<きちたび>ウクライナの旅1990🇺🇦 チェルノブイリ原発事故から4年目のウクライナで感じた超大国ソ連の崩壊

🇺🇦ウクライナ(ソ連)/ リボフ&キエフ&チェルノブイリ 1990年3月16日~25日

ベルリンの壁が開放された翌年、社会主義の盟主であったソビエト連邦でも大きな社会的なうねりが起きていた。

共産党によって弾圧されていた宗教の復活、少数民族の間に広がる独立を求める声、そして世界最悪のチェルノブイリ原発事故がソ連社会の脆弱さを如実に表した。

そんな時代の変化が最も顕著に表れていたのが、今世界からの注目を集めているウクライナだった。

ソ連の台所と呼ばれたウクライナで何が起きているのか?

40日にわたってソ連各地を取材した最後に訪れたのが、1990年当時まだソビエト連邦の一部だったウクライナ共和国である。

当時の取材メモをもとに、ソ連からの独立運動が盛り上がり始めていたウクライナの様子を記録しておく。

3月16日(金)曇

11時、モスクワの宿泊先であるウクライナホテルの靴屋で靴を買う。イタリア製、82ドル。さすがにウクライナでは、今のブーツ、蒸れて履けそうにないためだ。

12時、ディミトリエフと一緒にサコーに買い出し。モスクワ支局に不要なブーツと帽子を預ける。ノーボスチ通信社の社員食堂、1ルーブルほどで結構美味く、ビュッフェなのでスピーディー。もっと早く教えてくれれば昼メシが楽だったのに。

16時モスクワを離陸、18時ウクライナ共和国のリボフに到着。なだらかな丘、ゴルフ場を思わせるような田園風景、モスクワとは明らかに景色が違う。外に出ると、コートなしでも寒くない。天気も快晴。モスクワとの時差はないためまだ日没までには時間がある。

19時、聖ユリ教会へ。この教会は1946年まではウクライナ東方カトリックの総本山だったが、共産党によってカトリックは禁止され、強制的にウクライナ正教会の教会とされた。半年前の1989年にカトリックが解禁となり、カトリック信者が返還を求めて大勢教会の前に集まり歌を歌っていた。こうしたミサは毎日12時から20時まで開かれているという。ところが3月12日に正教側が教会の門を閉鎖、締め出されてしまった。教会に集まったカトリック教徒に聞くと、ウクライナには500万人のカトリック信者がいて、特にここリボフでは人口のほとんどがカトリックだという。

19時40分、DNESTR HOTELにチェックイン。ホテルのレストランで食事。牛肉のカツレツ。

3月17日(土)晴

10時半、再び聖ユリ教会。昨日我々が勝手に撮影したことを咎められ取材前少し揉める。この教会の責任者であるウクライナ正教会のイリネイ大主教は71年から5年間、お茶の水にあるニコライ堂に勤めた経験があり日本語を少し話す。しかし教会を奪おうとするカトリック教徒の動きを苦々しく感じているようだ。

大主教は、カトリックによって教会が暴力的に奪われてしまいそうなので、正教会の信者が教会を閉鎖したと現状を説明した。リボフ市当局も共産党もマスコミもカトリックを支持し、テレビに30分番組を頼んでいるが未だに実現しないと不満を漏らす。カトリックの番組は毎週放送されているらしい。大主教によれば、リボフ市民の8割は正教徒でカトリック信者は2割に過ぎないのに、1200の教会のうち200がカトリックに奪われていると、昨日聞いたカトリック信者とは全く異なる話をした。

12時、リボフ市役所。副市長室でハンストをしているロシア正教の神父たちを取材後、市役所前の国営レストランで鶏肉のカツレツを食べる。

14時半、自由ウクライナ広場を訪ねると、青と黄色のウクライナ国旗が掲げられていた。人々が広場に集まり情報交換をおこなっている。市役所の脇には人民戦線「ルフ」の本部があり、選挙集会を開いていた。「ルフ」は正式名称を「ペレストロイカのための人民運動」といい、1989年9月に作家連盟などを中心に結成された。ちょうど3月4日から複数政党制による初めてのウクライナ最高会議選挙が行われ、「ルフ」を筆頭とする民主派勢力は議会の多数派を握る大躍進を遂げていた。

15時半、ウクライナ東方カトリックのトップ、ウラジミール大司教の自宅を訪ねる。ボロアパートの3階にあったが大司教は不在で電話を頼んで引き揚げる。ホテル前の公園で日向ぼっこ。乳母車を押すおばあちゃん、アベック、犬を連れた人が多い。

17時、聖ユリ教会に再び行ってみると、劣勢だったウクライナ正教の親父たちが大声で歌いながら反撃を試みる。カトリック教徒たちも歌で対抗し、教会をめぐる白熱した歌合戦は宗教がウクライナの人たちのアイデンティティーの復活と一体化していることを感じさせる。展望台に登り教会のシルエットを撮影。暖かいためか街にはもやがかかり夕日が綺麗だ。日没は19時30分。市役所前で夕食。今度は豚肉のカツレツ。

3月18日(日)晴

10時、キエフ(現在のキーウ)行きの航空券を取得しようとアエロフロートの事務所を訪ねるがダメ。

11時、ウクライナ東方カトリックのウラジミール大司教にインタビュー。ウクライナ東方カトリックは、もともとロシア正教と同じものだったが、11世紀にローマのカトリックとギリシャの正教会が分裂した後ウクライナでもカトリックと正教会が分裂した。16世紀になるとリボフを含むウクライナ西部を支配していたポーランド・リトアニア共和国が分裂していた両教会をローマ教皇の下に合同させることを決めた。1596年の「プレスト合同」と呼ばれるこの決定によって誕生したのがウクライナ東方カトリックである。ただブレスト合同に反発して正教会に残った教会も多く、これ以降カトリックと正教会の対立は再び激化することになる。

ウラジミール大司教は1947年に逮捕され、5年間刑務所に投獄された。宗教は国民に近かったためスターリンに弾圧されたのだ。その後もカトリックが非合法化されていたため、大司教もいろいろな仕事に就き、宗教活動は部屋に数人の信者を集めて細々とミサを行うことしかできなかったという。そして1989年6月、ついにカトリックも合法化され晴れて宗教活動を再開するために自分たちの境界を取り戻す運動を始めたのだそうだ。

12時、汽車でキエフに向かおうと駅に行くが鉄道もダメ、再び空港に行ってみたがやはり飛行機もダメだった。仕方なく翌日にバスをチャーターすることにして出発を延期する。

15時、ボロボロになったイジュベーテ教会を撮影に行く。この教会は1905年に建てられたカトリック教会だったが国によって閉鎖され風化するに任されてきた。我々が行った時も教会の窓は割れ、キリスト像の足もなく、全体が鳩の巣になっていた。帰りに再び聖ユリ教会を見に行くが、すごい人で中に入ることもできなかった。

3月19日(月)晴

朝、マイクロバス1台しか調達できなかった。しかもそのバスが来ない。

12時、ようやくリボフを出発。キエフまでは500キロ以上、道の両側に地平線まで耕された黒土の丘陵地帯が続く。道沿いにはずっと民家が続いていた。車内ではトランプをしながら時間を潰す。

20時半、キエフに到着。ドニエプル・ホテルにチェックイン。ホテルで夕食。

3月20日(火)晴

10時半、ノーボスチ通信キエフ支局のハルチェンコ支局長と合流し、ウクライナ共和国の農業省と気象庁の幹部からチェルノブイリの現状についてブリーフィングを受けた後、インタビューを行う。

1986年4月26日に発生した原発事故の後、5月に周辺の住民10万人を移動させた。今年まだ14の街と村が移動の対象となっている。70年間は生活できないレベル。14の村から3500世帯1万人くらいが避難したままだ。またウクライナ全体で1139の町が汚染地域に入っており、牛乳の異常も見つかっている。このエリアだけで100万人が住んでいる。14歳までの子供を持つ家族、病気や妊娠している人は、希望があればウクライナのどこでも避難できる。事故当時の風の影響で、発電所の西と北の汚染が激しい。

今年になってまた移動が始まっている。基準が厳しくなったため新たな避難が必要になった。86年9月時点では1年間の被曝量が10ベクレルが避難の基準だったが、87年末には1年間に3.5ベクレル、89年には2.5ベクレルに下がり、今年になると70年で35ベクレル、1年で0.5ベクレル以上だと避難の対象となることになった。ソ連の法律では事故の際に臨時基準を決めることになっていて、今までの基準は全て臨時のもので、モスクワにある全ソ連放射能保護委員会が決めることになっている。最初の段階で一律に30キロ地域からの避難を決めた。たぶん科学的にはこれ以上の避難は必要ないと思っている。現在は10キロ圏内を立入禁止とし軍が監視している。30キロ圏には入ってもいいが住んではいけないことになっているが1100人が暮らしている。研究の結果、原発の南西部は農業に使っても問題ないことがわかったが、経済的にあまり意味がない。4年間で道路なども破壊されていて当分今の立入禁止が続く。

科学アカデミーが動植物の研究もしている。双頭や目が無い動物も見つかっているが、こうした異常のある動植物が放射能の影響かどうかは議論がある。植物が非常に発育するという報告もある。

除染作業は30キロ圏では何もやっていない。最初の1年、埃を飛ばさないように草を植えた。古い建物や機械は破壊した。30キロ圏外では家の屋根を取り替えたり新しい道路を作ったりしている。農業の対策としては2つの作業を実施した。放射能対策として土中にカリツームを入れる。収穫量を高めるため肥料を使う。窒素1:リン1.5:カリウム2の比率。たくさん取れると作物あたりの放射能が少なくなる。麦は放射能に強弱ある。麦は何の処理もせずに栽培。汚染状況によって種類を決めている。収穫物は放射能を測って使えるかどうか決める。麦類はほとんど流通している。牛乳は放射能高くて使えないものがある。77の街の牛乳はダメ。餌を他の地域から持ってくる。麦類は全部餌として使われ飼料工場に運ばれている。牛を処理する2〜3ヶ月前に他の地域に移動。放射能のない餌をやる。肉と牛乳は市場で全部チェックする。キノコも全部検査するが、麦は選択チェックだ。農業の被害額は最初の年で10億ルーブル

原発は95年までに止める予定。1、2、3号炉を全部止める。2月15日のウクライナ最高会議で決定した。ソ連の原子力庁や発電所の所長は反対したが、国民の圧力だ。ソ連科学アカデミーのもとでスケジュールを検討する。

今年まで事故処理に当たった労働者の影響を無視してきた。事故処理の警察官も病気になった。キエフへは直接影響ないが、ドニエプル川は汚染された。放射線量は、4号炉近くで毎時1〜1.5ミリレントゲン、チェルノブイリ市で0.02〜0.16、キエフは0.017ミリレントゲン。

事故が起きた1986年の10月には「全ソ放射能医学科学研究センター」が設立された。①実験放射能病研究所、②伝染病と放射線病予防研究所、③臨床放射線学センターの3つの研究所もできた。対象となるのは、放射線病の患者(事故被害者)、事故処理に当たった人、避難民、汚染地域に住んでいる人で現在318〜25人が入院中。事故処理に参加した人の数は60万人に達する。彼らは地方病院で1年に1回の診断を受けられるほか、問題が見つかれば地区の病院から州の病院、それでダメならば研究センターの病院に運ばれる。

事故処理のための死者はゼロ。汚染地域の平均死亡率は他の地域と同じ。がん、白血病については5〜6年経ってから少しずつ傾向が出てくるが放射能の影響かどうかはわからない。今までは影響あまり出ていなかったが、これからはわからない。放射線病の患者は全ソ連で207人、そのうち入院は14人。重要な要因はストレス、これによってたくさんの病気が出てきた。甲状腺異常の人は予想よりいい。神経の方は予想以上に悪い。白血病は5年後がピークでまだわからない。人間の放射能の濃度は予想よりも下がっている。

14時半、全ソ放射線医学科学研究センター。15時、臨床放射線学センター。副所長と2人の教授によるブリーフィングを受ける。一人の教授はこんな説明をした。

マスコミによって核戦争や放射能はとても怖いと思っていた作業した人は強いストレスを受けた。汚染された地域に住む人のストレスも凄まじい。一番ストレスを受けたのは子供を持つ母親やティーンエージャー、今でも強迫観念がある。マスコミのせいもあるかもしれない。神経病、その他の病気が出てくる。人は病気になるとみんなチェルノブイリのせいと思う傾向がある。他の事故だとストレスが減っていくがチェルノブイリの場合次第に上がっていく。避難民や汚染地域の住民への調査の結果、7割が恐怖を感じ、83%の人は自分が健康ではないと思っている。

治療法はと聞くと、教授はこう答えた。マスコミの報道でストレスを高めた。マスコミは医学的に利点よりも欠点が多い。世論を鎮めることが必要だ。

17時、放射線病科に入院している患者のインタビュー。予想していた惨状とはほど遠い印象。ピンピンした男たちが退屈そうにゴロゴロしている。原発労働者のオーレシュクさんは事故当時プリピャチの自宅にいて電話で呼び出された。事故の2時間後に現場に入ったという。3日間で101レントゲンの被曝。3週間前にこの病院に入り、あと1週間いる予定。

この後、神経科の病棟に案内され取材は終了。全体として被害は大したことはなくマスコミが騒ぐからストレスで病気になる人が出るというのが当局の説明したいことのようだ。

19時半、協同組合レストラン「マキシム」で夕食。

3月21日(水)晴

10時半、日本車のワゴンに乗ってホテルを出発。この日は新たに避難地域に指定された村に向かう。

12時半、ポレスキー地区の副地区長をピックアップして、パンとチーズを買ってシェフチェンコボ村へ。老人が多い。シェフチェンコボ村はもともと90家族168人が暮らしていたが、今残っているのは25家族65人。隣のヤセン村は71人の住民のうち16人が残っていた。

ここキエフ州ポレスキー県では去年の秋から避難が始まった。9月1日までに避難を完了させることになっているがまだ移住先の家ができていない。事故は翌日に知っていたが、大丈夫だと言われて信用していた。栽培しているジャガイモは国家が買い上げるが自分たちも食べている。ジャガイモは放射能の影響をあまり受けない。牛や豚は全部国が持って行った。今はニワトリだけ。個人で牛や豚を飼ってはいけないと言われている。森でキノコも採っている。頭痛があり目が痛くなったが重症ではない。

グリニエンコさん一家にも聞いた。ソ連には移動の自由がない。プラピスカ(住民登録の裏書)。コルホーズの肉牛は2〜3ヶ月で他の場所に移された。事故後、各村にはサウナが作られた。汗をかくと放射能が体外に出るそうだ。ビールや赤葡萄酒ももらった。

シェフチェンコボ村の現在の数値を確認すると、土壌が1平方キロあたり40キュリー、森が15〜20キュリー、空気中の濃度は毎時0.17〜0.2ミリレントゲンだと教えられた。

18時半、キエフに戻り放射能測定器を探すが店がすでに閉まっていて買えず。ホテルで夕食。

3月22日(木)曇

夜中に雨が降ったらしく道が濡れている。チェルノブイリで雨に降られるのは気持ちの良いものではない。

8時、キエフの中心部にあるベッサラーブスキー市場。肉の放射能測定作業を取材する。汚染地域からも食肉が運び込まれていて、サンプルを取ってミンチにし、測定器にかける。ベータ線。数値が1000を超えるとダメ。OKならば肉にスタンプを押し市場で売って良いことになる。野菜や果物も測るとのこと。以前はキノコやイチゴが基準に引っかかったが、去年今年は引っかかったものはないという。測定にあたるリディア実験室長によれば、買い物客は当初怖がっていたが今はもう慣れたとのこと。私は年だから気にならないが小さな子供を持つ人は心配ねと話していた。

9時半、ホテルで朝食。市場でリンゴを買ってきたが、なんとなく気持ち悪くなって食べるのをやめた。

10時、部屋でチェルノブイリの取材手配。ディマとボルコフが関係各所に電話をかける。チェルノブイリに行くためにはいくつかの許可が必要だが、そのうち一つが発電所に届いていないという。モスクワではすでにOKのテレックスを打ったと言っているが、発電所は受け取っていないといい、ソ連ではよくある連絡上のトラブルのようだ。結局、チェルノブイリ行きは1日延期せざるを得なくなる。

12時半、環境保護団体「緑の世界」を取材。副会長のパノフ氏と放射能対策を担当するウラジミール書記がインタビューに応じてくれた。緑の世界は、1987年に発足し89年に公式に法人として登録された。チェルノブイリの事故をきっかけに地方ごとにできた団体を束ねた連合体。300の下部組織があり会員は50万人もいるという。自然保護について市民は政府を信用しておらず自分たちで守るというのが団体の主張で、目的達成のためにデモや集会など政治的な手段も使う。チェルノブイリ原発に対する反対運動もその一つで、そのほかにアゾフ海の環境問題などにも取り組んでいる。

事故による被害の実態について聞くと、彼らは統計を持っていないので何人が放射能のために死んだのかは言えないと答えた。統計は全部秘密で手に入らない。死者数も患者数も不明。地方の医師の話では心臓と目、耳鼻の疾患やガンが普通の地域より3〜4倍高いという。友人だけでも死んだ人を数十人知っているが、放射線が原因だと断言はできない。ただ私たちは事故が原因だと思う。

現在掲げている要求としては、発電所の設計者や建設責任者の裁判を行うこと、放射能センターをウクライナ共和国の管轄に渡すこと。さらに事故後4年経っても高レベルの汚染地域に人が住み続けるなどウクライナ政府の対応が悪いため責任者の辞任を求めている。また原発の閉鎖はグループ発足時からの要求で、第5、第6炉の建設に反対している。原発の運転再開は間違いで、多くの人が作業中に放射能を浴びた。88年11月にキエフで初めての集会を開いた時には途中で中止させられた。数万人が集まり最高会議議長に要求しようとしたが受け取らなかった。しかしこの3月に行われた最高会議選挙では全候補者が原発の閉鎖を主張した。そうでないと勝てないからだ。選挙の結果、キエフの3分の2、西ウクライナの8割、ウクライナ全体でも3分の1が民主勢力に変わった。

16時、キエフ市内の雑感取材。各所に500ドルぐらいを支払いチェルノブイリ取材がようやくOKとなるが、キエフからモスクワに向かう移動手段が見つからず、飛行機はダメ、汽車やバスも不明。25日にはモスクワを発って帰国の予定なのでちょっと焦る。

3月23日(金)雨のち晴 チェルノブイリ取材

8時、ホテルを出発。カメラマンが突然チェルノブイリに行きたくないと言い出し、私がカメラを回すことにする。ノーボスチのキエフ支局から1人が取材のために同行。彼らもいつでも原発に近づけるわけではないらしい。

30キロゾーンの入り口あたりで雨が降り始める。チェルノブイリの雨・・・。30キロのゲートは、日本のテレビだと言っただけで簡単に通過できた。

10時半、原発から18キロ離れたチェルノブイリ市に到着。「プリピャチ」という事故処理関連の国営企業のオフィスでポクトニー情報国際部長からブリーフィングを受ける。今年中に新たな石棺を作る予定だという。

事故後「コンビナート」という国営企業が作業を担当していたが、今年1月から「プリピャチ」という国営企業に変わった。科学研究や放射能の監視、除染の研究を行なっている。中に国際科学センターを作る計画があり、日本を含む26の国と8つの国際機関が参加を希望している。今年末までに開所したい。30キロゾーン内に実験室を作る予定。

「コンプレックス」という企業が放射能を解消するための機械と設備、除染を担当。86〜87年に表土を削って地中に埋めた。臨時に800ヶ所。除染剤の再加工も行う。臨時に埋めた土を掘り出して新しい除染剤を使って除染し再び埋める。

建設部では4号炉に新しい石棺を建設する。古い石棺はリモートコントロールで作ったので質が良くない。空気が入ってしまう。放射能が出るわけではないが空気によって内部が壊れ放射能の埃が出る可能性がある。今の石棺を作った時、30年間使う予定だったが、新しいものは100年間使えるものにする。核燃料はそのまま残っている。88〜89年の研究により、燃料は徐々に冷えていって危険とは言えないと学者は言っている。研究のために穴を開けて調べた。燃料の中心温度は150度で周辺環境の温度とほぼ同じ。センサーを入れコンピューターにデータを送り監視を続けているが燃料が冷えて危険とは言えない状況。現在、新しい石棺の設計中、今年中に工事を始める。核反応はだんだん収まってきている。

放射能測定庁では、労働者の放射線被曝を測定している。15日に1回、個人カードに溜まった放射線量を測定記録している。労働者は1年間で5ベクレルを超えないようにする。ちなみにポクトニー部長は去年1.2ベクレルだった。地域の測定も自動的に行なっている。あちこちにセンサーを設置しコンピューターにデータが送られる。自動車やヘリ、船でも測定している。30キロ圏外も測定するために最新の測定器を積んだ飛行機も買いたい。

このほか、食事や道路など生活面を支援する企業もあり、現在「プリピャチ」では4000人が働いている。今年中には7500人に増える予定。

バスに乗り換えて原発に向かう。途中、無人の村が続く。

12時、チェルノブイリ原発に到着。入口に放射能チェックの機械が置かれ、靴と手を測る。事故を起こしていない1号炉のコントロールルームと機械室を撮影。カメラマンが来なかったので久しぶりに自分でカメラを回す。原発のウマニエッツ所長にインタビュー。

現在3つの炉が運転中。1989年は200億キロワット、ウクライナの電力量の9.9%を発電した。事故後の3年間、普通の作業以上に安全性を高めるために努力した。事故の1つの原因となった蒸気比率を下げている。事故前は6ベタだったが今は0.7〜0.9ベタ。緊急事態における対応速度を早める。事故の際は24秒かかったが、今は12秒に短縮した。運転中の3つの炉に緊急防護装置を設置した。防護装置を解除するためには2つの暗号が必要で別々の人が持っている。従業員たちはスモレンスク市の訓練センターで新しい試験を受けた。事故前は電力を作ることが使命だったが今は安全の確保が最優先だ。だから4年前と同じ間違いをしても事故にはならない。今でもウクライナ最高会議と市民たちはこの原発は安全だとの期待を持っている。市民と話し合いのための市民連絡部をつくられた。ソ連人なら誰でもこの原発に来られるようになった。月曜にはグリーンピースと緑の世界が一緒に来ることになっている。カナダ人、イギリス人、アメリカ人もいる。緑の世界の代表シェルバックも来る。

普通の原発との違いは、除染作業を続けていることだ。結果は良好で88年の作業員の被曝量は1年平均で1.5ベクレル。国際基準の5ベクレルを下回っている。89年は1.2ベクレルに下がった。従業員の住居は5〜7キロ離れた場所だったが、今は50キロ離れたスラブティチから通っている。従業員は他の原発と同じように働いている。1日8時間、週36時間。6つの労働者グループに分かれていて従業員数は4000人ぐらい。普通の原発なら1つの炉に900人だ。放射能レベルは悪いところで毎時4〜6ミリレントゲン、普通の原発の2〜3倍だ。特別制限エリアには普通人は入らない。4号炉近くは100〜150ミリレントゲンあるが従業員はそこには入らない。その周辺の0.2〜8ミリレントゲンのエリアで除染作業が続いている。

所長が着任したのは事故後の87年2月。給料は月1000ルーブルで通常の2倍だという。原発敷地内の200万立方メートルの土を処分、建物を壊すのも除染の一環で、建物と土、機械も埋めた。事故直後には1000〜3000レントゲンというとてつもない放射線量だったが、現在は4号炉から200メートルの地点で1.057ミリレントゲン、室内だと0.02ミリレントゲン。

13時半、原発内で昼食。料理は早くて美味い。

14時、原発の外観を撮影。4号炉から200メートルのところでレポート撮り。放射能レベルは毎時1ミリレントゲン。

14時半、プリピャチ市。原発から3キロの地点にある原発労働者が住んでいた町だ。住民は全員避難し戻れる可能性はない。

15時、プリピャチの放射能実験室を訪問。もともとここにあった温室を利用し、放射能が作物に与える影響を研究している。キュウリやトマトはほとんど影響を受けないという。私の渡されたキュウリを食べてみる。瑞々しくて美味い。帰り道、道端に設置されたセンサーや取り壊された村などを撮影する。

16時半、チェルノブイリ市に戻り、放射能チェックを受ける。緑のランプがつくと安全だというが、いい加減そうな機械でとても信用できない。バスから車に乗り換え、市内を少し撮影。街には散水車と救急車が目につく。この町に4000人の人が暮らしている。

19時、キエフのホテルに戻ると、モスクワ行きの列車が取れたという。シャワーを浴び、服を全部着替えてホテルで夕食。

21時、キエフ駅からモスクワ行きの列車に乗り込む。4人部屋のコンパートメント。部屋は狭く、カーテンもない。早速みんなでトランプを始め、26時ごろまで続いた。

3月24日(土)晴

9時、モスクワのキエフ駅に到着。モスクワ郊外にはまだ雪が残っている。人の服装も寒そうでやはりモスクワは最低だ。迎のバスでホテルに向かう。

9時半、ホテル・ブダペストにチェックイン。ボリショイ劇場に近い5階建てのこじんまりしたホテルだ。しかし部屋が2つしかなく、カメラマンと相部屋となる。

10時半、モスクワ支局に荷物をピックアップに行く。支局長はすでに支局に来ていた。リトアニア情勢が怪しくなってきていて軍の動きに注目が集まっている。支局長と一緒に日本料理店「桜」で昼食を食べ、家に電話を入れ、昼寝をする。

3月25日(日)

今日から夏時間、1時間早くなる。帰国を前に土産物を買いに行く。

11時、絵や土産物を売っている公園へ。「I💗KGB」のネクタイを12ルーブル、ゴルバチョフの卵型人形を2個70ルーブルで購入。

12時、ベリョーシカでキャビアを400ドル分、琥珀のペンダントとゴルバチョフの腕時計を25外貨ルーブルで購入。

13時、ホテルに戻り、ボルコフとディマと慌ただしく精算を済ませ空港に向かう。

15時半、空港。ディマとボルコフに頼まれて、彼らのルーブルをドルに両替。証明書の範囲内ならOKだ。税関検査で主に調べられたのはキャビア。ドルショップで買った証明書がなければその場で没収されるという。機材はノーチェックだった。免税店はまともでキャビアも売っている。値段はどこも同じだった。

17時50分、全日空と提携しているオーストリア航空機でモスクワを離れる。機内は日本人ばかり、ほとんどはウィーンからの乗客だ。翌朝8時、成田空港到着。

1986年に起きたチェルノブイリ原発の事故は、福島第一原発の事故をはるかに超える史上最悪の原発事故だった。

ソ連政府はその被害の詳細を明らかにしなかったが、この事故がウクライナの人たちの連邦政府への不信を大いに高めたことは間違いない。

市民たちが自由に自分の意見を口にするようになった一方で、官僚たちは旧来通りの建前にしがみつく光景を当時のウクライナでは行く先々で目にした。

多様な価値観が一斉に噴き出す中で、それを調整する機能はこの国には存在しなかった。

この取材旅行の最初に訪れたリトアニア同様、ウクライナでもこの時すでに独立の気運が高まっていて、長年押さえつけられていた宗教的な感情も相まって翌1991年には超大国ソ連を吹き飛ばしてしまった。

独立を果たしたウクライナは、強大な隣国ロシアとの関係で常に苦慮しながら、親ロシア派と独立派が政権交代を繰り返すが、2014年のクリミア侵攻によって一気に西側へと接近することとなる。

力によって国民を支配する国家は、一度そのタガが緩むとそれまでの矛盾が一気に噴き出し、あっという間に瓦解してしまうことを東欧やソ連の崩壊劇は私たちに教えてくれた。

再び世界各地に強権的な国家が増えつつあるが、それらの国もいつか同じような崩壊の道を歩むことになるだろう。

<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺 ETV特集「原発事故“最悪のシナリオ”〜そのとき誰が命を懸けるのか〜」 #210317

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