昨日、ほぼ20日ぶりに東京に戻ってきた。

今回は妻が岡山に残り、私一人で吉祥寺で過ごすというこれまであまりなかったパターンだ。
西日本は今週、連日雨が降ったり止んだりのぐずついた予報だが、関東はそこそこの天気のようで、帰りの機内でこの1週間どのように過ごすか思案していた。
とりあえずゴルフの予約を入れてあるし、週の後半は展示会に行く予定も入っている。
かかりつけの医者や床屋にも行くつもりだ。
だから私が思案していたのは主に、食事をどうするかということであった。

留守中に届いた荷物を受け取ったり、郵便物のチェック、さらには妻がベランダで育てている植物に水やりをしたりしていたら、もう時間は夕方になっていた。
今宵は暑くもなく寒くもない気持ちの良い夕暮れだ。
短パンにサンダルという気楽な格好で一人吉祥寺の街にふらりと出かけることにした。

向かったのは吉祥寺駅前のハモニカ横丁。
平日もまだ宵の口ということで、どこのお店もまだ席に余裕がありそうである。
だがこの日の私の目当ては一軒の老舗居酒屋だった。

私も時々利用する人気の焼き鳥屋「てっちゃん」の向かいにある渋い店。
その名は「美舟」という。
無国籍な印象の店が多いハモニカ横丁にあって、この店は昭和さながらの独特の老舗感を漂わせ、初めてここを訪れたよそ者を寄せ付けない雰囲気がある。
だから私もこれまで一度もこの扉を開けたことがなかった。

店の入り口をよく見ると、映画「火花」のチラシが貼ってある。
そうこの店は又吉直樹さんの芥川賞受賞作「火花」にも登場するお店なのだ。
私はこの小説を読んでいないし、映画もドラマも見ていないので特別な感慨はないのだが、50年以上続くというこの店の歴史には興味を抱かざるを得ない。

扉を開けて店に入ったのは午後7時前。
1階は8人ほどが座れるカウンター席のみで、2組の客が飲んでいた。
カウンターの中には若い女性が一人だけで、私の姿を見ると「どうぞ」と空いているカウンターの奥の席に促した。
とても写真をバシャバシャ撮る雰囲気でもないので、カウンターの奥にずらりと貼られたメニューを写す。

背中側の壁にもずらりとメニューが。
料理の大半は500円前後で、その数の多さに圧倒される。
通常ならば何を頼めばいいのか沼にはまり込んでしまうだろう。

私は事前に学習していた。
口コミを参考にして、席につくやいなや「生ビール」(550円)と「肉芽」(450円)を注文した。
私は読んでいないのだが、又吉さんの小説の中に「カネのない先輩芸人は『肉芽』一皿だけを頼んでチビチビ呑む…」というくだりが出てくるのだそうだ。
そういえば、店の前に貼られた「火花」のチラシの下にこんな張り紙があるのを店を出た後で確認した。
『芥川賞受賞 又吉さんの著書『火花』に 当店、美舟と肉芽が★出没★』
ということで、やはり初めてこの店に来たならば「肉芽」をいただくのが正解のようである。

「肉芽」というのは、豚肉とニンニクの芽を炒めたもので味は甘辛い。
味付けが濃いめなので、これが1皿あれば、ちびちび酒が飲めるというのは嘘ではないだろう。
ただわざわざお店で食べなくても、自分で豚肉とニンニクの芽を買ってくれば作れそうな料理ではある。
やはりこの「美舟」の魅力はなんと言っても昭和そのままのお店の雰囲気。
一度腰を下ろすと、その居心地の良さについ長居をしてしまう気持ちはよくわかる。
2階にはやはり渋いテーブル席があるらしく、今度は友人を誘ってぜひ2階席で飲みたいものだと思った。

壁に貼られたメニューの中に気になるものを見つけた。
「キラス」という料理で、さまざまな種類があるようだ。
よく見ると説明が書いてあった。
『キラスとは? オカラを酢で和えのりで巻いた食べもの。和歌山の郷土料理』だそうだ。
一つ食べてみようかと思ったが、肉芽だけで生ビールを飲み干してしまったし、常連さんらしき3人組が入ってきて1階が満員になったため、今回は視察ということで改めて出直すことにした。
「美舟」には「ポコ天」という男性器を模した珍メニューもあるそうで、とても一度の訪問ではその全貌はつかめそうにない。
吉祥寺では貴重なディープなお店、きっと今後またお世話になることだろう。

「美舟」を出て、夜風に吹かれながら街を彷徨う。
暑くもなく、寒くもなく、気持ちの良い夕暮れである。
肉芽のおかげでお腹はそれなりに膨れていた。
ただ夜中にお腹が空くかもと思い直し、立ち寄ったのはガード下にある「いぶきうどん」である。

この店でうどんを食べるのも久しぶりである。
温かい「かけうどん」(390円)を注文し、ネギ、天かす、生姜、いりこをトッピングする。
この店のうどんはスープが最高で、天ぷらなど注文しなくても「かけ」で十分に満足できる。
これで夜間お腹が空いて困ることもないだろう。
妻のいない夜の居酒屋めぐり、お酒と1品だけでも店の雰囲気を知ることができる。
今週1週間、毎晩新しい居酒屋に足を運び、吉祥寺をさらに深く知りたいと思った夜だった。
食べログ評価3.44、私の評価は3.60。
「美舟」 電話:042-221-1460(予約不可) 営業時間:[月~金]16:00~23:30 [土・日]17:00~23:30 定休日:無休