<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 収穫した大根とユズを持って東京に戻る #221222

今日は冬至。

今年の12月は例年よりも寒気が強いようで、新潟を中心とした日本海側では大雪の被害が続いている。

明日からはクリスマス寒波が日本列島を襲う予報で、温暖な岡山でもホワイトクリスマス似なるかもしれないそうだ。

昨夜から降っていた雨は、朝起きると上がっていた。

もやがかかった集落に朝日が差し込んでいる。

美しい朝だ。

それほど寒くもない。

この2週間、冬の岡山で過ごしてきたが最高の朝かもしれない。

必死で草刈りをした畑も、朝日を浴びて輝いている。

来年はこの畑で何をするのか、まだイメージは定まっていないけれど、いろいろな妄想が頭に浮かんでは消えていく。

とりあえず、今回の帰省でやりたかったことは大方済ませることができ、今日私は東京に戻る。

帰京を前に、畑に残っていた大根を収穫した。

どうも大根との相性が良くないのか、蒔いたタネのうち育ったのはたった4本だけだった。

しかも小さい。

中には根元から何本にも割れた変形のものもある。

硬い石でもあったのだろうか?

立派な大根やニンジンを育てることは来年の宿題として残ったが、収穫した大根は葉っぱだけ昨夜いただいて、本体は余った白菜やジャガイモと一緒に東京に持って帰って食べることにした。

持ち帰るというてことで言えば、ユズも収穫した。

放置した畑の一番奥に1本だけ植えられたユズの木は、見捨てられたように葛の大軍に覆い隠されてしまっていたが、それでも必死で生き残り、いくつかの黄色い実を実らせた。

吉祥寺に戻ったら、早速柚子風呂に入るつもりだ。

先月からこの見捨てられたユズと栗の木の救出作戦を始めている。

山の方から侵略していた葛やその侵入ルートとなっていた雑木をチェーンソーで切り開き、ようやくユズと栗の周囲が少し片付いてきたところだ。

今週は、ユズの木の周囲を囲むように茂っていた笹竹を草刈機でやっつけた。

真っ直ぐに伸びた笹は私の身長をはるかに超える高さで、斜面をびっしりと埋めている。

きっと昔の武士ならば、こうした笹竹で矢を作ったに違いない。

この笹の上を葛の蔓が這い、笹農業茂みの中に鋭い棘を持つつるバラが潜んでいるのだ。

しかしそんなことはお構いなしに、草刈機やチェーンソーを振り回すと、不気味な薮は徐々に後退し、光が差し込むようになった。

夏にはまるでジャングルのようだったユズの周りが私の力で元の姿を取り戻そうとしている。

少しさぼれば元の木阿弥、自然に飲み込まれていくことはわかっているが、こうしてささやかな抵抗をして人間にとって便利な環境を作り出してきたのが、太古からの人類の営みなのだろう。

私たち都会人かすっかり忘れてしまった「開墾」という営みを、私は今回の帰省で大いに体感した。

人間が自然を支配するなんておこがましいことではなく、自然のごくごく一部を利用させてもらって生きていくための糧を得る、それが開墾である。

大規模にやろうと思っても人力だけではとても太刀打ちできなかっただろう。

しかし人間が機械を使うようになって、世界中で自然破壊が進んでしまった。

人類の歴史から見れば、ほんの最近の出来事である。

それまでは人力でできる範囲で自然を利用し、人間も自然の一部として共に生きてきたのである。

こうして一人、自然と戦っていると、人間の無力さを思い知らされる。

いい経験だ。

この季節、集落のあちらこちらから煙が上がる。

剪定したブドウの蔓を燃やしているのだ。

来年1月に帰省する際には、私も野焼きをするつもりだ。

畑を焼き、そこから新たな命が芽吹く。

毎年繰り返される命の連鎖がまたそこから始まるのだ。

同じことの繰り返しだと思えば意味がない営みだと感じられるかもしれないが、これこそが自然の摂理であり、人工的な都市では味わえない幸せの源なのではないかと近頃感じるようになった。

次に岡山に来る時は年が改まり、また新たな一年が始まる。

一年で何ができるのか、それを想像するだけで今からワクワクしている。

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