのだが、3日目に船が動かなくなり、それから漂流。台湾の船に拾われて台湾へ。台湾で2週間滞在したが、結局受け入れられず、別の船とわずかな食糧を与えられて再び海へ返された。その船も2日で動かなくなり、食料も尽きた。そこで、彼らは海の水を飲んだ。それが原因で全員ひどい病気になったが、他に何もなく、海の水を飲んではただただ寝ていた。そうしているうちに6人の子供が死んだ。彼らは相談して、その死体を海に捨てた。他の船では死んだ人間の肉をみんなで食ったらしい。結局、彼らは中国船に救われ、香港に行った。彼は90日以上海上にいて、うち何も食べなかった日が30日ぐらい。出発前59kgあったのが、香港についた時にはわずか32kg。誰1人、自分で歩ける者はなかった。彼の執拗なまでのコミュニストに対する憎しみの裏には、家族と別れ別れにされ、聖旨の境界を彷徨った消すに消せない体験がある。理由はともあれ、我々が口先で彼らの考えを変えられないことだけは事実である。

旅のノートより

大学生だった私は、まだ社会主義に漠然とした憧れを抱いていたので、トゥイの反共主義に違和感を抱いていたのだが、その壮絶な体験談を聞いて私の中に社会主義に対する疑念が生まれた。

ベトナムを脱出するボートピープルの波は1975年のサイゴン陥落以後10年以上続き、100万人以上が難民として様々な国に受け入れられた。

日本政府も1万人以上のボートピープルを受け入れ、中南米の旅行から帰国した私が神奈川県大和市に設けられたベトナム難民の定住センターにボランティアで通うことになったのも、この時のトゥイの話を聞いたことがきっかけとなったのだ。

アダルトスクールは原則的に英語を教える学校だが、中にはそれ以外の科目を教えるクラスもあった。

中南米旅行を計画していた私は、英語と並行してスペイン語を独学で勉強していたのだが、ハイスクールの施設を利用して夜間にスペイン語のクラスが開かれていることを知り、12月初めから通い始めた。

今日から新しいクラスを取った。これで10個目だ。今度はスパニッシュクラス。ロンパールームのあと、2ndにあるハイスクールに行く。こちらのハイスクールはグランドに夜間照明はあるし、観客用のスタンドはあるし、地下には三段の立体駐車場はあるし、まったく豊かな国だ。クラスは6:30〜9:00PM。生徒は20人ぐらい。先生は女性で、1時間に Muy bien を100回は言う。生徒の多くは、アメリカ人の老人。定年後、この夜間学校に夫婦できている人が多いようだ。そのせいか、エバンスのような賑やかさはないが、歳をとっても楽しんで勉強している姿は見ていていいものだ。日本人も1人いて、30ぐらいの男の人。こちらに来てもう7−8年になるらしい。現在失業中とのこと。授業としては、雑誌の切り抜きの写真をそれぞれに配って、それを1人1人スペイン語で説明させるのと、果物の名前5つ、乗り物の名前5つといった具合に知っている単語を黒板に書かせる練習がユニーク。わりといい感じ。

旅のノートより

英語ができない人には英語を教える学校を、そしてスペイン語を習いたいアメリカ人にはスペイン語の学校を用意しているアメリカ。

多民族国家にとって語学は、国民を一つにまとめるために必要不可欠な施設ということなのだろうが、日本のような均一化された社会では感じられない多様な価値観に気づかされるということが、単なる語学の習得を超えた意味があるように感じる。

ひょっとすると、今の私が定年後いろいろと知らないことを学びたいと考える人間になったのも、若き日のアダルトスクールでの体験が影響しているのかもしれない。

ロサンゼルスの日本人

ちょうど私がロサンゼルスで遊学していた1979年11月、イランではアメリカ大使館占拠事件が起き、アメリカ国内では反イラン世論が沸騰した。

ロス市内でも星条旗やプラカードを持った人たちが街頭でイランへの制裁を訴える緊迫した状況が続いていたが、私の周辺にいた日本人はみんな能天気で、アメリカでの生活をエンジョイしていた。

この街にやってくる日本人の若者にはいくつかのタイプがあり、留学名目でやってくるお金持ちの子息たちはいい車を乗り回し勉強もせずに遊びまくっている一方、ロサンゼルスで皿洗いなどでお金を貯めて中南米を旅行しお金がなくなるとまたこの街に帰ってくるヒッピーのような日本人もいた。

総じて言えることは、ロサンゼルスにやってくる日本人は基本的に勤勉ではなく、漠然とした何かを求めて目的なく日々を送っている人が多い感じがした。

私の日記にも、そんな何人かの日本人が登場している。

12/4 (火) 快晴 30°弱

今日、この炎天下に屋外でマップを広げて、旅行プランの立て直しをしていたら、シルビアが来てメキシコシティで滞在する時自宅に泊めてくれるという。全くラテンの人間は親切と言おうか、それほど親しくなくても、地図をやるだの案内してやるだの、その手の申し出が後を絶たない。

そこへアケミが来て、例のステキなおじさんの話をまた始めた。彼女曰く、ステキなおじさんに旅に誘われたと。しかし、彼はコカインの運び屋で金を稼いで、金銭ができたらメキシコの海岸で悠々自適の生活をしている人なのだそうだ。歳は60ぐらいのアメリカ人。彼女がホームステイしている家のマダムのボーイフレンド。そして、彼はアケミにダイビングも教えると約束したらしい。アケミ先生は大はしゃぎで、行くべきか行かざるべきかを盛んに問いかけてくる。彼女としては行きたいのだが、どうも彼女は運び屋として利用されるのではないかと危惧しているのだ。でも結局、結論は「やっぱり行かないんだよね、きっと。度胸ないのよね。やっぱり」だそうだ。

旅のノートより

もう一人の悪友。

クラスが終わった後は、シゲさんとデート。シゲさんの下宿で天ぷらと魚のフライをご馳走になった後、「ボディーショップ」に出かけた。ところがどうだ。かの有名な「ボディーショップ」がつぶれているではないか。待ちに待ったこの日がこのように裏切られるとは夢にも思わなかった。

シゲさんは私よりもかなり年長で、高校野球の名門・銚子高校野球部出身。

シゲさんから誘われた「ボディーショップ」は日本各地にあるあのコスメショップではなくて、ストリップ系の怪しいお店だったと思う。

行くあてを失った男2人は・・・

他にあてがないので、とにかくサンタモニカに行ってみることにした。が、ここでも何も見つけられない。ついでだということで、マリナ・デル・レイ、そしてロサンゼルス空港まで回ったがダメ。そこで、エロ新聞を買って、車内で読んでいたら、前に止まっていた車が後ろも見ずにバックしてきて・・・ガチャン!! 乗っていたのはアメリカ女2人。車には別に異常はないが、シゲさんは何か因縁つけて金を踏んだくれと言う。しかし、シゲさんはまるで英語はダメ人間。俺にとっても、これは能力を超えた英語を要する。そうしているうちにアメ女どもが、英語でまくし立ててくる。「わかった、わかった」と日本語で言って、「行っていいよ。気をつけろよ」とやさしい英語が勝手に口から出た。全く、言語障害はどうしようもないね。ライセンスを見て、TELを聞いておいて、作戦を立て直して相手の弱みにつけこめばよかったと後で思ったが後の祭り。全く今夜は踏んだり蹴ったりだ。

すでに時計は11時を回り、仕方がないから戻ろうかということで、ウィルシャー通りを走っていたら、いろいろ店があるじゃないの。よし、これはもう一度、今夜のやり直しだと、あるロックバーに入る。中ではまだバンドの生演奏をやっている。客は白人ばかり。本当にここはロスなのだろうかと目を疑う。全くたまげたね。ブスがいないもの。アメリカに来てから持っていた考え、すなわちどこの国の女も同じで、美人は美人だし、ブスはやはりブスで、日本人の女もまんざら捨てたものではないという考えが、音を立てて崩れていった。美人と言っても、日本の美人とは格が違う。全く、国土の広さといい、美人といい、アメリカに来ると創造主の不公平さを感じてしまう。

カウンターにやはり不当にカワイイ女の子が一人で座っている。シゲさんが俺をつついて「ねえ、ちょっと誘ってきちゃってよ。お願いだから」・・・お願いされても、困るんだよね。あのくらいカワイイと、なんだか普通の人間ではないような気がして、気楽に声なんてかけられないよ。俺が一向に動こうとしないので、シゲさんは「カウンターに移るよ」とビールとボップコーンを持って行く。

シゲさん「食べませんかって、何て言うの?」

俺「Would you like to eat ? でいいんじゃない」

すると、シゲさんはマドンナにポップコーンの皿を突きつけて、「Would you, Would you・・・」。

全くよくやるよ、あの顔して。さすが銚子商業野球部で鍛えられただけあるよ。マドンナは、笑顔で「No thannk you」。まったく立派な態度。日本のちょっとしたカワイコちゃんなら、露骨に嫌な顔するケースだよ。しかし近くから見ると一段とカワイイね。歳は20前かね。シゲさんは「Would you, Would you・・・」で持てる英語を使い果たしてしまったので、今度は俺が後を引き継ぐ。彼女はハリウッドに住んでいるが、ボーイフレンドがバンドのベースマンでついてきたのだと言う。まったく素直な言葉に、素直な表情。あんなベース男なんかにはもったいないよ。この子もいつかふられて泣くんだな、などと勝手な想像のもとに、彼女に同情し、ベース男を憎悪したり・・・。

まったく暇ですね。

旅のノートより

ロサンゼルスにいても、ほとんど観光などせず、夜遊びもほとんどしていなかったので、この日は勇んで出かけたんだと思う。

若者は馬鹿者。

でも日記を読みながら、あまりのバカさに笑ってしまった。

アケミやシゲさん、あの後どういう人生を歩んだのだろう?

ロサンゼルスでの3ヶ月半

ほとんど忘れかけていた若き日の記憶。

こうして読み返してみると、初めてみるアメリカで私は実に貴重な経験をしたことがよくわかる。

社会人になってから私の武器となったのは、どこにでも出かけて行く行動力と物事に動じない鈍感力、そして物事を複眼的に捉える思考方法だった気がする。

それらは全てロサンゼルスでの3ヶ月半から強い影響を受けていたようだ。

ロスのダウンタウンを歩けば、まさに人種のるつぼであり、それぞれの人が自らのルーツにつながる生活様式をこの街に持ち込んでいた。

インドでの体験も強烈だったが、ロサンゼルスでの経験も若き日の私の常識を打ち壊してくれた。

大人になると、禿げたり太ったり、醜くなる人も多いが、子供たちを見ればどんな人種でもみんな可愛い。

結果的には白人エスタブリッシュ層の若者とはほとんど知り合う機会はなかったが、アメリカ社会の底辺で生きるマイノリティーの人たちとは不思議なつながりができた。

私は所詮この街を通過する旅行者に過ぎず、それが故に気楽にいろんな人たちと交われたのかもしれない。

あれから40年以上の月日が流れ、社会人としての経験を積んだ今の私があの街を見た時、また違った一面が見える気がする。

いつか機会があれば、再びロサンゼルスを訪れて、若き日の足跡を辿ってみたいと思っている。

<きちたび>1979年ロサンゼルスの旅① こうして私はロスでアダルトスクールに通うことになった

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