今月の帰省のお供にと、松尾芭蕉の『おくのほそ道』について勉強しようと一冊の本を図書館で借りた。

長谷川櫂著『松尾芭蕉 おくのほそ道』。
NHKの番組「100分で名著」ブックスの一冊で、著者の長谷川櫂さんは読売新聞の記者から俳人となった方らしい。
それにしても「奥の細道」関連の本は実に多い。
私もこの夏、東北にでも旅したいと思い「奥の細道」ぐらい目を通しておいた方がいいと思って探したのだが、あまりに多すぎてどれを借りればいいのか大いに迷わされてしまった。
この本を選んだのは、松尾芭蕉による原文と長谷川さんによる解説が共に読めるというのが初心者向きだと感じたからだ。
巻末に掲載された「『おくのほそ道』全文」を見ると、全部で33ページに収まり、意外に短編なんだなというのが最初の印象だった。
冒頭は有名なこの一節。
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いずれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
この有名な書き出し部分には、「発端」という見出しがついていた。
そして、「旅立ち」「草加」「宝の八島」「日光(1)ー仏五左衛門」「日光(2)ー御山詣拝」「日光(3)ー黒髪山・裏見の滝」「那須野」「黒羽」「雲巌寺」「殺生石・遊行柳」、そして「白河の関」という見出しが続く。

第一部(江戸〜白河) 旅の禊
長谷川氏によれば、「おくのほそ道」は大きく4部構成になっていて、江戸からこの「白河の関」までが第一部で「長旅のための禊」と解釈するらしい。
私たちは現在、第一部の旅の禊の部分にいることがわかります。芭蕉と曾良を追って千住から北へ歩いています。ここから白河の関までの間にいくつもの神社や寺を訪ねます。草加を過ぎて、まず八島明神(室の八島)、日光では東照宮、裏見の滝、那須では八幡宮(那須神社)、光明寺、雲巌寺とつづきます。
なぜ芭蕉と曾良はこうも次々に寺社に詣でたのか。それはみちのくの旅を前にして身を清め、旅の無事を願うためだったはずです。この性格がよく表れているのは日光の黒髪山(男体山)を詠んだ曾良の句と裏見の滝での芭蕉の句です。
黒髪山は、霞かかりて、雪いまだ白し。
剃捨て黒髪山に衣更 曾良
曾良は、河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび、松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。
同行の曾良の紹介を兼ねたくだりですが、ここで曾良は髪を剃り、墨染に衣をかえ、名も宗悟と改めたとあります。出家はしなくても僧の姿となって旅にのぞむ覚悟なのです。芭蕉も同じ思いだったはずです。
曾良の句は更衣(衣更)の句です。更衣は春の袷を夏の一重に改めることですが、ここではみちのくの旅を前に身を清めるという意味合いを含んでいます。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
ちょっとごちゃごちゃしてわかりにくいが、要するに江戸時代に東北地方を旅するにはそれなりの覚悟が必要だったということだろう。
<第一部を代表する句>
行春や鳥啼魚の目は泪
暫時は滝に籠るや夏の初

第二部(白河〜尿前) 歌枕の旅
「おくのほそ道」の第二部は、白河の関から始まって、「須賀川」「浅香山・信夫の里」「飯塚の里」「笠島」「武隈の松」「宮城野」「壺の碑」「末の松山・塩竈の浦」「塩竈明神」「松島」「瑞巌寺・石の巻」「平泉(1)ー高館」「平泉(2)ー中尊寺」という見出しが続き、「尿前の関」までだという。
『おくのほそ道』第二部は白河の関から尿前の関まで、いわゆるみちのくをたどる旅です。季節は梅雨のころ。白河の関を越えてから一路北へ進み、松島をへて平泉へ。ここから南下して山越えにかかり、陸奥と出羽の国境いにある尿前の関までです。東北地方の太平洋側、現在の福島、宮城、岩手県、旧国名でいえば陸奥の国です。東日本大震災の直撃を受けた地域でもあります。
『おくのほそ道』の冒頭に「白川の関こえんと」「松島の月先心にかかりて」とあるとおり、みちのくがこの度の第一の目的でした。みちのくは歌枕の宝庫です。では歌枕とは何か。
松島は松の歌枕、吉野山は桜の歌枕というように、歌枕とは昔の和歌に詠まれた名所のことです。近世以降は排枕というものもあって、こちらは俳句に詠まれた名所のことです。歌枕も排枕も現在の観光地のように現実に存在する場所と思われています。しかし排枕はともかく、歌枕はそうではありません。
歌枕は古歌に詠まれた名所であるといいました。詳しくいうと、王朝時代から中世にかけて和歌に詠まれることによって知られるようになった名所です。その後、応仁の乱から関ヶ原の合戦にかけて百三十年にわたる長い戦乱の時代がありました。歌枕はこの戦乱で滅んだ古い日本で和歌から生まれた名所なのです。
この時代、交通手段は歩くのがもっぱらで、せいぜい舟か馬に乗るくらいですから、今のように手軽にどこへでも旅ができるわけではありません。当時の和歌の詠み手は貴族階級の人々ですが、彼らもじっさいに旅をするのではなく、京の都の宮廷や私邸にいて和歌を詠んでいる。名所を詠むといっても自分でそこを訪ねるのではなく、旅人の話や古い文献、場合によっては松島なら松島という土地の名前だけをたよりに想像で詠むわけです。
芭蕉がみちのくを旅しようと思ったのも、みちのくが想像上の名所である歌枕の宝庫だったからです。古池の句で打ち開いた心の世界をそこで展開させてみたかったからです。
こうして芭蕉はみちのくの旅に出たのですが、ここに大きな矛盾が生まれます。それは想像上の名所をいったいどのようにして訪れるのかという問題です。たしかに現実に存在する歌枕(A)もありますが、歌に合わせてできた歌枕(B)やどこにも存在しない歌枕(C)まであります。幻の歌枕をどのようにして訪ねようというのか。『おくのほそ道』はそもそも訪ねられない名所を訪ねようとした不可能の旅だったのです。
その結果、『おくのほそ道』第二部のみちのくの旅は旅立ち前の期待感とはうらはらに沈んだ調子でつづられます。
芭蕉は歌枕ではなく歌枕の廃墟を旅したのです。そこで感じたのは失望と幻滅でした。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
歌枕を目的にみちのくに旅立った芭蕉のガッカリ感は理解できる気がする。
観光ガイドを片手に有名観光地を駆け足で回る旅には徒労感がつきまとう。
旅の醍醐味は写真で見たことのある場所を効率よく訪れることではなく、旅行前には予想していなかったようなハプニングや出会いにこそあるのだ。
芭蕉も予定していた歌枕めぐりでは大きな発見はなく、この旅での重要な発見はその後日本海側に移ってから待っているのである。
<第二部の代表的な句>
田一枚植て立去る柳かな
夏草や兵どもが夢の跡
五月雨の降のこしてや光堂

第三部(尿前〜市振) 宇宙の旅
尿前の関を後にした芭蕉たちは、「尾花沢」「立石寺」「最上川」「出羽三山(1)ー羽黒山」「出羽三山(2)ー月山・湯殿山」「鶴岡・酒田」「象潟」「越後路」を経て、「市振」にたどり着く。
ここまでが第三部であり、長谷川氏曰く「宇宙の旅」だという。
古池の句で切り開いた心の世界を求めて旅に出た芭蕉は、みちのくで何もかも押し流す時間の猛威を目の当たりにし、無常迅速な時間の波に洗われるこの世を人はどう生きたらいいかという大問題を抱えて旅の前半を終えました。
芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ(しづかさ)」を感じとった。
このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかたをかえると宇宙の「閑さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現したというわけです。
『おくのほそ道』第三部を読みすすめてゆくと、月(出羽三山)や太陽(酒田)や銀河(出雲崎)が次々に姿を現しては去ってゆきます。「閑さや」の句はこの宇宙めぐりの旅の扉を開く一句なのです。
芭蕉は『おくのほそ道』で不易流行について一言も触れていません。ただこの考え方を旅の直後に説きはじめていますから、『おくのほそ道』の旅のあいだに生まれたと考えられます。では旅のどこで生まれたかということになるわけですが、それは宇宙を旅する第三部のほかにありません。
不易流行の「不易」とは時が流れても変わらないということであり、逆に「流行」とは時の流れとともに変わるということです。これは第三部の旅でみてきた宇宙の姿そのものです。月が満ち、太陽が沈み、星がめぐるように宇宙は変転きわまりないということが流行であり、それにもかかわらず不変の「閑さ」に包まれているということが不易です。
芭蕉は第二部のみちのくの旅で歌枕の廃墟をたどり、時間の無常迅速を痛感しました。その芭蕉が第三部で大空をめぐる天体のあいだを旅しながら、無常迅速(流行)とみえる宇宙がじつは永遠不変(不易)であることに気づいた。つまり不易流行とは芭蕉がたどり着いた宇宙観だったのです。
ところが芭蕉は『おくのほそ道』の旅を終えると、不易流行を俳句論として弟子たちに説きました。このため不易の句と流行の句というふうに不易と流行が別個のもの、さらには対立するかのような誤解が生まれることになります。
しかし不易流行が宇宙観であるなら不易と流行は別のものでも、まして対立するものでもなく宇宙の両面の姿であることになります。宇宙は時とともに変化するが、同時に不変でもある。
さらにこの不易流行という考え方は自然観、さらに人生観へと発展してゆく可能性を秘めています。季節はめぐり、花や鳥もまた移ろう。人も生まれて死んでゆく。しかし花も鳥も人も宇宙をめぐる天体と同じようにみな不易なるものが時とともに流行する姿ではないのか。
では、たえず流れ、移ろう世界を人はどのように生きてゆけばいいのか。この大問題に対する芭蕉の答えが「かるみ」でした。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
<第三部の代表的な句>
閑さや岩にしみ入蝉の声
雲の峰幾つ崩て月の山
暑き日を海にいれたり最上川
荒海や佐渡によこたふ天河

第四部(市振〜大垣) 人間界の旅
市振の関のあと、「越中路」「金沢」「多太神社」「那谷」「山中」「全昌寺」「汐越の松・天龍寺・永平寺」「福井」「敦賀」「種の浜」と見出しが続き、旅の終着地「大垣」で終わるのが第四部である。
長谷川氏は第四部を「人間界の旅」と位置付ける。
さて海岸の難所を通り抜けてたどり着いた市振で芭蕉と曾良は二人の遊女と同じ宿に泊まります。新潟からお伊勢参りにゆく途中らしいのですが、見送りの老人ともここで別れるらしい。夜が明けると、あまりの心細さに僧の格好をした芭蕉と曾良にいっしょに連れていってくれと涙ながらに頼むのです。しかし芭蕉は無情にも遊女たちの願いを断ります。
市振で遊女と同宿したこの話は実際にはなかったフィクションです。なぜ芭蕉は話をこしらえてまで二人の遊女をここで出したかったのか。
遊女とは海原をただよう小舟のように浮世の荒波にもてあそばれながら社会の最底辺で生きる女たちです。浮世のつらさをいちばん身にしみて知っている。
仏教では長い間、女は罪深いので救われない、極楽往生できないとされてきました。さすがに芭蕉の時代には女も救われると考えられていたはずですが、女は罪深いという考え方は一貫して変わりません。その罪深い女のなかでもっとも罪深いのが遊女と考えられていました。芭蕉はここで遊女を登場させて浮世の旅を象徴する幕開けにしようとしたのです。
それにしても芭蕉の筆が冴えているのはここからです。かりに芭蕉が遊女たちの願いを聞き入れていたら人情話で終わっていたはずです。ところが芭蕉は「只、人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」とそっけなく断ってしまう。この非情な仕打ちによって遊女たちのあわれさはいよいよ深まることになる。「哀さしばらくやまざりけりし」とあるとおりです。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
遊女との出会いと別れの他にも、第四部にはさまざまな別れが描かれる。
- 一笑との別れ(金沢)
- 曾良との別れ(山中)
- 北枝との別れ(天龍寺)
- 大垣での別れ(大垣)
こうした別れの末に芭蕉がたどり着いた境地が「かるみ」である。
こうした別れの悲しみや苦しみに満ちたこの世界を人はどのように生きていけばいいのか。これが『おくのほそ道』第四部の旅をしながら芭蕉が問いつづけていたことです。その自問の果てに芭蕉がたどり着いた回答が「かるみ」でした。では「かるみ」とは何なのか。
「かるみ」とは一言でいえば悲惨な世界を軽々と生きてゆくということです。すでにみたとおり芭蕉は第三部の旅で不易流行という考え方にたどり着きました。
「かるみ」とはこの不易流行という認識の上に立った人生の生き方、つまり行動論なのです。人の世が出会いと別れを繰り返しながら、そのじつ何ひとつ変わらないのであれば、出会いや別れに一喜一憂することなく、不易に立って流行を楽しみながら軽々と生きていきたいという芭蕉の願いなのです。
芭蕉は『おくのほそ道』の旅を終えてから本格的に「かるみ」を説きはじめます。たしかに本文では「かるみ」について一言も触れていないのですが、『おくのほそ道』の旅の途中どこかで芭蕉は「かるみ」に行き着いたことになります。
私はそれは第四部の金沢であると考えています。なぜなら「かるみ」が第三部で生まれた不易流行を土台にした考え方であり、金沢の次に訪ねた山中温泉では「かるみ」の対である「おもし」という言葉を芭蕉が使った記録が残されているからです。芭蕉は金沢で一笑の死を知り、慟哭の一句を詠みました。「かるみ」の誕生の地として考えられるのは金沢しかないのです。
いずれにしても「かるみ」は数々の別れが描かれる『おくのほそ道』第四部で徐々に形を整え、旅の終わりとともに姿を現したことになります。
この世界にはさまざまな別れがあふれています。その重い現実を嘆いてばかりいず、むしろ微笑の心で軽々と生きることこそがほんとうの「かるみ」を生みだすのです。生き方や心の「かるみ」が言葉に表れると、言葉も軽くなる。生き方や心をそっちのけにして言葉だけ軽くしようとするのは「かるみ」ではなく軽薄なだけです。
しかしながら『おくのほそ道』第四部の芭蕉の句は「かるみ」どころか、一笑の死を嘆いた「塚も動け」をはじめ重量級の句が並んでいます。芭蕉が「かるみ」に気づいていても、まだ句に反映させるまでに熟していなかったからです。
「かるみ」がやっと句に表れるのは最後の大垣のくだりです。
露通も此みなとまで出むかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其外したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤の ふたみに わかれ行秋ぞ
「蛤の」の句、私はこれから舟で伊勢の二見が浦へ向かうが、君たちとの別れは蛤の身が蓋から引き裂かれるようにつらいというのです。「ふたみ」に蛤の蓋身と二見が浦をかけています。内容は重いのですが、言葉は軽々としている。これを旅立ちのときに江戸の門弟たちとの別れを惜しんだ、
行春や鳥啼魚の目は泪
この句と比べると、「蛤の」の句のほうがずっと軽やかです。二つの句を並べると、『おくのほそ道』の旅で芭蕉が最終的に得たものが何であったかがよくわかります。
芭蕉は元禄七年初冬、大坂で亡くなります。古池の句から八年、『おくのほそ道』の旅から五年後のことです。しかし芭蕉晩年の八年は豊穣な歳月でした。そのうち『おくのほそ道』後は「かるみ」を求めた五年でした。
芭蕉が『おくのほそ道』の旅を終えて都に上るや否や、蕉門の俳句は一変した。それは芭蕉が『おくのほそ道』の旅から「かるみ」を持ち帰ったからです。「かるみ」こそが『おくのほそ道』のいちばんの旅みやげでした。
引用:長谷川櫂「松尾芭蕉 おくのほそ道」より
「かるみ」とは、不易に立って流行を楽しみながら軽々と生きてゆくという生き方。
本を読み終わっても、私にはまだ「かるみ」の本質はまだ理解できていない。
<第四部を代表する句>
塚も動け我泣声は秋の風
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

私の生き方は「かるみ」と言えるのか、それとも単に軽薄なのか?
多くのシニアを魅了する『おくのほそ道』に触れながら、私にはあまり響くものがなかった。
いつか芭蕉の真価を理解できる日が来ることを願って、精進を重ね、私なりのやり方で東北を旅してみたいと思う。