<吉祥寺残日録>朗読で聴く「二十四の瞳」 #200629

最近、ラジオにはまっている。

ラジオと言っても、生放送を聴くのではなく、「らじるらじる」というスマホ向けアプリで聞き逃し再生を好きな時に楽しむのだ。

語学や教養など様々な番組が聴けるのだが、その中でもお気に入りは「朗読」である。

「青空朗読」という無料サービスを利用していたのだが、そちらは短編ばかり。

それに比べて、NHKラジオの方は長編の小説をシリーズで聴くことができる。

私がこの朗読にはまったのは、5月ごろから放送されたらしい壺井栄の「二十四の瞳」を聴き始めたからだろう。

小豆島を舞台にしたこの作品は、小学校の頃から文部省推薦図書として名前を知っていたし映画にもなったが、どうもその題名やあらすじから物語が想像でき、辛気臭く感じられてこれまで一度も読んだり見たりすることなく過ごしてきた。

ところが、5月4日に放送されたらしい第一回を聴いてみると、昭和3年の貧しい小豆島の村の情景が生き生きとして目に見えるような感覚を持った。

子供たちの会話や細かな描写が実にリアルに書かれている。しかも、作者の視線がものすごく優しい。

世界から隔絶されたような岬の小村にやってくる若い「おなご先生」が、村中の人の好奇心を掻き立てる。

貧しい村でも、喜びはあり、貧富の差もあり、人間らしい生活があった。

実に微笑ましい描写が続き、第二回、第三回と次々に聴いていった。

ベランダに椅子を持ち出し、遠くの建物や日々変化する空の雲を眺めながら、のんびりと朗読を聴く。

それが私の日常の一部となった。

一日中、パソコンやスマホ、読書と目を酷使する毎日の中で、朗読を聴く時間だけは目を休めることができる。

左目に白内障の症状が現れて、どうも字が読みづらく感じられることも増えてきた。

時々、こうして空を眺める時間は、意識的に作らないといけないと思った。

日常の些細な出来事がはつらつと描かれる物語。

ケガをした先生に会いたくて、小さな1年生たちが8キロの道を歩き親に内緒で先生の家を目指す場面など、聴いていてドキドキしてくる。

貧しいが純粋な子供たちの描写を聴いていると、薄汚れた私の心が浄化されていくように感じた。

だが、時代の変化とともに純朴だった物語にも次第に暗雲が垂れ込めていく。

戦争だ。

物語が始まるのは昭和3年、私の父が生まれた年だ。昭和6年には満州事変が起き、日本は長い戦争の時代に突入する。

海の色も、山の姿も、そっくりそのまま昨日につづく今日であった。

細長い岬の道を歩いて本校にかよう子どもの群れも、同じ時刻に同じ場所を動いているのだが、よく見ると顔ぶれの幾人かがかわり、そのせいでか、みんなの表情もあたりの木々の新芽のように新鮮なのに気がつく。竹一がいる。ソンキの磯吉もキッチンの徳田吉次もいる。マスノや早苗もあとからきていた。

この新しい顔ぶれによって、物語のはじめから、四年の年月が流れさったことを知らねばならない。四年。その四年間に「一億同胞」のなかの彼らの生活は、彼らの村の山の姿や、海の色と同じように、昨日につづく今日であったろうか。

 彼らは、そんなことを考えてはいない。ただ彼ら自身の喜びや、彼ら自身の悲しみのなかから彼らはのびていった。じぶんたちが大きな歴史の流れの中に置かれているとも考えず、ただのびるままにのびていた。

それは、はげしい四年間であったが、彼らのなかのだれがそれについて考えていたろうか。あまりに幼い彼らである。しかもこの幼い者の考えおよばぬところに、歴史はつくられていたのだ。四年まえ、岬の村の分教場へ入学したその少しまえの三月十五日、その翌年彼らが二年生に進学したばかりの四月十六日、人間の解放を叫び、日本の改革を考える新らしい思想に政府の圧迫が加えられ、同じ日本のたくさんの人びとが牢獄に封じこめられた。そんなことを、岬の子どもらはだれも知らない。ただ彼らの頭にこびりついているのは、不況ということだけであった。それが世界につながるものとはしらず、ただだれのせいでもなく世の中が不景気になり、けんやくしなければならぬ、ということだけがはっきりわかっていた。その不景気の中で東北や北海道の飢饉を知り、ひとり一銭ずつの寄付金を学校へもっていった。そうした中で満州事変、上海事変はつづいておこり、幾人かの兵隊が岬からもおくり出された。

そういうはげしい動きのなかで、幼い子どもらは麦めしをたべて、いきいきと育った。前途に何が待ちかまえているかをしらず、ただ成長することがうれしかった。

 五年生になっても、はやりの運動靴を買ってもらえないことを、人間の力ではなんともできぬ不況のせいとあきらめて、昔ながらのわらぞうりに満足し、それが新らしいことで彼らの気持はうきうきした。だからただひとり、森岡正のズックを見つけると、みんなの目はそこにそそがれてさわいだ。

「わァ、タンコ、足が光りよる。ああばば(まぶしいこと)」

いわれるまえから正は気がひけていた。はいてこなければよかったと後悔するほど恥ずかしかった。

出典:青空文庫

島ののどかな日常の中に、突然飛び込んでくる短い記述。

文中に登場する1928年の3月15日や翌年の4月16日は日本共産党の党員が大量検挙された三・一五事件、四・一六事件を指している。

学校現場でも赤狩りが進んでいた当時のエピソードもさらりと登場してくる。

戦況が悪化し、経済がどんどん苦しくなると、田舎の村にも直接的な影響が広がる。

男の子たちは兵隊に取られ、女の子たちの何人かは身売りされていった。

そうして聴いていると、ドキンとするやりとりが登場した。終戦の日、玉音放送を聴いた後の先生と息子・大吉の会話である。

「なにしょげてるんだよ。これからこそ子どもは子どもらしく勉強できるんじゃないか。さ、ごはんにしよ」

だが、いつもなら大さわぎの食事を見向きせずに大吉はいったのだ。

「お母さん、戦争、まけたんで。ラジオ聞かなんだん?」

彼は声まで悲壮にくもらしていった。

「聞いたよ。でも、とにかく戦争がすんでよかったじゃないの」

「まけても」

「うん、まけても。もうこれからは戦死する人はないもの。生きてる人はもどってくる」

「一億玉砕ではなかった!」

「そう。なかって、よかったな」

「お母さん、泣かんの、まけても?」

「うん」

「お母さんはうれしいん?」

なじるようにいった。

「バカいわんと! 大吉はどうなんじゃい。うちのお父さんは戦死したんじゃないか。もうもどってこんのよ、大吉」

そのはげしい声にとびあがり、はじめて気がついたように大吉はまともに母を見つめた。しかし彼の心の目もそれでさめたわけではなかった。彼としては、この一大事のときに、なおかつ、ごはんを食べようといった母をなじりたかったのだ。平和の日を知らぬ大吉、生まれたその夜も防空演習でまっくらだったと聞いている。灯火管制の中で育ち、サイレンの音になれて育ち、真夏に綿入れの頭巾をもって通学した彼には、母がどうしてこうまで戦争を憎まねばならないのか、よくのみこめていなかった。どこの家にも、だれかが戦争にいっていて、若い者という若い者はほとんどいない村、それをあたりまえのことと考えていたのだ。

<中略>

人のいのちを花になぞらえて、散ることだけが若人の究極の目的であり、つきぬ名誉であると教えられ、信じさせられていた子どもたちである。日本じゅうの男の子を、すくなくもその考えに近づけ、信じさせようと方向づけられた教育であった。

<中略>

「なああ大吉、お母さんはやっぱり大吉をただの人間になってもらいたいと思うな。名誉の戦死なんて、一軒にひとりでたくさんじゃないか。死んだら、もとも子もありゃしないもん。お母さんが一生けんめいに育ててきたのに、大吉ァそない戦死したいの。お母さんが毎日なきの涙でくらしてもえいの?」

のぼせた顔にぬれ手ぬぐいをあててでもやるようにいったが、熱のはげしさはぬれ手ぬぐいではききめがなかった。かえって大吉は母をさとしでもするように、

「そしたらお母さん、靖国の母になれんじゃないか」

これこそ君に忠であり親には孝だと信じているのだ。それでは話にならなかった。

「あああ、このうえまだ靖国の母にしたいの、このお母さんを。『靖国』は妻だけでたくさんでないか」

しかし大吉は、そういう母をひそかに恥じてさえいたのだ。軍国の少年には面子があった。彼は、母のことを極力世間に隠した。

出典:青空文庫

敗戦を悲しまず、戦争を憎む母を理解できず、むしろ恥だと考える息子。

戦争しか知らない子どもたちは、私たちとは全く違う思考回路を持っていることに気づかされる。

こうしたさりげない会話は、想像だけではなかなか書けない。

やっぱりその時代を生きた人が書き残したものをもっと読みたい、と感じた。

壺井栄著「二十四の瞳」。

子供たちに読ませたい本と言われているが、この作品は私ぐらいの年齢になって読むと一段と味わい深く感じるだろう。

好奇心旺盛だった若き日の記憶、社会や組織に揉まれて本心を押し殺した経験、そして一線から退いて人生を振り返る心の余裕。

長年勤めた会社を辞める時期に朗読で聴いた「二十四の瞳」は、私に不思議な感動を与えてくれた。

ベランダに座ってぼんやりと空を眺めながら、何度も涙がこぼれそうになる。

今度岡山に行った際に、小豆島にも足を伸ばしてみよう。

さて、これから、どんな作品に出会えるのか?

ベランダで朗読を聴くことが、私の新たな日常になるのだろう。

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