中央アジアの旅3日目。
この日は今回の旅行で一番過酷なスケジュールとなる一日である。
陸路で国境を越え、隣国キルギスにある「中央アジアの真珠」と呼ばれるイシククル湖を目指す。
ネットの情報によると、途中寄り道もするので片道7〜8時間はかかりそうだ。

イシククル湖はアルマトイから山を超えた南側に位置し、直線距離としては近いのだが、この山脈が険しいため大きく迂回しなければならない。
そのため、まずはアルマトイから西へ200キロ進み、キルギスとの国境の街コルダイを目指す。

コルダイまでは「マルシュルートカ」と呼ばれるミニバスで行くのが一般的らしい。
キルギス方面に向かうマルシュルートカはアルマトイの中心部からは少し離れた「サイラン・バスターミナル」から出ているという。
しかし公共の地下鉄やバスでは近くまでは行かないため、タクシーか配車アプリを使って行くのが便利そうだ。
アルマトイのタクシーはメーター制ではないためとかく面倒くさい。
そこで初めて、ロシア版の配車アプリ「Yandex Go」を使ってみることにした。
使い方は基本的に「Uber」と同じ。
成田を出発する直前に日本でダウンロードし、名前と日本の電話番号を登録しておいた。
クレジットカードは登録せず、現金で支払うことができる。
やはりロシアにアプリに必要以上の個人情報を預けるのは気が進まない。

アプリを開き、地図上で目的地を指定したら後は待つだけ。
すぐに近くを走るドライバーが反応して、こちらに向かっているのがわかる。
やってきたのはがっちりとした体型の男性、真新しいフォルクワーゲンに乗っていた。
スマホを見せて相手を確認してから後部座席に乗り込む。
後はドライバーに任せ、アプリに表示された金額を現金で支払うだけだ。

車が西に進むと、街の様子も少しずつ変わってきて、近代的なマンションが目立つようになる。
このあたり一帯は住宅地なのだろう。
相変わらず緑の街路樹が途切れることなく続き、どこも清潔に保たれている。
こうして車窓からの眺めを楽しみながらホテルからバスターミナルまではおよそ20分。
アプリに示された料金は1450テンゲ、日本円でおよそ460円だった。
安い!
カザフスタンとはこれでお別れ、テンゲが無駄に残っても仕方がないので、小銭をチップとして渡して車を降りる。

ここがキルギスへの玄関口となるサイラン・バスターミナル。
それにしては人影がまばらだ。
案内表示もないのでどこに行けばいいのかも分からず、とりあえず階段を登り2階に上がってみた。

下から見ると待合室のように見えたのだが実際に行ってみると2階は仕切りのない大空間になっていて、なぜかミリタリーショップばかりが軒を連ねていた。
軍服や軍靴、警官の制服まで売られている。
しかしまだ時間が早いためか誰もいない。
妙な空間だ。
どうみてもここは私が行くべき場所とは違うので、そのまま1階に降りる。
するとどうやら、私が来た反対側がバスターミナルの正面入口だったようだ。

暇そうに雑談していた男性に「コルダイ」と行き先を告げると、面倒くさそうにあっちだという仕草でバスの方を指差した。
ちょうど乗客たちがバスに乗り込むところで、バスの周りには人だかりができている。
どうやらキルギスの首都ビシュケクに向かう国際バスのようだ。

そのあたりにいた人を捕まえて再び「コルダイ」と告げると、その男性はバスの隣に停まっていたミニバンの方を指差した。
これが中央アジアの庶民の足、マルシュルートカという乗り物らしい。

ミニバンのフロントグラスには行き先が書かれた紙が置いてある。
キリル文字ではあるが、コルダイと書かれていることは間違いなさそうだ。
昔ソ連崩壊を取材していた時、キリル文字ではPがRのことで、Nを逆さまにしたのがIだということを覚えた気がする。

マルシュルートカは定員20人ほどのミニバス。
すでに8割ほどの席は埋まっていた。
後方に空いている席を見つけてそこに陣取る。
一応の時刻表というものもあるらしいのだが、実際には満員になるまでなかなか出発しないと多くの人がネットに書き込んでいる。
仕方がない。
こういうのは海外ではよくあること、車内で気長に待つとしよう。

と思ったら思いのほか早く、マルシュルートカは満員になるのを待つことなくバスターミナル遠出発した。
アルマトイ市内からはビルや街路樹に隠れてよく見えなかった山々が左手にはっきりと見え始める。

さあ行くぞ!と気合いが入ったところで、ミニバスはいきなりガソリンスタンドに入ってしまった。
おいおい、ガソリンくらい先に入れとけよと思いながらも、これまたかつて何度も経験したこと、時に驚きはしない。
この給油タイムはトイレ休憩と飲み物などを調達する時間を兼ねているらしく、乗客たちも慣れた様子でゾロゾロと車を降りていく。
私もここでトイレを済ませ、余ったテンゲで水とチョコレートを購入した。
国境までは3時間、ここで忘れずに用を足しておくことは賢明と言える。

再び走り始めたマルシュルートカ。
すぐに風景が一変する。
人家が消え、一面の草原が広がっているのだ。

これこそ、カザフスタンの真の姿。
カザフ人はこの広大なカザフ草原で暮らしてきた遊牧の民だったのだ。
アルマトイはこのカザフ草原の南端に位置し、ここから北、遠くシベリアのあたりまで草原が続いているのである。
そこはずっと遊牧民たちの戦いの舞台だった。
英雄たちはこの遮るもののない大草原を支配し、他の民族が実現したことのないような巨大な世界帝国を築いたのである。
力を失えばその領土はたちまち家畜に与える草を求めて彷徨うほかの遊牧民たちに奪われるのだ。

広い草原には時々馬の姿は目にするものの、ほとんど民家がない。
人がいないから携帯用のアンテナも設置されていない。
アルマトイではあれほど快調だったカザフスタンのSIMカードも草原に出ると途端に繋がらなくなった。
それでも時折、思い出したようにスマホが使えるエリアがあったりする。
そのタイミングで現在の居場所をチェックしたり、日本との交信を行ったりする。
私がバックパッカーをしていた頃とは便利さがまるで違う。

コルダイに向かう道路は予想していたよりもはるかに立派で、草原の中に伸びる片側2車線の舗装道路をマルシュルートカは時速100キロ以上でぶっ飛ばして行く。
ただ、ところどころ工事中の箇所があって、未舗装のガタガタ道では途端に大渋滞が発生する。
巻き上がる土埃が車の中に入らないよう窓を閉めると車内は蒸し風呂状態になる。

こうして午前9時過ぎにアルマトイを出発したマルシュルートカは、正午前、目的地のコルダイに到着した。
通り沿いにはずらりと商店が並び、いかにも隣国との貿易を生業とする国境の街だ。

マルシュルートカは街を抜けてまっすぐ進み、国境のゲート前で止まった。
運転手がカザフ語で乗客に何かを言っている。
荷物を持って降りようとする客もいるが、ほとんどの客は動こうとしない。
運転手が私に向かって何か言っている。
ビシュケクに行くならここで降りろと言っているらしい。
私が「チョルポンアタ」と目的地を告げると、手招きをして降りるように促す。
あまりに慌てて降りようとしたため、棚に置いていたリュックを忘れるところだった。
運転手がすぐに気づいて私を呼び止めてくれたので危うく難を逃れることができたのだ。
どうやら大半の乗客はキルギスではなく、ここコルダイが目的地だったようで、国境でキルギスに向かう客を降ろした後、終点のバスターミナルに向かうのだろう。
言葉は通じなくてもみんな親切な人たちだった。

国境ゲートと手前にきれいそうなトイレがある。
ネット上ではここでちゃんとトイレを済ませ手おくべきと忠告する書き込みがいくつもあったので、まずはトイレに直行した。
入口におばさんが座っていて、このトイレを使うには100テンゲ払う必要があるらしい。
どうせカザフスタンのお金を使うのも最後なので、ポケットにたまった硬貨の中から100テンゲコインを選んでおばさんに渡した。

それでもなおポケットの中には750テンゲ分の小銭が残っている。
トイレの脇にあるコンビニを覗くと、ちょうど700テンゲでカザフスタンの国旗がアレンジされたチョコレートがあったので、溶けることを承知でそれを買い求めた。
おかけでポケットは急に軽くなった。
余った紙幣4万2000テンゲはキルギス入国後、両替屋で8000キルギスソムに変えることができたので、手元に残ったテンゲは50テンゲ、およそ16円だけだった。
我ながら完璧な始末、こういうのって結構うれしものだ。
カザフスタンからキルギスへは全ての荷物を持って歩いて渡ることになる。
写真撮影は禁止らしいので文字だけで記録しておくと、まずカザフスタン側でパスポート検査を受けて出国、中間地帯の通路を歩いてキルギスの入国審査を受ける。
中間入らない地帯には細い川が流れていた。
キルギス側でも顔写真を撮られパスポートを見られただけで質問されたら荷物の中身をチェックされたりすることも全くなかった。
こうして12時半ごろ、無事に、私にとって93ヵ国目となるキルギス入国を果たしたのである。