<きちたび>1979年ロサンゼルスの旅① こうして私はロスでアダルトスクールに通うことになった

先日偶然見つけた若き日のノート。

そこには、大学3年の時に休学して実現させた初めての一人旅の記録が残っていた。

半年間アルバイトでお金を貯め、およそ8ヶ月かけて自動車で中南米を回るという大胆な計画を立てた。

しかしそんな学生の安易な計画は、すぐに破綻して行き当たりばったりの旅が始まる。

ノートの記録をもとにして、21歳の私がこの旅でどんな体験をしたのか、このブログに書き残しておこうと思う。

まずは、成田からロサンゼルスに向かう途中で遭遇した思わぬトラブルのお話である。

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1979年9月15日成田を出発

9/15 天気曇時々晴れand雨

一体どうしたことだ。これから出発だというのに、全く興奮もしなければ、緊張もしない。まるで、近くに買い物にでもいくような感じ。

昼まで準備に追われる。大勢見送りに来てくれた。明日が反対派の集会なので、送迎客は成田に行けず、箱崎でさようなら。別れもあっけらかんであった。

旅のノートより

出発当日の心境を私はこう記している。

あの当時はまだ成田空港の反対運動が活発で、ちょうど出発日翌日にも集会があって一般人は成田空港に近づけなかったようだ。

成田の夜景はすばらしい。滑走路にともる誘導灯がエメラルド、サファイア、ルビー、トパーズの石のように、美しく散りばめられている。

しかし、飛行機はすでに飛んでいるというのに、この日常的な心理状況はなんだ。ただただ腹が減るのみ。

旅のノートより

初めて見る夜の滑走路に感動したのは今でもよく覚えている。

「もうこの光景を見ただけでも、休学した価値がある」と自分に言い聞かせながら旅立ったのだ。

それにしても、機内で腹が減るというのはやはり若かった証拠で、今では飛行機に乗るだけでお腹が膨らんで仕方がない。

こうして私が乗るロサンゼルス行きの飛行機は夜の成田を飛び立って、最初の寄港地ホノルルに向かった。

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ホノルル空港でのトラブルと出会い

初めて降り立つハワイ。

飛行機の窓から紺碧の海が見えウキウキしたことを覚えている。

このホノルルでのトランジット時間中にアメリカ合衆国への入国手続きを受けるのだが、ここで思いもしないトラブルが待っていた。

9/17 晴ただしスモッグ 夕方30℃

まず昨日のことから。ハワイで入国手続きをする。ここはインドではないから、なんということはないだろうと思ったのが大きな間違い。滞在期間、目的はすんなり答え、宿泊地もガイドブックに載っていたホテルの住所を使い誤魔化したのだが、所持金のところでひっかかる。俺はチェックで9000ドル所有していたが、アメリカでは5000ドル以上は申告しなければならない。そこで係官、「どうしてそんなに持っているのか?」、「中南米に行くからである」、「それなら航空券を見せろ」、「車で行くからないのである」、「なら、ビザを見せろ」、「ビザはメキシコでとる」といった会話の末、彼は俺のパスポート等を赤い紙袋に挟み、「これを持って immigration counter へ行け」という。そこに行ってみると大変な混みよう。しかも、問題があるものばかりなので、なかなか順番が回ってこない。ホノルルでのトランジットは2時間と言っていたが、とてもそれまでには終わりそうもない。しかし、自分でも信じられないほど、その時、心が平静を保っていた。実際焦っても仕方ないのだけれど。

結局、イミグレーションではすんなり通してくれたが、俺の乗ってきたKE002便はすでに出発していた。果たして、こんなことがあっていいのだろうか。後で聞いた話ではハワイは移民が多いので特に厳しいそうだ。とにかく、次の006便に乗れたので大事には至らなかった。

旅のノートより

初めての一人旅で経験したトラブルにしては落ち着いていたようだ。

強がって書いているのかもしれないし、この時から人一番「鈍感力」が強かったのかもしれない。

大学2年生の時に先輩たちに同行する形で不条理のインド旅行を経験していたことで、トラブルには慣れていたという面もきっと幸いしたのだろう。

ノートを読み返して気になったのは私が乗っていた飛行機のコードが「KE」だったことだ。

私はずっと今はなき「パンアメリカン航空」に乗ったつもりでいたのだが、どうやら大韓航空機だった可能性が高い。

この時代、パンナムとのコードシェア便があったかどうかはわからないが、私はなんとかアメリカ入国を許されて次の便でロサンゼルスに向かった。

そしてホノルルで、一人の韓国人と出会ったのだ。

この時、一緒に引っかかった棟(ヤン)氏と知り合った。ヤン氏は、日本で貿易会社を経営している韓国人で、仕事でアメリカに行くという。息子がロスの大学に行っているそうだ。機内で朝鮮文字、韓国の経済、日本の政治、外国人に対する態度、学生運動のことなどを話した。彼の言によると、政治家には将来のビジョンが必要であり、日本の政治家はダメである。その点、朴大統領は数々の問題があるのも事実だが、国内の待遇を良くすることにより、海外にいた韓国人のエキスパートを呼び戻し、経済発展の基礎を作った。学生は何の制約もない身であり、社会の悪に対決すべきで、現在の学生はおかしい。また、日本語を学習する際、韓国語にない濁音が非常に難しく、「ガ」といった音は普通発音できないどうだ。

旅のノートより

ホノルル空港でトラブルに巻き込まれたことで偶然知り合ったヤンさんとの出会い。

機内ではずっとヤンさんの話を聞くことになるのだが、この偶然の出会いが自動車で中南米を回るという私の旅行計画を大きく狂わせることになる。

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ロサンゼルスでの最初の日

ロスには夜11時ごろ到着した。窓から見た夜景は何とも言えず、見渡す限り光の海で、道路が碁盤の目のように整えられているのがわかる。

空港にはヤン氏の息子のジュンとルームメートのベンが迎えに来ていた。彼らの車で俺のためにモーテルを探してくれたが、週末のためか、すべて no vacancy で、結局彼らのアパートに泊めてもらうことになった。途中食ったアメリカ最初の食事が味噌ラーメン $2.30 であった。彼らは、ダウンタウンからほど近い、約12畳のリビングルーム、プラス寝室、バス、トイレ、駐車場付きのアパートに住んでいるが、家賃が何と280ドルだそうで、日本との差を痛感した。

ロス空港に降り立った時、まわりが東洋人ばかりで驚いたというか、全くアメリカに来たという感慨が湧かなかった。しかし、よく見ると、ステーションワゴンを始め、でかい車が走り、タクシーの運ちゃんは長髪で、制服もなく、何か飲みながら運転していたりするのに気づく。上半身裸で迎えに来る者も多い。車検がないため、べこべこに凹んだり、屋根やボンネットのない車が平気で走っている。面白い国だ。

旅のノートより

初めて見たアメリカ。

最初の食事が味噌ラーメンだったとは、すっかり記憶が飛んでいるのでノートを読み返して吹き出した。

やっぱり記録を残しておくことは大切である。

そして翌日・・・

今日は、ジュンが車を売りたいというので見て、リトル・トウキョウにニューヨークホテルという安宿($7.50)を見つけてもらい、彼らと別れた。リトル・トウキョウはダウンタウンにある日本人街。お世辞にもきれいとは言えないが、ニュー・オータニや住銀、三菱銀行など立派なビルもある。現在ちょうどバスがストの最中とやらで2週間ほど走ってないらしく、我々マイカーを持たない者にとってはタクシーしか交通手段がないのだ。しかもそのタクシーも日本と違い、運転が下手で使わない方がいいと言われた。早く車を買わねば何もできない。

昼すぎ、ロサンゼルスの銀座というブロードウェーあたりを歩く。何のことはない。白人でいるのは浮浪者ぐらいで、ほとんどはメキシカンと黒人。街並みもまるでカルカッタのようだ。ここでは、白人が有色人種に物乞いする光景が存在する。俺も2人に頼まれた。この古い街並みの向こうに高層建築が何本か突き出ていて、その上に赤い太陽が出ていた。まだ3時だというのに、スモッグのせいで赤く見えるのである。ニューシネマに出てくる独特の色調はこうして得られるのである。

夜、オルベラ街というメキシカン居住区に行ってみた。ちょうど日曜の夜だったので、タコスなどの露店が並び、ちょっとしたお祭り。美人コンテストでは、一番メキシカンらしくない金髪のレディーが拍手や口笛の的になっていた。

旅のノートより

ロサンゼルスでの最初の宿は覚えている。

リトル・トウキョウの安宿「ニューヨークホテル」。

当初の計画ではロサンゼルスで自動車を購入し、すぐにメキシコシティに移動して語学の勉強をするつもりだった。

しかし、ずさんな計画はすぐに破綻し、私はしばらくこの安宿に止まることになる。

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ロス2日目にして計画が破綻する

9/18 晴 いつもスモッグ 33℃

上にはスモッグと書いたが、どうもスモッグではないらしい。確かに15日ぐらいまでは20年ぶりというすごいスモッグが停滞していたらしいが、16日には風が吹き、スモッグは消え失せたという。ところがである。時を同じくして、カリフォルニア各地で大規模な山火事が発生。最大は HollyWood-Hill のもので、高級住宅を24軒も焼いたそうだ。原因は子供の火遊び。とにかく、この影響で、スモッグの代わりに煙が空を覆い、結果的には何ら変わるところはない。連日の猛暑も火事のせいだという人もいるが、それはどうだかわからない。

さすがにカリフォルニアのフルーツは、大きくて美味しく、安い。赤ん坊の頭ほどあるグレープフルーツが、たった35¢ で、柔らかく、日本のものは一体何であるかと疑いたくなるほどだ。

旅のノートより

これがその当時、私が撮影した写真だ。

ロサンゼルスの空がずっと霞んでいたのはとても印象的だったのでよく憶えている。

おそらく午後3時ごろの光景で、空が異様に赤かった。

グレープフルーツがとにかく瑞々しくて美味かったことも覚えている。

しかし、とにかく記憶というものは、断片的にしか残らないものらしく、ほとんどの記憶は失われてしまった。

今日は東京銀行で無事口座を開き、北洞氏(注:日産の人)ともすぐコンタクトが取れた。午後北洞氏からTELがあり、会社に来いという。ニューオータニの前でタクシーに乗る。ロスのタクシーは流しをやらず、乗るためにはホテルやレストランの前か、タクシー乗り場にいかねばならない。俺の運ちゃんはメキシカンで、ダットサンのアドレスを見せるとわからないらしく、考え込んだ末、地図とにらめっこを始めたが、なかなか見つからない。北洞氏から聞いた大体の場所をつたない英語で説明して、やっと見つけた。ハーバー・ハイウェイを南下し、190th St. で降りる。ロスのフリーウェイは大体片側4車線、分岐点あたりでは6車線も珍しくない。日本と違い完全に無料。案内板もしっかりしている。アメ車にはサイドミラーが片側しかついておらず、車線変更の時、後ろを振り向くので、何となく危なっかしい。

ダットサンの本社はフリーフェイからもはっきり見える。田んぼの中の一軒家的、大ビルディング。そこの6階で北洞氏と会った。俺の予算などの希望を聞いて、彼は、日産ではその手のものを扱っていないので、一般のディーラーにあたってみるしかないと言った。そして、車をそのために貸してくれるという。さらに、トリプルAに連絡してくれた。ところがである。何と、トリプルAでは、アメリカの市民権を有する者にしかカルネを発給しないという。そんなバカなと、日本でのいい加減な情報を思い出す。となると、カルネなしで予定コースを回るか、予定を変更するかという選択に迫られるわけである。今回もまた、心が平静なので、何とかなるだろう。ゆっくり考えることにする。しかし、今度の旅行で自分が不感症になったのではないかということが、唯一の気がかり。

とにかく、それ以上日産にいても迷惑をかけるだけなので、車を借りて帰った。車はブルーバードの米国版。オートマチックなので、右側ギアも気にならない。ただ少し戸惑ったのは、ウィンカーのスイッチが左手にあることと、右手のサイドミラーがないこと。まあ最初にしては上出来。しかし、世の中そう甘くなく、安易にホテルの横に駐車して、昼寝している間に、Notion of Violation が貼られていた。しまった!と思うが手遅れ。また仕事が一つ増えた。

旅のノートより

このあたりのことは記憶がはっきりしないが、確か日本で日産の先輩を訪ねロサンゼルスの北洞さんを紹介してもらったんだと思う。

自動車購入のために私が用意していた予算は30万円だったと思うので、一流企業が相手にする客ではないということは今の私にはよくわかる。

でも大学生だった当時の私には、そんなこともわからず、わざわざ見ず知らずの日産の人を頼って行ったんだと思う。

「トリプルA」というのはアメリカ自動車協会のことで、私は自動車で国境を越える許可、すなわち「カルネ」をこのトリプルAから取得しようと考えていたようだ。

北洞さんが電話で問い合わせてくれて、アメリカの市民権を持たない私にはカルネが出ないことが判明、この段階でもう計画は完全に破綻したのだ。

無知であることは若者の特権、非常識なお願いでも怒らずにみんないろいろ私の世話をしてくれたのだ。

所詮、自動車の知識もなく、語学さえもろくにできないのに、一人で自動車を運転して治安の悪い中南米を回ろうという計画そのものが無謀そのものだったのだ。

今にして思うと、早々に計画が破綻してよかった。

お世話になった皆様に心より感謝したい思いである。

無料のアダルトスクールに通う

旅行の計画が狂った私は、流れに身を任せるようにして、ロサンゼルスでの長期滞在を始めた。

韓国人ビジネスマンの息子ジュンの中古車を安値で買い、無料で語学が学べる「アダルトスクール」に通うことにしたのだ。

9/19 晴

昨夜はよく眠れなかった。なぜならこの先どうすべきか決めなければならなかったからだ。夜中に考えた結果、2つの選択が残った。一つはこのままアメリカに滞在し語学の勉強をすること、もう一つはメキシコシティまで行き、清水のお父さんに相談することだ。

旅のノートより

清水とは私の大学の友人で彼のお父さんは当時、商社マンとしてメキシコシティに駐在していた。

今にして思えば、清水のお父さんもいきなり息子の友人がやってきて「この先どうすればいいでしょうか?」と聞かれても困ったに違いない。

そんなことも、当時の私にはわかっていなかったようでお恥ずかしい限りだ。

アメリカのゴミ収集車はとてもデカい。10トン車ほどの大きさがある。毎朝4時に来て、デカいアームで大きなゴミ箱を持ち上げて荷台に積み込む。その時、とてもとても大きなノイズを立てるので、眠れたもんじゃない。

朝、コーヒーショップで朝野さんに会った。長髪で感じの良い人だ。彼はアダルトスクールというところに行くというので、彼についていくことにした。その学校は想像したよりもずっと良い。アメリカ合衆国はこんな素敵な学校を無料で提供しているのだ。俺たちは begining class に参加した。先生は Mr.Rice というアメリカ人、表情がとても豊かで明るく、独身、食べるのがとても好きなようで少し太っていた。こんな素敵な英語の先生には会ったことがない。

そして、生徒も日本とは違う。ここはアダルトスクールだから、英語ができない人は国や年齢に関係なく入ってくる。俺のクラスにも、たくさんのベトナム人家族をはじめ、レバノンの中年夫婦、メキシコ人の女の子たち、韓国のおばさんなど、いろいろな人がいる。しかし、みんなすごく活発で、ライス先生が一言いうと、それについて、あ〜だこ〜だと大声で発言する。やっている内容は中学校1年程度。発音練習も大声でマイペース。先生も生徒の反応を見ながら教える。日本式の先生の一人舞台がここでは存在しない。非常にハッピーな雰囲気。

夕食は朝野さんとオルデラ街でタキトゥスを食った。薄い皮で肉などを挟んで食べるのがタコスだが、これを巻くとタキトゥスになる。マスタードをつけて食べる。大してうまくもない。どうもメキシコ料理はインド料理に通じるところがあるようだ。菓子も何となくインドっぽい。

夜、シオミ氏という日本人の人が教える日本人のための英会話教室に出席。授業料年50¢ 。こちらも中1-2年程度。しかし教え方は日本的。少々だるい感じあり。

旅のノートより

「アダルトスクール」というのは、アメリカ合衆国が移民たちのために各地で開設している無料の語学学校のことで、私は3ヶ月ほどこの学校に通うことになる。

しかし、どうやって私がアダルトスクールにたどり着いたのか自分でもずっと謎だったのだが、リトル・トウキョウのカフェで知り合った日本人旅行者に連れて行ってもらったのだと判明した。

自分でもおかしいほどの行き当たりばったり、相当厚かましい若者だったようである。

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ロサンゼルスでの長期滞在を決める

9/20 晴

昨夜また眠れず、今日起きたら11時。慌てて、ホームステイの斡旋屋に電話するが応答なし。ポストオフィスで切手を買い、くずかごのようなポストに投函する。無事着くだろうか。

アダルトスクールに行くとライス先生のクラスが満員御礼。大変な熱気。相変わらず楽しい授業だ。ただし、新しい生徒が加わっているので、昨日と重複するところも多い。中休みの時、事務室へ学生ビザの問い合わせに行く。25日に Mrs.Gee が来るからその時パスポートを持ってくるようにとのこと。ついでに、もう少し難しいクラスへ移る手続きをする。今度の先生は Mr.Logan 。黒人の先生。しかし、あまり知識人ではなさそう。字は汚くて読めないし、スペルは間違うし、発音も聞き取りにくい。しかし、いかにも黒人らしく、力強く、陽気で楽しい。最初のうち、何をやっているのかさっぱりわからなかったが、結局一般名詞と固有名詞を区別することをやっていたにすぎない。しかし、ちょうど俺の隣に座っていた日系のおばさんも何もわかっていない風で、この先生は字が下手だとかスペルを間違えるとか、盛んにぶつぶつ言っていた。しかし、いったん何をやっているかがわかると、別にどうということもなく、ただやっている内容よりもその説明の方が難しいというのはどういうことだろうか。

学校が終わって、またホームステイ屋にTELしたら、男のホームステイは口がないということだった。がっくし。しかし、早くここを出なければ何だか落ち着かない。明日もまた探すことにする。

旅のノートより

もうこの時点では、ロサンゼルスで語学の勉強をすることを決めたようで、安宿から抜け出すためにホームステイ先を探したり、学生ビザの取得を模索している。

わずか数日でこの変わり身の早さ。

我ながら感心してしまう。

6時ごろから朝野氏とサンタモニカまでドライブに行く。夕日が落ちるのを追いかけて4車線のハイウェーを走った。なんとも言えずアメリカである。ダウンタウンを離れるにつれ、緑が増え、その中に様々な形をした屋根が見える。パームツリーも微妙な色をした西の空にシルエットを描く。カーラジオから軽いジャズのリズム。たまらなくハッピーでアットホームな時間だ。サンタモニカはロスのリゾート。サーフィンしたり、泳いだり、釣りをしたり。しかし、アメリカ人が釣りしてる姿は何となく奇異な感じ。ここも白人onlyではなく、むしろ黒人、メキシカンが目立つ。ローラースケートで滑る女の子たち。ここで、シュリンプカクテルを食う。小エビにケチャップとレモンをかけて食べる。なかなかおいしいが、量が多いので、最後には飽きてしまった。一緒に注文したスープはひたすら辛くてダメ。ビバリーヒルズの方を回って帰った。

旅のノートより

すっかりロサンゼルスが気に入った様子の私は、このままこの街にとどまるのだが、日記はここで中断していた。

私はいつもそうである。

思い立って始めたことがなかなか続けられないのだ。

だから語学はいつまで経っても身につかず、とうとうこの年になってしまった。

私のアルバムには、ロサンゼルスでジュンから買った中古車の写真が残っている。

この車に乗って私は毎日のようにアダルトスクールに通い、友人たちと一緒にサンフランシスコにも旅をした。

でもこの車はいついくらで買ったのかについて、ノートの日記には書かれていない。

また、学生ビザは取得したのか、どうやって取ったのかも書いていない。

再び日記が再開したのは12月に入ってから。

とにかく私は、こうしてロサンゼルスで英語とスペイン語の勉強をすることになったのである。

<きちたび>1979年ロサンゼルスの旅② ロスでのちょっと甘酸っぱい遊学生活

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