<きちたび>アラビア半島の旅2023🕌クウェート🇰🇼 「世界で4番目に長い橋」の先に計画される未来都市「シルクシティー」と湾岸戦争の記憶「アル・クレイン・ハウス」

クウェート到着3日目の2月4日、私は現地在住の日本人女性の車に乗って郊外にドライブに出かけた。

女性とは、海外に暮らす日本人と旅行者をつなぐマッチングサイト「ロコタビ」で出会った。

現地の方と結婚した50代の元教師、今もクウェートの大学で日本語のクラスで教えているという登録名『砂漠』さんだ。

彼女はサイト上で、クウェートに完成した「世界で4番目に長い橋」へのドライブを提案していた。

4番目というちょっと中途半端な橋にも多少興味はあったが、それ以上に見知らぬ国について現地の人からいろいろ教えてもらい、車なしではいけない他の場所にも連れて行ってもらいたいと思い連絡を取ってみた。

すぐに返信があり、何度かやり取りをした結果、4日の朝ドライブに連れて行ってもらうことになった。

4日朝8時、砂漠さんは約束通り、私が宿泊していたホテルまで迎えにきてくれた。

運転は多少頼りないものの、とてもフランクで話しやすい女性で、ドライブ中にもアラブの風習など私の知らないことをいろいろと教えてくれる。

この日は土曜日で、休日の朝ということもあるのだろう、広い道路はガラガラで、天気も快晴、最高のドライブ日和となった。

片側3〜4車線ある立派な高速道路だが、クウェートの場合、通行料はすべて無料だという。

市内を西に向かって走るとすぐに海が見えてきた。

ここから先が、「世界で4番目に長い橋」と現地で呼ばれる『シェイク・ジャベル・アル・アフマド・アル・サバ・コーズウェイ』である。

橋も長いが、名前も長い。

橋の名前は2006年まで28年間クウェートを統治した第13代首長にちなんだものらしい。

橋の写真が撮りたいと告げると、砂漠さんは橋の途中にある「サウス・アイランド」に降りてくれた。

この島は娯楽と観光目的で建設された人工島で、時々野外コンサートなどが開かれるそうだ。

ここからだと、橋の様子がよく見える。

対岸には逆光ながらクウェート市中心部の高層ビル群がシルエットで浮かび上がっていた。

このあたりの海はクウェート湾とも呼ばれ、アラビア海の一番奥に位置する遠浅の海だ。

この浅瀬を貫くように建設されたこの橋の長さは、クウェート湾の北岸を結ぶ「メインリンク」が36キロ、西に位置する隣町をつなぐ「ドーハリンク」が12キロあって、全ての橋の総延長は48.5キロ。

この総延長距離が世界4位だというのである。

橋の長さというのはさまざまな基準があるようで、世界一長いとされる中国本土と香港マカオをつなぐ『中国港珠澳大橋』は全長55キロあるが、2位と3位は調べてもよくわからなかった。

この橋は韓国企業が中心となって建設されたが、完成当時の韓国紙は「世界2位」と伝えている。

人工島を出ていよいよメインリンクに入る。

橋の中央に見えてくるのは、船の航行のために高くなった斜張橋部分を支えるための巨大なパイロン。

この角度からではよくわからないがクウェート伝統の帆船の形をしていて、高さはクウェートのシンボルである「クウェートタワー」とほぼ同じだという。

このパイロンを過ぎた先が下り坂になっていて、ここで初めてこの巨大橋の全容が見えてくる。

橋の両側は海で、弧を描くように緩やかにカーブしながら橋はずっと先まで伸びていた。

砂漠さんは「私はこの景色が好き」と言い、時々用事がないのにこの景色を見るためだけにこの橋をドライブするのだそうだ。

というのも、総工費4000億円とも言われる巨費を投じたこの橋の通行料も無料だからである。

クウェートでは駐車場も無料のところが多く、ガソリン代の安さも合わせてドライバーにとっては夢のような環境なのだ。

およそ15分走って、ようやく対岸が見えてきた。

しかしそこには町はおろか村と呼べるようなものもない。

一体、何のために大金を投じてこんな橋を作ったのかという疑問が浮かんでくる。

道路脇の荒地にポツポツとテントが立っているのが見える。

砂漠さんが、あれはレジャー用のテントだと教えてくれた。

砂漠さんの家族も時々やるのだそうだが、クウェートの人たちは何もない砂漠に大きなテントを張り、そこで家族揃って料理をしたりおしゃべりをして過ごすのが好きなのだという。

私から見て、特別美しいとも思わないこんな荒地でキャンプして何が楽しいのだろうかと思うが、やはり遊牧民の血がそうさせるのかもしれない。

日本人が花見や月見を楽しむように、クウェートの人たちは砂漠暮らしをして自分たちのルーツを感じているのだろう。

私が砂漠さんの提案に乗って橋を渡ってみたかった理由は、橋そのものではなく、その先つまりこの荒地の先にあった。

そもそもなぜクウェートがこの長いコーズウェイを建設したかというと、その先に未来都市を建設する計画を持っているためだ。

『シルクシティー』と呼ばれるこの未来都市計画は、クウェート政府が思い描く石油に頼らない国家開発目標「クウェート・ビジョン2035」の目玉であり、クウェート北部シャトルアラブ川河口付近の砂漠と島を近代的な都市に生まれ変わらせようという野心的な計画だ。

この計画は中国が進める「一帯一路」構想とも結びつき、両国は2018年協力協定を締結し開発推進のための合同委員会も立ち上げている。

シルクシティーでは、高さ1000メートルの超高層ビルを中心に複数の都市群が計画されているほか、新たな空港や港湾の建設も予定されている。

私が渡ってきた「世界で4番目に長い橋」はまさにこの「シルクシティー・プロジェクト」の第一弾であり、首都クウェートシティーとシルクシティーを繋ぐ重要な大動脈となるというわけだ。

だから私は橋そのものではなく、橋の向こう側がどうなっているのかが知りたくて砂漠さんに連れてきたもらったのである。

しかし来てみると、建設現場の一つも見当たらない。

火力発電所から伸びる送電網が唯一人の手が加わっている開発の痕跡だったが、立派な道路を通るダンプカーの姿も全く見えなかった。

砂漠さんに聞いても、「まだ何も始まっていない」ということなので、中国人が大挙して乗り込んで自分たちの拠点を作ろうとする各地で起きているような問題はまだクウェートでは始まっていないようだ。

道路脇のピンクのかわいい花が咲いていたところで車を止めると、近くにラクダの一団がいた。

このあたりのラクダはヒトコブラクダだそうで、こんなに間近にラクダを見るのは40年ぶりだろうか。

近くにラクダ飼いの男が座っていた。

まだ細々ながら遊牧が行われているようである。

実にのどかな風景ではあるが、実はこの道を少し進むとイラクとの国境地帯。

「ブービヤーン島」という湾岸戦争の火種となったシャトルアラブ川の河口に浮かぶクウェート最大の島がある。

イラクから見るとちょうど海への出口を塞ぐ位置にあるこの島の領有権をフセイン大統領は主張し、クウェートと対立していた。

シルクシティーがまだ幻のままであることを確認した私はここで引き返し、次の訪問先へ連れて行ってもらうことにした。

再び「シェイク・ジャベル・コーズウェイ」を渡り、今度はクウェートシティーの南に進む。

橋の両側にクウェート湾が広がり、右手には西に向かって伸びる「ドーハ・ライン」が見える。

砂漠さんはこの橋を渡った先のドーハという街に住んでいるそうだ。

次に私が訪れたのは、1990〜91年の湾岸戦争を今に伝える貴重な爪痕「アル・クレイン・ハウス」である。

閑静な住宅街の中に入っていくと、突然1台の古い戦車が置かれていた。

設置されていた案内板には、この場所で行われた戦闘で実際にイラク軍が使用したソ連製の「T-55戦車」だと書かれていた。

「アル・クレイン・ハウス」はクウェートシティの郊外フィンタスという町にある。

1990年8月2日に起きた突然のイラク軍によるクウェート侵攻では、クウェート軍はほとんど抵抗らしい抵抗もできないまま占領されてしまったが、クウェート人の中にもイラク軍に抵抗し続けたレジスタンスがいた。

そのうちの一つ「アル・メシラー・グループ」の若者19人がアジトだったこの家でイラク軍と交戦、12人が死亡した。

この戦いが起きたのは多国籍軍がクウェートを奪回する2日前、1991年2月24日だった。

死亡した12人は殉教者とされ、砲弾の痕も生々しい建物が残され湾岸戦争を後世に伝える博物館となったというわけである。

この建物の入場料は無料。

私たちのほかに誰も見学者はおらず、暇そうにしていたおじさんが英語で書かれた小冊子をくれた。

その冊子をもとに、この家で何が起きたのかを書き留めておきたい。

【アル・メシラー・グループの登場】

1990年8月2日、サダム軍がクウェートに侵攻し、土地を破壊し、平和な人々を拷問したとき、クウェートの若者たちはレジスタンスの一環として戦闘グループを結成した。組織化されたグループの1つがアル・メシラー・グループと名付けられた。31人の若者で構成され、その主な任務は侵略軍に抵抗することだった。彼らはまず軍事基地などから武器を集めたが、食糧と水を買うために安く武器を売るイラク兵からも武器を購入した。

グループの作戦は、イラク兵の狙撃とイラク軍の弾薬を積んだトラックに爆弾を仕掛けることだった。当初はリスクなく作戦を遂行できたがう、次第にイラク軍の警戒が強化され検問所も設置されるようになる。グループのリーダーは安全な場所に移動することを考え、このアル・クレイン地区が選ばれた。イラク軍が一段と統制を強化した11月以降、グループの活動は一時中断されるが、1991年1月17日、アメリカ軍の空爆が始まると再び活動を再開する。

引用:「アル・クレイン・ハウス」の冊子より

【アル・クレインの不滅の叙事詩】

1990年2月20日、連合軍による地上攻撃とクウェート解放作戦が実施される直前に、イラク軍はクウェートの若者を自宅から逮捕し、捕虜として収容し始めた。

2月24日についに陸上戦が始まった。メシラー・グループの若者たちは敵の位置を味方の軍に伝える役割を果たそうとこの家で武器の準備を行なっていた。その日の午前8時、イラク軍の諜報車がグループの本部であるこの家の前に止まった。若いクウェート人男性を探してパトロールしていたもので、後ろにはイラク兵を乗せた多数のミニバスが続いていた。イラク兵が車から降りて家のドアをノックする。しかし誰も応えなかった。このような場合はいつものように、イラクの指揮官は家に侵入して盗みをするために壁を飛び越えるよう命令した。

一方、家の中では、グループのリーダーともう一人のメンバーが通りに面した窓から進行状況を見守っていた。危機的な状況にあることを察したリーダーは、すぐに決断を迫られた。それは、確実に処刑を意味するイラク軍への降伏か、祖国を守るために戦うかという選択だった。リーダーとメンバーが下した結論は、祖国のための殉教だった。リーダーはイラク兵を撃とうとしたが、残念なことに彼の武器は動かなかった。それを見た仲間がすぐに発砲、車の側に立っていたイラク軍将校が負傷、残りのイラク兵は逃走した。しばらくすると、重武装の敵軍が四方からこの家を取り囲んだ。リーダーは、敵の注意を逸らすために、グループのメンバーを家の各所に散らし、近隣の家に飛び移るよう命じた。

そして戦いは夕方6時まで続いた。グループのメンバーが軽火器を使っていたのに対し、イラク軍は戦車、機関銃、RPGなどの重火器を使用した。グループの3人がすぐに殉教し、9人が捕らえられた。彼らはサダムの手先によって拷問され、別の場所で発見された。アッラーは、グループの7人が戦いを生き残るよう定めた。イラク軍は、停電のため薄暗くなった家屋の瓦礫の中から彼らを見つけることができなかった。彼らは不滅の戦いの出来事を語るために救われたのだ。一方、サダムの軍隊は完全に敗北し、何百人もの人員を失い、恥と不名誉だけが残された。

アル・クレインでの出来事は歴史的で愛国的な叙事詩の1つであり、この最愛の祖国に属するグループによって血で書かれた英雄的行為、犠牲、不動の例となっている。クウェート首長のシェイク・ジャベル・アル・アフメド・アル・ジャベル・アル・サバーハ殿下は、この歴史的建造物を訪れ、この普通の家を国立博物館にするよう命じた。

引用:「アル・クレイン・ハウス」の冊子より

建物内には、2月24日の戦闘で命を落とした若者たちの写真が展示されている。

アラブ風の衣装を身につけた若者もいれば、軍服を着た若者もいる。

これがグループのリーダーであるシャイド・ハディ・サイード・ムハンマド・アラウィ。

彼はクウェート市の役所に勤めていて9人の子供がいたが、2月25日に死亡した。

多国籍軍がクウェートシティを解放したのは27日、わずか2日前の悲劇だった。

こんな大きな薬莢も展示されていた。

このくらいの民家を攻略するにしてはイラク軍が多くの砲弾を発射したことがわかる。

あの戦争では、クウェートに商社マンとして駐在していた私の親友も人質となった。

そして当時警視庁記者だった私も急遽本社に呼び出され、イラク取材要員としてヨルダンに送り込まれた。

私にとっても湾岸戦争は、非常に思い出深い戦争である。

サダム・フセインの誤算は、アメリカがこれほど素早く軍事介入に踏み切ったことだっただろう。

所詮はアラブ内部での領土争い。

腐敗したクウェートの首長一家の行状をアピールすれば、イスラム世界からの支持は得られるとの読みもあったに違いない。

権力者は常に自分に都合のいいシナリオを描きやすい。

イラクの失敗は、今日のロシアの失敗とどうしてもかぶって見えてしまう。

あの戦争から30年以上が経ち、もはやクウェートの街中でその爪痕を見つけるのは困難である。

お隣のイラクがフセインの死後も混乱し経済的な困窮に見舞われているのとはまさに対照的だ。

国民を見捨てていち早く逃げ出した首長一家は、現在も絶対的な権力を握り、中国と結んで未来都市建設を夢見ている。

今回、私は砂漠さんにイラク国境にも連れて行ってもらえないかと頼んだのだが、危険だからという理由で断られた。

サッカーの湾岸カップの際には、クウェート国民が大挙してイラク南部のバスラまでサッカー観戦に押し寄せたということはあったようだが、実際には今でも隣国イラクとの往来はさほど活発ではないらしい。

しかし植民地支配していた時代にイギリスによって人工的に作られたこのクウェートという国がいつまで無事に地上で存在できるのか、私の目からは甚だ危ういように感じられて仕方がなかった。

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