今日の東京は、雲に覆われ寒い1日になった。
朝からとにかく眠たい。

井の頭公園もすっかり冬景色、明日は雪が降るかもしれないという。
ベランダから外を眺めていると、七井橋の上にこんな人たちを見つけた。

晴れ着を着た新成人たち。
武蔵野市でも、新型コロナウィルスの影響で成人式が中止されたが、せめて晴れ着姿で友人と記念写真を撮ろうという若者たちが公園にやってきたのだろう。

私が二十歳の頃には成人式なんか格好悪くて出席する気もなかったが、今時の若者たちにとって成人式は人生の大きなイベントのようだ。
しかし今年は、コロナの影響で多くの自治体が成人式の中止を決定し、東京23区で式典を行なったのは杉並区だけだった。
とはいえ、多くの若者にとっては式典そのものが重要なのではなく、着飾って昔の仲間で集まって写真を撮ることが何より重要なのだろう。
それならいろいろ楽しみ方はある。

結婚式もそうだが、最近では成人式でも「前撮り」という文化が定着し、プロのカメラマンに依頼してモデルさんのようにポーズをとって写真を撮影してもらうらしい。
SNSで自らの写真を公開することが当たり前の世代にとって、インスタ映えする二十歳の晴れ姿こそが価値があるのだろう。

今日11日は鏡開きということで、朝、妻が湯豆腐の中にお餅を入れたものを食べた。
しかしその後も眠気が取れず、ベッドに横たわったままラジオの朗読を聴くことにした。
夏目漱石の「三四郎」。
この小説には、ちょっとした思い出がある。
あれは小学生の時だったろうか?
学校から読書の課題が出て、その時私が借りてきたのがこの「三四郎」だった。
当時の私は三四郎といえば姿三四郎のことだと信じて本を選んだのだが、冒頭を少し読んで間違いに気づき、すぐに読むのをやめてしまった。
なんとつまらない小説だろうと思った記憶が残っている。
それ以来、一度も読むことなく還暦を過ぎてしまった。
私はもともと小説を読むのがどうも苦手で、手に取る本といえば歴史やノンフィクションや実用的なものばかりだが、耳で聴くのなら映画やテレビドラマを見るのと変わらない。
そうして50年以上の年月を経て再会した「三四郎」は、明治時代の青春物語だった。
熊本から上京した真面目な青年が東京で風変わりな人たちと交流する様子が描かれるのだが、それは令和の若者たちとはもちろん、昭和に青春を過ごした私の世代のそれとも大いに違っていた。
明治時代の大学生は真のエリートであり、大学では俗世間とは一線を画したアカデミズムが尊ばれていた。
私が大学生だった1970年代の昭和は、授業に出るのはどことなく格好悪い行為で、学生たるもの「反体制」であり「大学の自治」を守ることが極めて重要だという風潮があった。
それに比べて今時の大学生はもっと従順で、授業にもよく出ると聞く。
成績や細々とした連絡が大学から直接親元に届き、親たちが入学式や卒業式に出席することも当たり前らしい。
どの時代がいいのかわからないが、若者というまだ形が固まっていない存在は、時代の空気を大人以上に吸収して育つ。

緊急事態宣言が出されても街の人出が減らないと言って若者たちを攻撃する論調も目立つが、若者というのはいつの時代もそんなものだ。
何よりも仲間と遊ぶのが楽しくて、それが彼らの生活の中心なのだ。
大人が毎日仕事に出かけるのと同じように、若者たちは友人と遊びに出かける。
私から見れば、今時の若者は実に聞き分けが良いと思ってしまう。
いつの時代も、「若者は馬鹿者」なのだ。
あまりに行儀の良すぎる若者は、むしろ将来が心配である。

新成人といえば、競泳の池江璃花子選手も去年20歳を迎えた新成人である。
昨夜、病と闘う彼女の姿を追った「NHKスペシャル」が放送された。
あまり面白い番組ではなかったが、彼女の運命があまりにドラマチックなので、病をどのように乗り越えるのかとても気になる存在だ。
番組の中で印象的だったのは、「オリンピックに出場できなくてよかった」と語る言葉だった。
絶対的なメダル候補として彼女にのしかかっていた日本中の期待、それからの解放された彼女ならではの本音だったのだろう。
しかし、仲間と共に練習に復帰するにつれ、持ち前の負けず嫌いが顔を出す。
闘病中の弱気が徐々に変化してきて、一歩一歩トップアスリートの顔に戻っていく。
どんな将来が待っているにせよ、心から彼女の努力を応援したい気持ちになる。

プレッシャーという意味では、昨日から始まった大相撲初場所も印象に残った。
24歳になった大関・貴景勝は今場所綱取りがかかる。
しかし、大事な初日に御嶽海に敗れた。

今場所前には、横綱・白鵬をはじめ5人の関取がコロナに感染していることが判明し、濃厚接触者を含めて16人の関取が休場する前代未聞の場所となった。
番付最上位となる貴景勝には、相撲界を牽引するという重圧もかかる。
何もかもが普通じゃないコロナ禍の生活。
異常な日常の中で、いよいよ受験シーズンが始まる。

先の見えないコロナ禍は、若者たちの人格形成にどのような影響を与えるのだろう?
三四郎の時代、私たちの時代、そして今の若者たち。
さらにいえば、若くして命を散らした戦前の若者たち。
それぞれまったく違う時代の空気を吸って若者たちは成長する。
時代は選べない。
しかし、その時代ごとに学べることはある。
テレビのインタビューに答えた一人の新成人の女性が、「どんな事態にも対応できる柔軟性のある大人になりたい」と抱負を語っていたのが印象に残った。
成人式のインタビューで「柔軟性」という言葉を聞いたのは初めてだ。
「日常が止まる」という過去の世代が経験していないコロナ禍の空気を吸った若者たちが、将来どんな社会を築いていくのか、大いに期待しつつ応援していきたいと思う。