日本最大の湖「琵琶湖」。
7世紀には天智天皇がその湖畔に「近江大津宮」を開いたり、天下人織田信長が絢爛たる安土城を建設するなど、この湖の広大な眺めは最高権力者たちを魅了してきた。
しかし、京都には何度も行っているのに琵琶湖はいつも素通り。
この湖を目的地とした旅行をしたことがなかった。

41回目の結婚記念日を過ごすため、私は妻に琵琶湖のホテルに宿泊することを提案した。
東京と岡山の二拠点生活をするようになり、妻は新幹線で行ったり来たりを繰り返しているのだが、3時間を超える移動が苦痛だとよくこぼしていたからだ。
東京と岡山の途中で寄り道すれば、じっと新幹線に座っている苦痛も多少和らぐだろうと考えたからだ。
妻も琵琶湖には行ったことがなく、私の提案を受け入れた。

宿泊先として選んだのは「琵琶湖マリオットホテル」。
世界有数のホテルチェーン「マリオット」が琵琶湖の湖畔にあることを知り、プールもあるようなので、ここでのんびり過ごそうと考えた。
京都駅でJR湖西線の新快速電車に乗り換えて、4つ目の「堅田駅」で降りると、駅前にホテルの無料バスが停まっていた。
ホテルと最寄りの堅田駅の間には1日9本の無料バスが走っていて重宝した。

バスは全長1600メートルの「琵琶湖大橋」を渡る。
車窓からは両側に琵琶湖。
その景色は湖というよりも穏やかな瀬戸内海のようだと思った。

バスは10分ほどで琵琶湖マリオットホテルに到着。
文字通り琵琶湖の目の前に建つ地上12階建てのホテルである。
マリオットが日本各地にホテル網を持つようになったのはそれほど昔のことではないが、このホテルの建物は決して新しいものではなさそうだ。
フロントでそのことを聞くと、この建物は以前「ラフォーレ」だったそうで、それを2017年にマリオットが買収したということらしい。

建物の中に入ると、広々としたロビーが迎えてくれる。
ロビーの奥にはカフェラウンジがあったが、ここはマリオットの上級会員だけが利用できる施設だそうで、私たちは利用できない。
私たちが飲食できるのは最上階の12階にあるレストラン「Grill & Dining G」のみだという。
宿泊日数によって会員のステイタスが決まる欧米型のホテルチェーンではよくあることだ。

私たちの部屋は7階だった。
廊下もすっかりマリオット風にすっかりリフォームされていて、外観に漂っていた“古さ”は全く感じない。
昔、「ラフォーレ」系列のホテルには何度か泊まったことがあるが、マリオットになってだいぶ雰囲気が変わったのだろう。

部屋に入りカーテンを開けると、琵琶湖の絶景が窓いっぱいに広がった。
せっかくなので琵琶湖が見える部屋がいいと思い今回は「デラックスルーム」を予約したため、広さは40平米、ゆったりとしたツインルームである。

キングサイズベッドが置かれたダブルの部屋もあるようだが、私たちは極力ツインの部屋を選ぶ。
内装も落ち着いていて、妻も大いに気に入ったようだ。

窓際にはテーブルのほか、窓辺に寝っ転がって湖を眺められるカウチも置かれていて、外に出なくても琵琶湖の雄大な景色を心ゆくまで堪能できる。
もっとお金を出せば、窓辺にお風呂が設置された「プレミアムルーム」もあるようで、お湯に浸かりながらのんびり琵琶湖を眺めることもできるらしい。

水回りも洗練された大人っぽい作りで、外国を旅しているような錯覚を覚える。
安さ優先で狭くて安っぽい設備が一般化した日本に比べ、海外のホテルチェーンは一定の広さとクオリティーが確保されているため、ガッカリさせられることが少なくて済む。
最近のインバウンドブームで日本の宿泊施設もようやく世界標準に近づいてきたことは大いに歓迎したい動きといえよう。

今回の旅行のコンセプトは、あくせく観光地を回ることなく、冷房の効いたホテルでゆっくりと過ごすこと。
ということで、朝も夜もこのカウチに横になり、ぼーっと窓の外を見て過ごしていた。
到着した7月31日の午後は雲が多く、湖の色も濁って見えた。

近くのイタリアンレストランで夕食を済ませて戻ると、ホテルには灯りがともり夕暮れの顔に変わっていた。
最上階で照明がついている場所がレストランのようだ。

日が沈み夕闇が迫る午後7時半。
団体さんを乗せた大型バスが何台も到着した。
湖岸には点々と灯りがともり、琵琶湖を取り囲んで人々の営みが続いていることを感じる。
司馬遼太郎さんの「街道をゆく」によれば、琵琶湖の西岸には多くの新羅からの渡来者が住み着き、彼らの文化がこの地に根づいていたという。

翌朝6時。
遮光カーテンを開けると、朝の琵琶湖が視界に飛び込んできた。
朝日は雲に遮られて見えないものの、結婚記念日の8月1日はどうやら晴天のようだ。

朝食は12階のレストランでモーニングビュッフェ。
窓の外にはぐるりと琵琶湖の大パノラマが広がる。
私たちはレストランのオープン時間に合わせてレストランに行き窓際のしっかりとゲットした。

朝のビュッフェは1人4250円。
今回はあえて朝食付きプランを選ばず、1食だけ試しにビュッフェで食べて、翌朝は買ってきたパンで済ませる計画だ。
一流ホテルのビュッフェは品数も多くて楽しいものだが、基本的には大きな違いもなく、年齢とともに食べる量も減っているので費用対効果として毎朝朝食付きでなくてもいいというのが最近の気持ちである。
それでも、琵琶湖名物のえび豆や赤こんにゃくなど、地元ならではの料理が食べられるのもホテルビュッフェの楽しみだろう。

この日はずっといい天気で、窓から見える琵琶湖の湖面も青く穏やかだった。
本当に海のようだと思う。
滋賀県の人たちは琵琶湖のことを「海」と呼ぶと聞いたことがあるが、その気持ちがよくわかる。

ところが夕方になると、突如雲が広がり始め、にわかに風が吹いてきた。
湖面の色は青から黒へと変わり、広い範囲、湖の表面が波立っているのを感じる。
都会の天気と違い、琵琶湖の天気はダイナミックである。

やがて、円形の青い空を一つ残して空全体が黒い雲に覆われた。
そして、雨。
全てはあっという間の出来事だった。

雨がさらに激しさを増し、湖でのレジャーを担当するホテルスタッフが慌てて逃げ帰ってくる。
さっきまであんなにいい天気だったのに・・・。
テレビをつけると、滋賀県南部に竜巻注意情報が出たという速報スーパーが流れていた。

ところが10分もすると、雨はすっかり上がり、再び青空が広がってきた。
今日の夕食はホテルのレストランを予約しているので雨でも良かったのだが、せっかくなら西向きの窓から沈む夕日を眺めたいと思った。

午後6時半、12階のレストランに上がる。
窓際の席はすでにいっぱいで、ほとんどの客は9500円のコース料理を食べているようだった。

ただ、私たちはそこまでお腹が空いていない。
さて、どうするか?
アラカルトのメニューを眺めながらしばし思案する。
サラダや前菜、スープ、ハンバーガーにサンドイッチ、パスタやカレーもある。

結局選んだのは2人とも「近江牛カレー(サラダ・ピクルス)」(3200円)。
私は生ビールも注文した。

さて、3200円のカレーはどんなお味か?
ボールに入ったカレーは近江牛はおろか他の具材も見えず、正直オイオイと思う。

しかし、カレーをすくってライスの上にかけると、中にしっかり近江牛の塊がたくさん入っていた。
さて、味の方はどうだろう?
一口食べると、甘口の欧風カレーの旨味が口の中に広がった。
美味いじゃないか。
カレーにもしっかりコクがあり、さすが近江牛、とても柔らかい。
素揚げした野菜との相性もバッチリで、妻と二人、今年の結婚記念日ディナーとなるカレーの味に大満足だった。

付け合わせのピクルスも、とてもジューシーで酸味のあり美味い。

洋風のコース料理だったり和風の懐石料理だったり、若い頃は贅沢した感じで嬉しかったが、近頃では何を食べたのかさえ思い出せなくなってしまい、そのありがたさはもはや失われてしまった。
むしろ3000円のカレーのような一品の方がよほど記憶に残り、記念日のディナーにはふさわしいと思えるようになった。

そんなことを考えながらカレーを食べていると、西側の窓の外がどんどんオレンジ色に染まっていく。
雨はあがったとはいえ西の空には積乱雲が残り、その向こうから後光が差しているようにオレンジの光が広がっていた。
この景色は北向きの私の部屋からは見られない。
わざわざレストランを予約した甲斐があったというものだ。

結婚記念日のカレーディナーを済ませ、部屋に戻ると、東の空に立ち昇った入道雲が夕日に染まっているのが見えた。
その雲の色が湖にも映り、とても静かな美しい夕暮れだった。

やっぱり水のある風景はいいな。
海のほとりだと津波の心配もあるけれど、湖ならそんな心配も無用だろう。
琵琶湖、いいじゃないか。
そんなことを感じながら、窓際のカウチで徐々に暗くなる湖の様子をずっと眺めていた。

翌朝、目が覚めたのは午前4時半だった。
遮光カーテンを開けると、もう外は明るくなっている。
週間予報では今回の旅行中、曇りや雨の日が多いと言っていた気がするが、どっこいこの日も晴れていた。

湖に設置された魚取りの仕掛けの向こうを一艘の漁船が音もなく過ぎ去っていく。
どうやら風もないようで、湖面はとても穏やかに見える。
私は旅行に行くといつも早起きすると妻によく怒られるのだが、やはりこの時間にしか見られない貴重な風景というものがあるのだ。

午前5時15分。
北東の雲の隙間から太陽が姿を現した。
水面にオレンジ色のラインが走る。
こんな風景が毎朝見られるといいのに・・・と思う。

しかし次の瞬間、こうも思った。
私は飽きっぽいタチなので、ずっとこんな風景を見ているときっとすぐに飽きて何も感じなくなるに違いない。
それならば、住み替えるのではなく、旅行するのが一番だと・・・。
世界各地の海や湖が見えるホテルに泊まり、それぞれ違った朝を迎える。
そうすれば、飽きることもなく、新たな感動が得られるだろう。
私にはやはり旅が一番合っているのだ。

朝7時前、ホテル前の浜を散歩してみる。
この辺りは滋賀県が管理する「第2なぎさ公園」という公園だそうで、琵琶湖を一周するサイクリングルート「びわいち」のスタート地点として、自転車愛好家たちの聖地となっているらしい。
以前はこのビーチで泳げたようだが、現在、水泳所は閉鎖されているという。

それにしても、なんと穏やかなんだろう。
見た目は全く海なのに、海とは違ってほとんど波がない。
水もとても澄んでいて、筋雲に沿ってこのまま水平線の彼方に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
いいじゃないか、琵琶湖。
織田信長の安土城、豊臣秀吉の長浜城、そして明智光秀の坂本城。
琵琶湖を取り囲むように城を構えた戦国の英雄たちも、きっとこの穏やかな湖面に慰められたに違いない。

ホテルにある温泉施設やプールにも行ってみたが、このホテルはそういう施設を目当てに選ぶべきではない。
特別何かをするわけでもない旅。
そんな旅の目的地としてこそ、「琵琶湖マリオットホテル」には価値があると私は思う。
「琵琶湖マリオットホテル」 住所:滋賀県守山市今浜町十軒家2876 電話:077-585-6100 https://www.biwako-marriott.com/