<きちたび>北京の旅1985🇨🇳 北朝鮮のビザ待ちのために初めて訪れた中国、今とは異なる1980年代の印象

🇨🇳中国/北京 1985年6月28日~7月2日

過去の海外渡航歴を一覧表にまとめる作業をしながら、昔の取材メモを読み返していた。

その中に、報道カメラマンとして北朝鮮に行った際のメモもあって、北朝鮮のビザを取得するため滞在した北京の様子が書いてあった。

ビザを取得することが北京に来た目的だったので、数日間、特にすることもなく市内観光をする余裕があった。

今ではアメリカと世界の覇権を争う超大国に成長した中国だが、1980年代はまだ貧しくて、北京の天安門広場でも自動車の姿は少なく、自転車で疾走する群衆が溢れかえる「自転車天国」だった。

当時の写真はどこかへ行ってしまって見つからないので、若かりし日の私が書いたメモをもとに、初めて訪れた1980年代の中国の印象をこのブログにも書き残しておきたい。

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■ 6月28日

17時15分、予定より約30分遅れて離陸。

中国民航のスチュワーデスは、白い木綿のブラウスに空色のパンタロン、給仕の時は白い昔風のエプロン。通路の反対側の客の相手をしている時は、おばさんスチュワーデスが大きな尻をこちらの顔に押し付けてくる。

乗客の大半は中国人。電化製品の大きな段ボール箱の山がチェックインカウンターの前に積み上げられ、オーブントースターなど小さな物は機内持ち込みだ。民航を利用する時は、早めに乗り込まなければ荷物棚がいっぱいになってしまう恐れあり。

■ 6月29日

支局の曲さんが迎えにきてくれて、朝鮮大使館に行くが土曜日は休み。

北京の街はベターっとした感じで、道は広く、何となく空虚な感じ。右側通行。道という道に街路樹がある。思ったより人々のファッションが自由なのが印象的。ショートパンツやミニスカートの女の子もいる。GNP300ドルの国にしては、首都だけあって豊かそうに見えた。

夕食は、天安門広場の南にある下町の食堂へ。鶏の丸焼きなど4品に饅頭各2個、スープ、ビール4本で4人の合計が約6000円。19時半にはその食堂は店じまいで、食べている横から片付けが始まってしまい、早々に退散する。スペシャルスープは日本では味わったことのない何とも言えない味だった。

食後の散歩。夕涼みに人々が道端に集まっている。日が暮れて月が昇ってくる頃になると、涼しくなってなんとも言えず心地よい。やはり夕方になると街が活気づく。しかし、インドのそれのように殺気だった感じもなく、自然と心が和む。外国でこのようなほんわかした空気に包まれることも珍しい。

屋台では、スイカ売り、スモモ売り、アイスキャンディ屋が目につく。スイカは日本より小さめ。なぜかギザギザに切って食べる。閉まった飯荘の前庭では、子供たちが三輪車を乗り回し、老人たちが団扇を使いながら石段に腰を下ろす。

■ 6月30日

北京動物園で見たパンダは、寝てばかりいるので人気薄。一番人気はゴリラ。観客に向かって石や糞を投げつける。その度に人民たちは後退りしながら歓声をあげる。そしてまた前進。それを繰り返す。

ゲームセンターもあり、日本製の大型ゲーム機が並んでいた。1ゲーム2角。

中国の幼児はオムツをつけない。その代わり、ズボンの尻のところが割れていて、かわいいお尻がのぞくようになっている。どのように使うのかは見えなかったが、穴の開き方を見ればおおよその見当はつく。

肉まんは1個0.15円。肉団子の生姜焼きのようなのが入っている。アイスクリームは0.25円。パンダのTシャツが10円。子供用なら3.50円。タクシー代は3時間で5000円だ。

中国では、国際旅行社を通してホテルを予約することになるが、日本からの予約がうまく通じておらず、リドホテルの予約が2日しか取れず、他のホテルに移らなければならなかった。新しいホテルは東三環北路に面する光華飯店。5階建ての小さなホテルだ。しかし、そこが中国的でテレビもクーラーもついていて街中に近いということで、アメリカナイズされたリドホテルより良いというのが大勢の意見だった。エレベーターのない4階まで重い荷物を上げてもらったので、チップを差し出すが、「中国ではチップの習慣がない」との返事が日本語で返ってきた。

昼食後、「上海」という名の中国車のタクシーで故宮博物館へ。これぞ中国とばかりスケールで見るものを圧倒してしまおうという代物。黄色っぽい屋根瓦、ドス赤い壁、広大な中庭。いくつも門をくぐって、柱の間から奥の建物が見える。その奥にも、また巨大な建物が待ち構える。歩く気がなくても、いつの間にか大変な距離を歩かされてしまう所だ。建物自体は青空の下、とても美しい。

故宮を出て天安門をくぐり、天安門広場へ。妙な感動を覚える。とにかく広い。周囲を囲む建物も壮大で美しい。やはり、これぞ中国だ。3時間近く歩き通しで足がガタガタ。北京飯店に駆け込む。1階がロビーになっており、その奥にスタンドバーのようなものがあった。酒類からコーヒーやジュースなど、日本の喫茶店にあるものはだいたい飲める。北京ビール1.20円。オレンジジュース3円。この世紀の大逆転現象。このホテルのロビーは、貧乏旅行者風の白人にほとんど占領されていて、ほとんど空かない。

一旦ホテルに戻り、夕食を食ってから王府井へ。長安街を走るバスに乗る。乗りたいバスの番号を書いてある停留所で乗って、入口の横に座っている車掌さんに1角払う。すると女性車掌はちゃんと降りる所を教えてくれた。王府井はすでに店を閉めているところが多く、人もあまり多くない。予想していたような繁華街的な雰囲気もないままに裏通りのような王府井を歩く。(実はそこは王府井ではなく1本道が違っていたことがのちに判明する)

時間はすでに9時ごろ。映画を見終わった人が吐き出されてくる。スイカ屋があった。人だかりができて、みんなスイカにかぶりついていた。隣のおっさんが台の上に並んだカットしたスイカを勝手に取って食っているので、いいのかと思ってそれを取ろうとすると、おっさんが何か言っている。ダメだと言っているようでもあり、食えと言っているようにも見える。どうやら、そのスイカはおっさんのだったようで、他人に取られてビックリしたが、相手が外人だとわかって食わしてやろうと思ったらしい。礼を言ってその一切れをもらい、他にもう1個丸のまま買って切ってもらった。若干水っぽく取り立ててうまくもない。店の若いお姉ちゃんがウォークマンで中国のポップスを聞いており、ニコニコ笑いながら寄ってきて聴かせてくれた。スイカ1個4角。

さらに行くと雑貨屋風の店があり、タバコとヨーグルトを買う。タバコは20種類ほどあったが、フィルター付きの「友誼」という銘柄のを買う。9角ほど。味はハイライトよりちょっと軽い程度でまあまあ。中国のヨーグルトは白い壺のような陶器に薄い紙で蓋をし、そこに太めのストローをさしてすすって飲む。味は酸味が強くて非常に美味い。1本0.74円。

トロリーバスに乗って北京駅へ。料金は5分。動力が電気であることを除けばバスと同じ。2両の車体がジャバラで連結されている。室内灯は、始発と終点以外は、誰かが切符を買う時しかつかない。マグネシュームライトに照らされたオレンジ色の街を真っ暗なバスで走るというのは、カイロによく似ている。しかし、カイロのような何処か胡散臭い雰囲気はなく、乗客の半数は女性、しかも若い子が多い。

北京駅の前の広場には、列車を待つ大勢の人が寝ていた。みんな大きな荷物をクッションがわりにして寝ている。若い女性も幼児もいる。北京駅は大きな駅だ。中央ホールの右手に切符売り場があり、行き先別の時刻表が各窓口の上にかかっていて、空席の有無もわかるようになっている。中央のロビーは5階建ての建物をぶち抜いたような大空間で、上りのエスカレーターが2つついていて、2階は待合室とホームへの通路になっている。日本のように改札が1か所に集約されておらず、渡り廊下からホームに降りる階段の入り口のところで切符をチェックする。待合室は長椅子はもちろん床にも人が寝ていて、足の踏み場もないほどだ。

北京駅前から地下鉄に乗る。今、内城と外城を分ける所を走る環状線と北京駅から西に伸びる線の2本がある。全線1角。前門まで乗って9番のバスでホテルに戻る。バスの3つのドアのうち、真ん中のドアのところには車掌がおらず、特に夜は1人しか乗っていないので、真ん中あたりの客はほとんど金を払っていない。結局私もタダ乗りしてしまった。

■ 7月1日

朝、便所が壊れた。

朝食を済ませて、9時に曲さんに迎えに来てもらって、再び朝鮮大使館にビザ申請にいく。すぐ済むはずが、朝鮮相手だとなかなかそうはいかない。なんと我々のことが本国から連絡が来ていないというのだ。人を招待しておいてビザの発給を拒否する国など他にはそうあるまい。態度の悪いオヤジがやってきて、我々をじろっと見回して、朝鮮語で何やら言っているが、我々にわかるわけもない。そんなことをしながら待つこと約30分。結局、本国に問い合わせるので明日また来いとのことで大使館を去る。

支局を訪ねる。外交官宿舎の11階。エレベーターは3日に1回は止まるそうで、エレベーターには電話と共に女性が一人乗っていた。支局長はまだ出社しておらず、夏さんという助手だけがいた。夏さんは大学の日本語科を出たエリートで、曲さんは今年の春に運転手から助手に昇格した。運転手は労働者階級で助手は国家公務員、地位が全然違うらしい。

昼食は支局長と一緒に北京飯店へ。支局長から興味深い話が次々に飛び出した。

中国の外資系ホテルは15年ぐらい経つと全て中国側に引き渡さなければならないので、ここにホテルを建てようとするのは華僑だけだ。中国では何事でも裏口がある。表から行ってダメだと言われても、諦めてはいけない。たとえば、飛行機のチケット。コンピューターに打ち込まれている分が満席でも、打ち込まれていない席が必ず30〜40ある。これは、お偉方が突然旅行に行くという時などのためで、電話で満席だと言われても、空港へ行って頼み込めば大体なんとかなる。外国人が行ける病院はひとつしかない。子供が高熱を出して連れて行った時も、夜だったので医者が1人しかおらず、その人が薬の調合から会計までやるので、1時間半待たされた。

■ 7月2日

朝起きると雨だった。最悪。朝食は8時半までなので急いで2階の食堂に行き粥を頼む。「没有(メイヨー=無いという意味)」。最悪だ。仕方なく、パンとジャムと目玉焼きと紅茶を頼んだが、紅茶の味は最悪で漢方薬を飲んでいるようだった。

また便所が壊れている。仕方なく1階まで降りて用を足す。

9時半に曲さんが迎えに来てくれて、再々度、朝鮮大使館へ。今日はおばさんが出てきて、愛想よくパスポートを持っていき、30分ちょっとでビザがおりた。ビザと言ってもスタンプではなく、水色の薄い紙切れにハングルでごちゃごちゃ書いてあり、写真とスタンプが押してある。発給料は25元。

ビザが取れたことを支局に報告に行くと、支局長は「この天気では飛行機が飛ばないのではないか」などと言う。夏さんがそれを確かめるため、電話をするがなかなか繋がらない。北京は電話事情がよくない。中国では何か所かで電話交換機への転換が行われており、プッシュフォンが使えるところもあるらしいが、当分は一生懸命ダイヤルを回し続けなければならない。30分ほど回した後やっとつながり、今日は予定通り飛ぶと言うので大急ぎでタクシーを探して空港に向かう。

北京空港の出国手続きは予想外に能率的だった。まず入り口を入ってすぐのカウンターで航空券と物品の申告書をチェック。続いて荷物のX線検査をして荷物をチェックイン。空港税10元を払った後、出国審査をして終了。ただ食事は手続きの前に済ませておかないと、中に入ると食べるところがない。

14時50分、予定より1時間近く遅れて朝鮮民航のイリューシン旅客機は北京を離陸した。

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以上が、私が生まれて初めて訪れた中国での印象だったようだ。

北朝鮮のビザが出るまでの4日間、ただの観光客のように私は北京の街を歩き回った。

当時は街の至る所に「公共厠所」と呼ばれる公衆トイレがあり、仕切り板もないオープンなトイレでみんな顔を見合わせながらお尻を出して用を足したものだ。

一般の家庭にはまだトイレが行き届かず、日本人にはなかなか厳しいトイレ事情だった。

あれからわずかに37年、中国の巨大都市は劇的な変貌を遂げ、自転車が主流だった街には電気自動車が溢れている。

80年代後半、日本はバブル経済に躍る一方、中国では天安門事件が起こり鄧小平氏率いる改革開放の流れは危機に瀕した。

しかし、その後中国が「世界の工場」として急成長したのに対し、日本はバブルの後遺症に苦しみ、両国の立場も逆転したように見える。

でもこうして若き日の自分が書いたメモを読んでいると、いろいろ問題はあるものの、人々の生活は穏やかで私自身北京の街を楽しんでいる様子がうかがえる。

北朝鮮からの帰路、2日ほどまた空き時間があったので、貸自転車を借りて人民に混じって北京の大通りをサイクリングしたことを覚えている。

チリンチリンと鳴る自転車のベルの音がものすごく綺麗で、嬉しくなって用もないのにチリンチリン、チリンチリンとベルを鳴らしながら真っ青な空の下、天安門広場を駆け抜けた光景が忘れられない。

習近平政権がどんどん強権的になるにつれ、中国を嫌う日本人が増える一方だが、1980年代の日本ではまだ中国の歴史に対する尊敬の気持ちがあり、改革開放に舵を切った鄧小平氏を日本の政財界の多くが支援しようとしたのだった。

私は、中国に行くたびに、その文化の豊かさと歴史の深さを感じる。

ただあの人の多さにはいつも辟易とさせられ、失礼ながら「中国人さえいなければ中国は大好きだ」と言いたい衝動を覚えるのだ。

今、ゼロコロナ政策によって中国旅行は当分お預けのようだが、また気軽に行けるようになったら、行きたい場所がまだたくさんある。

宿命的に離れることのできない強大なお隣さんとどう付き合っていくのか、日本人全員が実際に中国を自分の目で見て考える必要がある・・・と私は今でも思っている。

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