<吉祥寺残日録>快晴の玄界灘を越えて、対馬に初上陸した #201026

臨時国会が始まり、菅総理が所信表明演説に望んだ今日、私は福岡からフェリーに乗って長崎県の対馬に行った。

博多港を出たのは午前10時。

雲ひとつない快晴だった。

博多港を出て2時間あまり、最初の寄港地は壱岐。

福岡から壱岐までは、点々と島が続き、太古の昔から朝鮮半島と北九州を結ぶ重要な拠点だった。

フェリーの客の多くがこの島で降りる。

船は壱岐を出て、さらに2時間。

途中にはあまり島はないが、対馬は大きな島なので天気が良い日には遠くからも見える。

多少方向がずれても、島のどこかにはぶつかっただろう。

対馬の中心地・厳原は、江戸時代、朝鮮との交易を独占した対馬宗家の本拠地だった。

対馬宗家の居城・金石城の石垣や櫓が残されている。

朝鮮からの江戸に派遣された「朝鮮通信使」の接遇もこの城で行われた。

しかし私が一番訪れたかった「対馬歴史民俗資料館」は閉鎖され、新しくできる「対馬博物館」の新築工事の真っ最中だった。

残念ながら資料を見ることはできなかったが、立派な博物館ができることはこの島の歴史を考えれば当然であり完成が楽しみだ。

ただ、福岡で訪れた九州国立博物館では、対馬にまつわる興味深い品を見た。

宗家が所有していた大量の木印である。

対馬宗家は、朝鮮や日本の有力者の印を偽造して外交文書を作り、大陸からの物資の交易を独占していた。

江戸幕府も朝鮮王朝も手玉にとる、実にしたたかな一族だったのだ。

対馬宗家の菩提寺である「万松院」には、歴代藩主のお墓が並ぶ「御霊屋」と呼ばれるがあり、その立派さは鎖国時代の日本の中で対馬が占めた特殊なポジションを強く印象付けるものだ。

しかし、今日一番面白かったのは、私が厳原で泊まっている宿だった。

臨済宗のお寺「西山寺」の宿坊に泊まっているのだが、このお寺は江戸時代、対馬宗家の外交文書を作っていたのだと言う。

ということは、あの印の偽造を行ったアジトだったということになる。

しかし、この宿坊、とても清潔でモダンに作ってあり、とてもお寺に泊まっているとは思えない快適な宿なのだ。

明朝6時からは、坐禅の会に参加できるという。

明日はレンタカーを借りて、島を一周する予定である。

日本人がほとんど知らないこの国境の島は、私たちの祖先がやってきた道であり、大陸の先進文化が流入したルートだったのだ。

フェリーの旅や対馬での旅の様子は改めてこのブログにも書こうと思っている。

もっともっとこの島のこと、この島を通って日本に伝わっていった様々な文化について知りたい。

今回の旅は、その途方もない学びの最初の一歩に過ぎない。

コメントを残す